第6話 勘違い
熊の襲撃は、とても恐ろしいものだった。
けれど、あの悲しげな声が耳にこびりついて離れない。
あれは、なんだったんだろう……?
そう締め括られた話に、ジョージは深く頷いた。ようやく合点がいったというように。
ジョージが座るソファの後ろで、話の途中で入室してきた人物が、お茶を持ってきたトレーを抱きしめてガクリと項垂れていた。
柔らかなそうなハニーブラウンの短髪に、合間から見え隠れする丸い耳。愛嬌のある垂れ目は、春の花園で蜜蜂たちがせっせと集めた蜂蜜みたいな淡い黄色をしている。
黒の軍服を着ているが、後ろに回ったら腰のあたりにフワフワの茶色い尻尾があるのかもしれない。
(これは……もしかしなくても、熊の獣人さんだろうか? ジョージ様と並んで遜色ないどころか超美形のルーシスさんと張り合えるレベルの顔面偏差値……獣人って、すごい)
熊は怖いが、獣人だとそう怖さは感じない。
もしかしたら、人外じみた美貌に恐怖が負けてしまうのかも、とエディは思った。
大きな体をこれでもかと小さくして、彼は分かりやすく傷ついているようだった。
お茶を持ってきた時、ひどく慎重な手つきでこぼさないようにおずおずと差し出してきたから、とても心優しい熊さんなのかもしれない。エディが話の途中で礼を言うと、パァァと表情を明るくして「飲んで飲んで」とジェスチャーをしてきたし。
(同族の話を聞いて、自分のことのように反省している、のか?)
エディはこっそり熊と思しき獣人を観察しながら、置かれていたティーカップに手を伸ばした。
少し冷めてしまった紅茶には蜂蜜が入っていたのか、優しい甘さがエディの口の中に広がる。
緊張に強張っていたエディの表情が、ゆっくりと解れていった。
あれほど嬉しそうに勧めてきたのに、熊の獣人はエディを見向きもしない。
(美味しいですって言ってあげたいんだけどな……)
きっと、獣人になって間もないのだろう。
慣れない手つきは、まるで子供の手伝いのようだった。
(こっち、見ないかな……?)
熊の獣人の形の良い唇は「怖い……怖いか……」と呟いている。
小さな声だが、その音の低さにエディは驚いた。
トルトルニアの男性はみな背が低く、反比例するように声も高い。ズンと腹に響くような音は、初めて聞くものだった。
「こちらも色々と不手際があったようです」
夢中になって、熊の獣人を観察していたらしい。
ジョージの声に、エディは慌ててティーカップをテーブルへ置いた。
「リディアさんに関する調査や、事前の説明不足。それにより、彼女はあなたに恋人のふりをするよう頼むに至った……と。今回、リディアさんがディンビエの方ということでディンビエ側にお任せしたのが悪かったようです。申し訳ない」
そう言うと、ジョージは立ち上がり、深々と頭を下げた。
年上の男性に誠心誠意謝罪されたことがなかったエディは、ジョージの態度に慌てふためく。
「あの……分かって貰えれば、大丈夫なので! その……出来れば、処罰とかは無しにしてくれたら嬉しいなって。だって、ほら、ルーシスさんもリディアも、今日は朝からデートだって言っていたし、なんかうまくいきそうだから! だから、その……お願いします。もし無理だったら、リディアのかわりに、僕が罰を受けます」
ガバリと勢いよく、エディは頭を下げた。
ジョージはエディの訴えに驚いたようだ。急いで上げたその顔には、そんなことは考えてもいなかったと書いてある。
それまでズーンと沈んでいた熊の獣人も、どうしていいのか分からないといった顔で、トレーを持った手を上げ下げしていた。
「顔を上げてください。ロスティとしても、あなたを処罰するつもりなんて微塵もない。リディアさんも然りです」
「本当ですか⁉︎ 良かったぁ……」
エディはパッと顔を上げた。
安堵した緩んだ笑みを浮かべたその顔は、少年というより少女のような柔らかさがある。
ああ、この子は女の子なのだ。
ジョージはその笑顔を見て、唐突に理解した。
斜め後ろで、バキィと恐ろしげな音が聞こえたが、彼は聞かなかったことにした。
少女の笑み一つで高価なトレーが一枚犠牲になるくらい、なんだというのか。
これでロスティ国の戦力が一つ増えると考えれば、安いものである。
それでも、トレーの価格を考えればそのまま放っておくのも微妙なところで、ジョージはチラリと鋭い視線を熊の獣人へと向けた。
彼の視線に、熊の獣人は慌ててペコペコと頭を下げる。
基本的に、熊の獣人は穏やかなのである。
力が強すぎるだけで、根は優しい。
但し、例外はあるのだけれど。
「しかし、その代わりと言ってはなんですが、あなたにご紹介したい人がいます」
「……はい?」
(眼鏡が光ったような気がしたけれど、気のせいかな……?)
エディは、ジョージの言葉に首を傾げた。
そうすると、そうでなくとも幼い顔立ちのせいで余計に子供っぽくなる。
ジョージは、少し心配になった。
十五歳には見えない幼さを持つ彼女が、果たしてこの話を受け入れることが出来るのだろうか、と。
けれど、事はすでに始まってしまったのである。
ジョージが出来るのは、手助けをすることだけ。
覚悟を決めるように、ジョージは眼鏡を押し上げた。
「あなたに恋をした魔獣がいます。名前は、ロキース」
「ロキース」
その名前を聞いて、エディは変な名前だと思った。
ロキでもなく、キースでもなく、ロキースなんて、なんか変。
そして、呼びづらいなとも思った。
「えっと、念のために聞きますけど。その獣人さんは、僕を男だと思っているのですか? それとも、女?」
男だと思っていたら、申し訳ないことこの上ない。
エディがどんなに頑張ったところで、その恋が叶うことはないのだ。
(だって、僕は女だから)
エディは、忘れてしまったのだろうか。
魔獣は、恋した相手の好みに合わせた容姿をとる。
それは、性別も含まれるのだ。
魔獣は、エディが女であろうと男であろうと気にしない。
求めるのはただ一つ。
恋した相手を幸せにしたい。出来れば、自分の力で。
ただ、それだけなのである。
魔獣の恋は、盲目的なのだ。
エディの質問に、「さぁ、どうなのでしょう?」とジョージは言った。
その視線は、背後の熊の獣人へと向けられている。
(え……まさか、その熊の獣人さんが、僕の相手なの⁈)
エディの驚いたような顔を見て、熊の獣人はしゃがみ込んでソファの後ろへ隠れてしまった。
ソファの裏からは、ボソボソと「怖がらせてごめん……」と聞こえてくる。
大きな体に似合わず、随分と小心者らしい。
ジョージが呆れたような顔をして、ソファの裏を覗いている。
「ロキース。少しは格好良くしないと、嫌われてしまうかもしれないぞ?」
「そっ、それは困る!」
ロキースと呼ばれた熊の獣人は、慌てて立ち上がった。それから、ゆっくりとソファの後ろから出て来る。
熊が怖いと言った後だからか、丸い耳は怯えたように伏せられていた。
「あの、ごめんね? 熊が怖いとか言っちゃったから、そんな風になっているのでしょう? あなたのことは怖いと思っていないから、怯えないでくれると、嬉しい」
エディが怖がらせないように出来る限り優しく微笑んでみせると、ロキースは酒に酔ったようにトロリと目を潤ませた。
フワフワと引き寄せられるようにエディのそばへ歩いていくと、まるで姫に忠誠を誓う騎士のように跪く。
近づいた視線に、エディの心臓がドキリと脈打つ。
だって、まるでお伽噺みたいだったから。
お姫様に憧れているわけではないはずだったけれど、実際にされるとときめかないわけがない。
近くで見たロキースの目は、蜂蜜みたいな淡い黄色にほんの少し緑を混ぜたような色をしていた。
(不思議な色……)
ずっと見ていると吸い込まれそうなくらい、ロキースの目は綺麗だ。
まじまじと見つめ返すエディに、ロキースも真摯に見つめ返す。
見つめ合う若者二人に、ジョージはこっそり拳を握った。
よし、そうだ。そこで、紳士的に自己紹介をしろ。
そんな声が、聞こえてきそうな雰囲気である。
だがジョージの願いも虚しく、ロキースは朴念仁であったようだ。
「……」
ジョージは見守った。
「……」
持ちうるすべての忍耐力を使って、待った。
「……」
ティーカップを持って、お茶を一口飲んで、それからティーカップをテーブルに置く。この動作を、三回は繰り返したと思う。
「あの……?」
エディの戸惑いはもっともだ。
跪かれたまま見つめられ、一言も喋らないとはどういう了見なのか。
どっちでもいい。
とにかく、喋ってくれ。
そんなジョージの願いが通じたのか、エディが戸惑いながらも口を開いた。
「えっと。あなたが、僕に恋をしてくれたの? 僕、こんな見た目だけれど、性別は女なんだ。もしも、男だと思っていたなら、ごめんね」
ごめんね、とエディは申し訳なさそうに眉を下げた。
心なしか、小首を傾げているようでもある。
あまりの可愛らしさに、ロキースは悶絶した。
見つめ返すだけで、心臓が止まりそうだ。
まさか、会って早々にこんな可愛らしいエディを目の当たりに出来るとは思わず、過ぎた幸福にロキースは天にも昇りそうな気分である。
彼は、大きな手で自分の胸をグワシと鷲掴んだ。
今なら、魔の森を流れる川で鮭を一万匹捕獲出来るかもしれない。
それほどまでに、エディの存在はロキースにとって大きかった。
(やっぱり、勘違いだったんだ……!)
顔を伏せてプルプルと震える彼に、エディがそう思うのは致し方がないことだ。
今更どうしようもないのに、彼女はどうしようとオロオロしている。
ジョージには、首筋を赤らめて悶えるロキースと、顔を青くして右往左往するエディがよく見えた。
ここは、魔獣保護団体の所員として、しっかりと仕事をしなくてはいけないだろう。
獣人の恋の応援は、彼の
「ロキース。エディタさんがお困りですよ。自己紹介でもしたらどうです? それから、彼女の質問に答えてあげなさい」
ジョージの声に、ロキースの肩がピクっと反応する。
慌てて顔をあげると、エディは不安そうに服を握りしめて顔を真っ青にしていた。
そんな状態に自分がさせてしまったのかと、今度はロキースが顔を青ざめる。
「すまない。エディタのことを、男だと思ったことはない。君は昔、髪が長かっただろう? 俺は、随分前から、君のことを見てきた……だから、間違いでは、ない」
エディは、ロキースの言葉に目をまん丸にして驚いた。
だって、エディの髪が長かったのは十歳の時までなのだ。
十歳のある日、ある事件をきっかけに、彼女は変わったのだから。
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