1-3 邪、魔、を、し、な、い、で

「よろしくお願いします。……よろしくね? よろしく? よろしく頼むわ? ……これではおかしいわね」


 俺が腰かけているベンチのすぐ後ろには、低い生垣いけがきがあった。生垣の反対側にも、背中合わせになるようにしてベンチが置かれているようだ。

 いつの間にか、そこに何者かが座っていた。ツヤツヤとした黒髪を生やす後頭部をこちらに向けている。

 彼女は俺に話し掛けてきたというわけではなく、明日の自己紹介にむけ練習にはげんでいるようだ。


 まさか背後に他人が――この俺が――いるとは露知つゆしらず。


「趣味は読書です。ありきたりかしら」


 彼女はため息をつきつつ、ブツブツとつぶやいている。


「あとは、ピアノを弾くことです」


 つい笑いそうになって、そでで口元を押さえた。他人のことは言えないけれど、平々凡々過ぎる。


 名前は野沢こころ

 趣味は読書にピアノ。

 「佐藤さん」がたくさんいるように、彼女と同じ趣味を持つ人間は全国に何万人と存在するだろう。

 ピアノは偶然後ろにいる自分でさえ、数年前まで習っていた。


 白黒の鍵盤けんばんの硬さと冷たさが指先によみがえる。再びコーラを口の中に流した。

 鍵盤の感触に続き、楽譜の端をぴりぴりと破いたときの音が耳の内側に再生される。

 伴奏部門で優勝した同級生に送られた拍手の、炭酸水の中でおぼれたみたいな、耳障りな音も。


「みなさんとお友達になりたいです。……まあ、こんなところよね」


 彼女はこれで自主練を終えるらしい。練習を要するような内容だっただろうか。

 しかし、聞いていて一番気になったのは内容の薄さではなく、真面目で取っ付きにくい話し方だった。入試の面接のような堅苦しさだ。

 なにを言うかより、どのように言うかを考えた方がいいのでは?

 お節介にも講評し、中途半端に残していたペットボトルの中身を飲み干してから背もたれに寄り掛かった。


 でも、わざわざ自己紹介の練習をするということは「この高校で友達を作っていこう」という気概きがいがある、ということだ。

 その点は自分とは大違いで感心する。

 仲の良い友達を作ってわいわいやる気力は俺にはもう無かった。教室の中で波風立てずに過ごし、たくさん勉強して良い大学に進学できればそれでいい。


 ……星盟せいめい学園中等部に合格していれば、高校受験も大学受験も必要無かったのに。

 明日正式にこの学校に入学するというのに、ついまたタラレバを考えてしまう。


 冷たい飲み物を一気に飲んだせいか、体が冷えてきた。そろそろ移動したいが、物音を立てて後ろにいる女生徒に気付かれると気まずい。彼女も自己紹介を盗み聞きされていたと思って気分が悪いだろう。

 どうしたものかとため息をつくと、一緒に「げふ」となかなかの音量のゲップが出てしまった。


「やば……っ」


 人間関係の構築に興味は無かった。とはいえ、初対面の女子に下品な音を聞かれるのは俺だってさすがに恥ずかしい。

 赤面しながら恐る恐る振り返る。さっきまで後ろにいたはずの女生徒は、すでに姿を消していた。


 セーフ!


 しかし、どこへ行ったのだろう。背後で人が動く気配を感じなかった。


「あれ?」


 立ち上がると、彼女のいたベンチの足元にピンク色のトートバッグが置きっぱなしにされているのを見つけた。忘れ物だ。

 周囲を確かめず一人で喋ったり、荷物を丸ごと忘れたり。自己紹介に「天然です」と付け加えたほうがいい。

 トートバッグは職員に届けてやることにした。

 生垣と生垣の間を通って反対側へと回り、そして思わず「あっ」と声をあげそうになった。

 去ったと思っていた女生徒がベンチで寝ていたのだ。生垣が邪魔で、横たわっていることに気付かなかった。


 寝顔を見て、さらに息をのむ。彼女が無防備に目を閉じているのをいいことに、つい凝視ぎょうししてしまった。

 ベンチに寝そべる「野沢心」の顔は、丹精込めて作られた人形のようだった。

 これだけ顔立ちが整っていればアプリで写真を加工する必要も無いだろう。

 黒く長い髪は指を通せばさらさらと音を立てそうで、細身の体にはこの高校の基準服であるグレーのブレザーがよく似合っていた。


「……?」


 見惚みとれつつも首を傾げた。

 この高校は私服での登校が認められている。「基準服」と呼ばれる制服はあるものの、明日行われる入学式のような日のみ着用義務があり、今日は私服でいいはずだった。


「邪魔をしないでくれる」


 閉じていたまぶたがぱちっと開く。


「えっ?」


 思わず一歩退いた。



「邪、魔、を、し、な、い、で、と言ったのよ」

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