4.夢であって欲しかった
まぶたを開けると、ユディの目に見慣れたひび割れ天井が映った。
(あれ……?)
朝陽が窓から差しこみ、ところどころ漆喰のはげ落ちた壁を明るく照らしている。
机とイス、ベッドとクローゼットを置けばそれだけでいっぱいの部屋。
元は物置として使われていたというこの小さな部屋は、ユディの寮部屋に間違いなかった。
ないよりマシという程度の固いマットレスから身を起こし、自分の状態を確認する。
着ている物は寝間着だ。
昨晩着ていた制服は壁に掛かっている。
立ち上がっても足は痛まなかった。
(夢?)
どこにも昨晩の災難の跡がない。
ユディはしばらく呆けていたが、隣室で明るい声がし出すと、着替えをはじめた。
そろそろ起床の時間だ。壁越しにルームメイト同士の楽しげな会話を聞きながら、一人身支度をする。
寮は二人で一部屋が基本だが、ユディにルームメイトはいない。
最初はいたのだが、ある日突然、ミゼルカがルームメイトのいない子がかわいそうだと言い出した。
寮生が奇数だったので、入学当時から一人部屋の生徒がいたのだ。
「くじ引きで決めましょ?」
一人部屋の生徒は一人の方が落ち着くとかなんとか言っていた気がするが、ミゼルカの強い博愛精神の下、くじ引きは強行された。
そして公正で厳正なるくじの結果、今度はユディが一人になったというわけだ。
ついでに部屋も狭くなった。
ルームメイトのいなかった生徒は二人部屋を一人で使っていたのだが、
「一人なのにこんな広い部屋いらないわよね?」
というミゼルカの発言で変わった。
ユディは生徒が多かった年に急遽用意された元物置部屋に移動にさせられた。
普通、ルームメイトの変更も部屋替えも一生徒の一存でできることではない。
しかし、ミゼルカがスペイド家に並ぶ魔法使いの名家、ダイア家の娘であることを笠に着るので、寮長も寮監も見て見ぬふりをするばかりだ。
ユディは部屋が狭いことはそれほど苦にしていないが、雨漏りやすきま風は辛い。
寮の管理人に修理をお願いしたが、はいはい、といい加減な返事をされたきり放置である。
四十過ぎの小太りな女性管理人は、暇を作ってはゴシップ誌を読んでいるような怠け者だった。
(まあ、代わりに好き勝手できると思えば)
ユディはぐるりと部屋を見回した。
すき間風対策やひび割れ隠しのため、部屋にはたくさんの幻獣のポスターやスケッチが貼ってある。
窓辺や机には幻獣のぬいぐるみやフィギュアがたくさん並べてあり、ユディの趣味全開の空間だ。
(ある意味幸せ幸せ)
前向きに自分に言い聞かせ、ユディは学園の夏用制服にそでを通した。
白いシャツに黒の袖なしワンピース、襟元にはリボン。
リボンは入学年度によって違い、赤、黄、青の三色が使い回されており、ユディの学年は赤色だ。
胸には校章と取得している資格のバッチ。
現界を表す赤い円と、幻界を表す青の円が∞型に配置され、中央に1の文字があるバッチ――初級召喚士のバッチを指先でいじる。
(この数字が中級の2になれるといいんだけど)
部屋を出て、ユディはすぐにミゼルカたちに出くわした。
一人が驚きの声をもらす。
「無事だ……」
ユディは昨晩のことが夢でなかったのだと知った。
「ねえ、昨日って」
「だれか言ったらもっと酷い目に遭わせてやるから!」
踏み出した足を、すかさずミゼルカに踏まれる。
「行こ!」
ミゼルカは友人の腕を取り、足早に去って行った。
他の友人たちも驚きと戸惑い、一抹の罪悪感をユディに見せながら去って行く。
「やっぱり私、山に行ったんだよね……?」
つぶやきに答えてくれる人はだれもいない。
ユディは首をひねりながら食堂に移動し、いつも通りに隅で朝食を取った。
周囲の生徒たちの会話が聞くともなしに耳に入ってくる。
「昨日の夜さ、なんか凄い咆え声しなかった?」
「したした! すっごいの。
あれ何? 俺の契約獣、超ビビって幻界に帰ってたんだけど」
「竜じゃねえ? だれか召喚したんじゃねえの?」
「まさかぁ。竜は気位高いから、俺らみたいな召喚士の卵のとこなんて呼んでも来ないよ」
「学園の人間じゃなくてさ。腕利きの召喚士が来てたとか。
俺らが呼ぶなんて無理だし、ムボーもいいとこ」
どこでも竜の咆哮が話のタネになっている。
ユディは戦々恐々だった。
他の生徒の言う通り、初級召喚士が竜を召喚なんて無謀もいいところだ。
制御できないので危なすぎる。
昨晩のことは夢であって欲しいと願った。
いつもより素早く朝食を終えて、北東棟前の校庭に向かう。
一限目は今日もカラハ先生の召喚実習だ。
手持無沙汰に授業が始まるのを待っていると、裏門から教師たちが入ってくるのが見えた。
「山に魔獣が?」
「どうもいるようです。この山に魔力溜まりはないはずなんですが」
夢でない証拠が続々と出てくる。
ユディが昨晩のことを教師に報告しに行くべきか迷っているうちに、実習が始まった。
「授業を始める前に一つ注意です。
裏山は今、安全とは言い切れない状態です。絶対に入らないように。いいですね!」
カラハ先生の言葉にざわめきが起きた。生徒が挙手する。
「先生、それって昨晩のものすごい咆え声と関係あるんですか?」
「現在調査中です。
今朝、先生方が山を見回ったところ、魔獣の死骸らしきものを発見したということです。
だれか学園の周辺で魔獣を見たという人はいますか?」
ユディは手を挙げかけたが、ミゼルカに睨まれた。閉ざす。
「だれか何か知っていることがあったら、私たちに報告してください。
それでは実習を始めましょう」
今日の課題はカラハ先生の作り出した
三人ずつに組み分けされる。ユディもだ。
一緒になった男子生徒も女子生徒も、すでに契約獣を連れているので気まずい。
「け、見学させてもらうね」
「召喚の練習してれば? どうせ今日も無理だろうけど」
「そんなふうに言うことないでしょ!」
ユディを邪魔そうにする男子生徒を、女子生徒が叱りつける。
女子生徒は「見て、アドバイスちょうだいね」と優しくいってくれたが、ユディは男子生徒のいう通り召喚に励むことにした。
初めから召喚をあきらめて傍観しているのも悪い。
いつも通り木陰に寄って、魔法陣を描く。
「開け、幻界の扉――」
ピクシーを思い浮かべて呪文を唱える。
魔法陣がいつもより強い光を放った。
ユディは目を丸くする。
こんなに強く光ったということは成功だ。
嬉しさに口元がほろこんだが、喜びは一瞬だった。
ピクシーは半身出てきたところで、すぐに幻界へ引き返して行ってしまった。
何かに怯えた様子で。
「俺というものがありながら、他に浮気とはいいご身分だな?」
背後から声を呼びかけられて、ユディは飛び上がった。
似たような年頃の黒髪の少年がいた。
制服を着ていないのでこの学園の生徒でないことは一目でわかる。
そもそも人間でもなかった。
頭には角が二本生えていた。
金の眼は鮮やかで金属的に光り、すべてを威圧するように鋭い。
「だ……誰?」
「竜だ。おまえが昨晩呼んだ。助けてやったのにもう忘れたのか?」
たぶんそうだと思っていたので、ユディは素直に現実を受け入れた。
やはり昨晩のことは夢でなく、自分は竜を召喚していたらしい。
あらん限りの感謝を込めてお礼を述べる。
「昨日はありがとうございました。本当に助かりました。来てもらえなかったら死んでいました」
「おまえ一人、何してる」
「私だけ幻獣がいないから召喚の練習を」
「俺が来たから、もう必要ないな」
竜は足で召喚の魔法陣を消し、ユディのクラスメイト達に目を向けた。
三人一組になってそれぞれ与えられたゴーレムと格闘中だ。
「あいつらは何をやってるんだ?」
「模擬戦。先生の作ったゴーレムを幻獣で倒すの」
「アホくさいことをやるんだな」
竜は人間から本来の姿に戻った。
すべてのゴーレムたちを尾の一振りで粉砕する。
突然の上位幻獣の出現にクラスが騒然となった。
「だれです、竜を召喚したのは!」
恐る恐る手を上げたのがユディだったので、カラハ先生は意外さに驚いた。
感心したように大きくうなずく。
「召喚に成功したのですね。初めてで竜とはすばらしい」
「いえ、これは昨日の夜で」
「昨日の夜?」
竜に驚いたのは召喚士の生徒だけではない。
他の生徒たちもで、校舎や塔から顔を出し、竜に興奮して騒ぎ立てる。
カラハ先生は、疑問はさておき事態の収拾に乗り出した。
「召喚ができたことは喜ばしいですが、高位の幻獣はまだあなたの手には余ります。
幻界へ帰しなさい。契約はまだですね?」
「まだです」
ユディが杖を握りなおした時には、竜は人の姿に戻っていた。
「開け、幻界の扉。汝、あるべき場所へ戻れ」
帰還の呪文を唱えれば竜の姿は消える――はずだったが、消えなかった。
もう一度試すが、変わらず竜はそこにいる。しっかり地面に影を落として。
「な、なんで……?」
「私がしましょう」
カラハ先生が杖を握ったが、すぐに取り落とした。
バチッと体に電撃のようなものが走り、地面に倒れてしまう。
「先生!」
「ひよっこ、おまえに正しい帰還の呪文を教えてやる」
ユディは竜に杖をつかまれた。
「どうぞお帰り下さいオセロ様、だ」
「どうぞお帰り下さいませ、強く気高いオセロ様」
より丁寧に唱えると、竜は機嫌良く去って行った。
幻界ではなく学内のどこかへだが。
「……んと、まあ。気の強い竜ですね」
倒れていたカラハ先生がゆっくりと起き上がる。
頭を振っているところから察するに、少し意識が飛んでいたようだ。
大したことはなかったようで、もう一度ゴーレムを作り出すと授業を続行する。
ユディは校庭の端で事情聴取を受けることになった。
「裏山に見知った幻獣が迷い込んできているような話を聞いたので、どうしても会いたくて。夜、勝手に裏山に入りました。
そしたら魔獣と出くわしたので、とにかく強い幻獣と思って召喚を」
「で、竜が来たのですね。なるほど。昨晩の咆哮はその時のものでしたか」
「すみませんでした。本当に。反省しています」
ユディはついでに、裏山に幻界の扉が開くことはあるのか聞いてみたが、答えは否だった。
ミゼルカの話はすべて作り話だったらしい。
シロとの再会はまだ先になりそうだ。
胸につっかえていた魔獣の話ができ、疑問も解決してすっきりしたが、不安の種は尽きない。
ユディは両手を握り合わせた。
「先生、どうしたらいいんでしょう?
帰還の魔法が効かないなんて。どうやって帰したらいいんですか?」
「ミス=ハートマン、落ち着いて。よく思い出しなさい。
召喚士との契約がない限り幻獣は――?」
「現界には長く留まれない。自然に幻界に帰る」
召喚獣の基本を思い出し、ユディはほっと胸をなでおろした。
「帰るまでに竜が何かしないか心配ですが。
学長に報告して、学園の結界を強めるよう頼んできます。
竜が外へ出て騒ぎを起こすことだけは防げるでしょう」
「よろしくお願いします」
ユディはきょろきょろあたりを見回した。
(どこいったんだろ?)
授業後、一日中学内を歩き回ってみても、竜の姿は見当たらなかった。
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