第45話

「あ・・・あの」

 私はとりあえず、その人の前に出た。

 ちょうど、紫宸殿から出て、植え込みのほうに歩いて来たので、人がいないのをこれ幸いに、話しかけた。

 すらっとして背の高い、細身の男性だ。

 出たは良いものの、何を話していいか、分からない。

「来ると思っていた。大納言様のところの、椎子様だろ?」

「私のこと・・・」

「知ってる。琴の練習で、君の家に行った時、君と会ったよね、覚えてない?」

「あ・・・はい」

 私も多少、見たことがあるのだ。だから、顔が分かったというか。はかなげな表情と涼しい目元。子供心に賢そうな人だと思ったのは、朧げながら、憶えている。

「後宮に入ったと聞いたから、近い。だから、いつか、来ると思っていた」

「だったら、こんな場でこんな格好だから、単刀直入に言うけど、あなた、姉とどうするつもりなの?」

「どうって、今更、何を聞くんだ?」

「姉と駆け落ちする気なの?」

「まさか。翠子殿とは確かに僕は、師匠と弟子という関係だ。でも、それは翠子殿が子供の頃までのこと。今は僕は内裏に勤め、近衛府で帝の身辺をお守りする役人。近衛府の者にとっては、帝は何においてもお守りせねばならぬ存在だ。何においても、主上が第一。その目的以外、誰も知らない。その僕が、帝の想い人である女人と駆け落ちするなんて、そんなことをするわけがない」

 清原中将が大笑いする。あまりに笑い過ぎなので、いったい今が何の話をしているのか、勘違いしたほどだ。

 感情が感じられない冷たさだった。

「僕は近衛府の役人、何においても、主上が大事だ。帝の想い人である女人と駆け落ちなどするわけがない」

「でも、姉上はあなたと駆け落ちするって言っています」

「君の姉さんとは、僕は何でもない。僕には他に付き合っていた人もいた。もう別れたけど・・・もともと、僕と姉上との間には何もなかったんだ」

 何も一切の、感情を感じない。

 もしも、姉が本気で惚れた人ならば、こんな冷徹な人ではないと思うのだが、それすら片鱗もない、冷たさだった。

 私の中には、姉の純愛というイメージが強かったので、今聞いたのが何だか信じられなかった。

「そうなの?本当に姉のことは、いいのですか?」

「言ったろ、僕は朝廷の番人。帝をお守りするのが役目。その僕が、帝を傷つけるわけがない」

「でも」

「これから、僕は職を辞すつもりだ」

「辞す?職を辞して、どうするつもりなのです?」

「勘違いしなくていい。己のためにだ。帝をお守りする大役を与えられながら、職を完遂できなかった。これからも、まっとう出来そうにもない。こんな近衛兵は失格。自分の能力に不足を感じたから、辞める。職を辞すのだ」

「でも、そうしたら、あなたは・・・」

「田舎にいる父の元へ行く。父ももう高齢だからね。田舎の良い娘でももらって、年老いた父母の面倒を見ながら、余生は静かに暮らすよ」

「そうしたら、あなたはどうやって生活して行くのですか?」

「畑でも耕すよ、何も心配ない。少なくとも君に心配されることではない」

(嘘だ、この人、嘘を言ってる)

 知らぬ存ぜぬで、他の女と結婚して、姉のことなど関係ありませんとでも言えた。でも、保身や責任逃れなどは今までしてない。これからもする手はずも整えてない。

「なぜ今になって、あなたは決めたのですか。本当はあなたも迷っていたのでないですか?あなたも、姉と別れるのが嫌で」

「大それたことを言うものだ。僕が帝の片思いの人に思いを寄せるものか。僕だって人の子。僕は己の出世だけを考えていたから、手に入れた職を辞すのがもったいなかっただけだ」  

 道臣も言っていた、近衛府は出世街道なのだと。それを捨てて、田舎に引きこもるなんて、エリートのやり方だろうか?

 清廉潔白なら、何ら恥じることなく、出世街道で堂々としていればいい。何なら優秀さを使い、言い訳し、立ち回ればいい。何も自ら一番、損を被るやり方で決着をつけずとも良かったはずだ。

 最も自分が損失を得る方法のほうを選ぶなんて、そんなこと下男でさえしないやり方だ。でも、この人は近衛府の中将を勤める人であり、何ら仕事に問題はない。

 万一、何かこの人に問題があったり、他に問題を抱えていたりするとも考えても仕事の出来ない人ならそこまで出世しない。もっと賢く立ち回ることも出来たはず。たとえ家柄があっても、そこからは実力次第なのだ。

 それもせず、私らがもっとも救われる方法で、己が最も損失を被る方向へ進んだのは、この人がわざと、自ら、責任を引き寄せたからに他ならない。

 帝に対抗したら、姉も姉の家も無事では済まないし、清原中将殿の実家にも余波が行く。もちろん、駆け落ちされたら、全体的にどういう処分が下るか・・・

 それを見越して、中将殿は全部の責任を取って収めてくれるのだ。

 そこまでしてくれるのは・・・あなたが、本当は優しい人だからでしょう。

「そこまで姉のためにしてくれるのに・・・あなたは、本当に姉を諦めて良いのですか?」  

 去って行こうとした清原中将は、私を振り返った。

「これ以上、どうしろと言うのだ?あまりに多くの求め過ぎなのだ。君たちは・・・僕に出来ることは、わずかだ。朝廷で権力を持つ者に比べて、この世ではあまりに少ない。僕にはこれ以上何もない、することも出来ない。ただ、幸せにはなって欲しいと思っている。君の姉上は良い人だ。帝と彼女の幸せを祈るよ。僕に出来ることはそれだけだ」

「でも・・・本当にあなたは」

「何も心配ない。もう終わりだ。僕のことは気にしなくていい」

 中将殿は去って行った。

 姉のために、己を捨てて、姉のことを守った。うちのことも。そして、己だけが損をして、責任を被って、去っていった。

 たぶん、姉が思った通りの人、姉が本当に愛すべき尊敬すべき人だろう。

 きっと、他に女がいたってのも、嘘でしょう・・・




 子供の頃は良かったな。

 春は桜。

 薄い淡い桃色の花びらが舞い散る。

「綺麗だ」

 まだ東宮に叙せられていない清流帝は、君麻呂の君と呼ばれ、桜を見る姉と共に、桜を見ていた。

 引っ込み思案の姉は久しぶりの鴨川の桜見物と言っても、こわごわで。

 大きな桜の木の下で、白い桜の天蓋を怖そうに見ていた。

「とても、綺麗だ」

「そうね」

 君万呂の君と言えば当時から博識の英明さで讃えられていたけど、姉を誉めているのか、桜を誉めているのか。その当時から、分からなかった。

 姉はまるで気づかず、落ちてくる花びらに手を伸ばす。

 手の平の上に、桜の花びらが落ち、ゆらゆらと揺れた。

 青い鴨川の水の反射がきらきら、綺麗。

 その日は天候が良くて、気持ちの良いお空と空気がいっぱい、川の上に広がっていた。 

 私ら、右大臣家に続く藤原家の貴族の娘や息子たちは、桜見物にこぞって出かけていた。

「本当、綺麗ね」

 その頃、中務卿の一の姫君である桔梗の君も来ていて。

 ゆくゆくは、姉と君万呂との寵愛を競うことになるのでは?と侍女たち連中から言われながら、いっしょに白っぽい桜を下から眺めていた。

「椎、こっちよ、椎」

 姉が元気にしゃぎまわっている横で、私はといえば・・・。

「ううむ、この虫は初めて見るわね」

 私としたら、桜などほったらかしで、草に生える緑色の芋虫が、どこへ行き、どうなるかが気になったり、見たこともない雑草の花が黄色い花を咲かせているのが気になったり、ものの名前を探していた。

 だって、花や虫には、何でも名前があるもの。

 だから、京の河原に生えた桜の並木の下でも、桜にも気を止めず、地面に近い草ばかりをひたすら見て、名前のあるものを探していたの。

 しりたがりの椎。

 なぜ、どうしてばかり言うから、知りたがりの椎の君。

「何しているの、貴族の娘はそんなことしなくていいのよ」

「どうして?」

「だって、あちこち顔を突っ込んでせわしないし、汚いものでも平気で掴んで、ほら見て、こんなに手が汚れてるわ」

 子供の時の姉は、まだ生き生きとして、一族の姉として、妹を率いる気持ちは持っていた。

「はあい」

 私も素直にその言葉を聞いて、安心して姉に付き従っていた。

「椎はね、もう、相変わらず、知りたがりなんだから」

 子供の時分にして、もう私はそういう名前で呼ばれるようになっていた。 

 そんな私の頭を、つんっと姉は指でつついてからかった。

「あー、やったな」

「ここまで、ついて来てごらん」

 子供の頃は、姉と私は、無邪気だった。

 いつまでも、そんな時が続くのだと思っていた。

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