第44話

「あーまた、にまにましてる」

 ということで、道臣のことをまた一つ分かった私は、顔の緩みが止まらなかった。 

「ありがとう、椎子殿、出てこれましたえ」

 そういう時に、長池殿は元気いっぱいで、疑いが晴れて外に出てきたものだから、私らもやれやれと重い腰を動かしたのだった。

 一応上役・長池殿は、私らを指導管理する係。

 だが、私を妃と思い込んで以来、何か妙な気回しをして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるようになった。

「長池殿もお元気そうで、安心しました」

「こちら、新しいいえついもです。こちらの包みは、蒸しイモにして来ました。残りは外においてありますので、蒸すなり茹でるなり、どうぞお好きに」

「ありがとうございます」

 私の家の付け届けもあって、私には随分、恭しく丁寧に接してくれる。手下は狂暴だけど、いや、長池殿自体も決してなおやかな女人でもないけど、一番狂暴ではあるけど・・・いざとなったら助けてくれる、頼りになる後宮の上司。

 私の部屋に来て、元の自分を取り戻したので、満面の笑みだ。私も一生懸命付け届けや食べ物に気を配っていたせいか、痩せてもおらず、むしろ閉じこもっていたせいか、肉付きが良くなって、元気そう。

「外に出て来れたのは、ひとえに椎子殿のおかげじゃ。ようやく私も外に出てくることが出来た。椎子殿が帝の御寵愛高く、朝廷からの信頼もあるからじゃろうな。帝もぞっこんのようじゃな。大納言殿はほんに、良いご息女をお持ちじゃ。これはもう出世間違いなしじゃな。この長池、これからも椎子殿がつつがなく、後宮で帝のお目に留まるように働きますよって、何でも相談してくださいませね」

 いくら付け届けがあっても、これは私が一心に期待を受けているのだろう。

 う、ぐう、嬉しいけど・・・違う。帝とは何もなんでもなかったんだって、何度も言ってるけど。

 この期待を裏切ったら、いったい私どうなるの?もともとの厳しい長池殿を知っている分、怖いわ。

「椎子殿、世継ぎを産みなされ、世継ぎを、そうしたら地位は盤石。尚侍、更衣、いえ、女御まで取り立てられたら、栄華を極めますわ。その時は、この長池を忘れずにいてくださいましよ?」

(まったく、このまま、帝の妃などというものになってたまりますか。世継ぎまで求められる。そんなの、絶対いやよ)

 こっちは頭の中は師匠の物語でウキウキ天国だけどね、下では地獄が釜口開けて、飲み込もうとしているの。

(もう、楽しいことが多い反面、ストレスも多いところだわ)

 私の周辺が考えていることを、他が考えてないわけがなく、寵愛争いだけでなく、世継ぎを産む争いまで、後宮でどうのこうの、揉めてる。お世継ぎ問題が再燃したらしい。例の蹴鞠の会がきっかけ、てのもある。

 あれ以来、後宮の争いが増している久理子の言うように、確かに。帝が意中の女性を言い出すかと梅壺女御も焦ったし、お世継ぎ争いも起こってるのは間違いない。

 子供って、まあ、後宮ってそのためにあるんだけど、こればっかりは運みたいなものもあるからさ。

 子宝の薬だの、どこの寺の祈願だのと、各部屋で競い合いみたいになり、こちらはまた、目ざわりにされて、前を通るだけで文句を言われる始末。

 やっぱり、あいつのせいなのよ、すべての災難はあいつのせいで起こってるのよ。

 なんか、わざわざ波風立てるために、あんなことやったのでないかって思えてしまうわ。

「それにしても、何か大納言様の実家で何かあったのでしょうか。どうやら、主上とのやりとりで、もらったものを返さないとか、返すのがどうのやり取りがあったとか、その後、大納言様は、チュウとかジョウとかを何やら、ぶつぶつ言われておりましてな。チュウとジョウの、官吏の位でもつけかえる問題でもあったのですかいな?その後、もう終わりや、うちはもう長いことありませんとか嘆いておられて、あとはもう、神頼みだの、口惜しいだの、心残りだの、ぶつぶつと、お体に何か不安でもあります?長池家は、大納言様の一族に仕える忠義の家臣でありますから、心配です。この長池、お薬でも何でもご用意しますよ。大納言様がお悩みであるなら、良い寺にツテがありますので、そちらで御祈祷をさせておきますからね」

 はて。

 椀の盛り付けでも、悩むことでもあったのかしら?ちゅう、じょう・・・

 うちに忠義と言ったって、長池殿は右大臣にも梅壺にも仕えているでしょう。そのために、付け届けもあちこち配って、そのおかげで、今の地位がある。

 まあ、それはそれとして・・・

 私はふと思い出したのだ。で、絶望した私は、長池殿の後半の言葉は私の耳に入らなかった。

(中将?)

 と・・・

 私はその時、気づいたのだ。改めて。窮屈な後宮生活も、クズ帝の迷惑も忘れて。

 とんでもなく大事な、飛び抜けて、抜けていたことを。

「ねえ、久理子殿、中将って言ったら、な、ななな、なん、ななな、え、な、何だったかしら?」

 長池殿が帰ってから、私は痺れた体で手を伸ばして聞いた。そばで洗濯物を取り込んで来た久理子は、手を止めずに答える。

「え?何って?椎子殿、ちょっとボケたのですか?中将といえば、そりゃ、近衛府の中将じゃないですか。近衛府には大将、中将、少将があって、その中将ですよ。後宮に来て、もう知ったと思ってましたが、それ以外何があるって言うんですか?」

「そ、そそそそ、それって、あの近衛府よね?帝の身辺を警護するあの。帝の身辺にいて、この内裏にいて、帝の警護をする?」

「内裏で帝の身辺を警護するのが仕事ですので、この内裏にいて当然です。あの方らの仕事と言えば、おそばに仕える仕事ですから、そばにいなくて、どこでやれと言うのですか?離れた場所では、いくらやっても帝にお仕えできません。そばにいないと、帝の警護も出来ません。帝の身辺を警護する仕事なのに、遠く離れていては、守れませんわ」

 私は洗濯物を天井に飛ばして、ぶっ倒れかけた。

 中将って言ったら、帝の身辺警護のそれも上の役職。

 つまり、帝のすぐ横に、姉の想い人がいたってわけ?



 よりにもよって。

 私が采女の格好をして、紫宸殿の庭に入り込み、植木の影からこっそりと覗いた時、その中将なる者は、清流帝の横に座り、何やら盆に乗せた飲み物を差し出しているところだった。

「そういえば、午後からの大臣の話、まだ朝堂で聞くのだっけ?」

「は、そのように聞いております」

 私は思わず、くらっとした。

(ちょっと、何をアットホームな雰囲気で、長年こなれた老夫婦のようなやり取りしてるのよ、この危機に)

 近衛府は主に帝の身辺を警護する役職で、帝の身辺を守るため大勢が日勤や宿直を交代で守っている。帝をお守りする最後の砦、もっとも身近な警護役。重要な役職だ。

 その近衛府の首座に立つ者は大臣や参議なので、うちの大納言の父なども兼任されてもおかしくない立場なのだが、もちろん、我関せずの大人しい父ゆえ、兼任の栄誉など与えられることなく、ほかの三位の位の者が兼任している。そういう帝の身辺にいる重要かつ肝心要の場であり、中将や少将という役職は将来、帝の側近になる者に与えられる。

 雪風人も同じエリートコースに乗っていると道臣も言っていたのが、この部署は帝の身辺に侍従するので、たいてい覚えめでたい者、家柄の良い者で固められている。

 ああ、考えるのは、怖ろしい。帝がもう、知っている可能性は大だ。そう考えると、知りながら知らぬふりで、高飛車の見物と言える。

 しかし、姉とのことはごく一部の人間しか知らない。姉が単に言っているだけかもしれないし、だから、あの執拗なことをする帝でも知らないってこともある。でも・・・

(終わりだ、こんなところに、いた、ああ、どうしよう。どう?どうしたらいいの、こんな状況)

 その時、その中将が紫宸殿から外に出て来た。何やら、用事があってどこかに行くようだ。

 私は周りをきょろきょろと見た。

 私らは侍女風の格好をしているから、紫宸殿の周りにいてもおかしくはない。けれど、知り合いや、見た目で見抜く鋭い人らがいたら、バレるかもしれない。見つかったらすぐ、帝に連絡が行くだろう。このあたりで、後宮の女人のことなど知る者はあまりいないから、まあ、いける。知り合いがうろうろせぬことを祈る。

 後宮勤めで学ぶことは多いけど、半分、好きなことやって楽しんでいるから、あまり誉められたものではない。

 身代わり以外、何も出来てない今、姉の困り事には、全力で妹の私が助けてやりたいのだ。

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