第16話
心やすく身もやすらかなるは是れ帰するところ・・・・
故郷はなんぞひとり長安に
余に問う 何の意ぞ 碧山に
笑うが答えず 心自ら閑なり
桃花流水 杳然として去る
別れて天地に有らず 人間世にさえも非ざり
桜がちらちらと舞い落ちるがだんだんと静まっていくのを眺めていたら、突然、私の前に白い衣装を来た舞人が現れた。
先ほど、舞台で踊っていた一人だ。舞台が終わって、降りて来たのだろう。
貌半分を覆う仮面を被っている。
これは・・・夢?
若竹の君がここにいるなんて。
茫洋とした月明かりの下、桜の舞い散る夜闇、柔らかい風の中、風流で風変りな衣装を来た異国人のような人が立っている。
まるで、本当にあの出会いの場面みたい。
蓬莱山を頂きを訪ね歩いて、ようやく若竹の君は天女と出会った時のように、花の吹雪が舞って、相手以外、誰も見えない。
これは夢?
「これは夢?・・・君は本当にいるの?」
「いるわ、ここにいる。あなたは・・・?物語の世界から飛んで出て来た人なの?」
私と同じことを思っている。
確かにここにいる。これは現実。でもこの人は?私があんまり願うから、本の中から出て来た人なの?
「いや、僕は人間だ。君は天女?」
「え?て、天女?そんな畏れ多いわ」
でも、いきなり、何を言っているのかしら。この人。天女って、ここ日ノ本よ?ちょっとおかしくない?
いきなり、恥ずかしいけど、直言をはばからない人って初めて。誉めてくれてるの?としても、いきなり天女は誉め過ぎで、無理。
「これは現実ですよ。夢ではありません」
「そうなのか。でも、もしかして、君が天女でないかと思って」
「そんな、比べ物にもならないわ」
いきなりの漢詩の口ずさみも、世間ずれしている。これが元遣唐使なの?旅とか、異国へ行って、夢とか現実とかがごっちゃにしてない?本当にどこから来た?って思ってしまう。
でも、私も飛んで出て来たの?て思わず聞いてしまった。自分のことは棚に上げるとはこのことよね。他人のふり見て己を直せというけど、反省するわ。
「私は単に、知りたがりの椎と言われている、節操のない女なんです。父上からも姉上からも、騒がしい女子とも言われる人間です」
「知りたがりの椎?」
「少なくとも父母にも、姉にも、西松にもそう言われて育ちました」
「君が、そうか」
宮中ってのは、距離を取れだの、本当のことは言わないようにしろと言われる所だ。
匂わせるだけにして、終われとか。ややこしいばかり。特に後宮のしきたりや作法は厳しい。
でも、若竹の君と思われる人は、大らかな人だ。ちょっと抜けてるというか、夢見がちというか。だから、しきたりや決め事の細かいことを気にせず言える。昨日も助けてくれた。
「あなたは?」
「ああ、僕か」
男は慌てて、頭の上に載せていたの仮面を取り去って、髪を直した。
「昨日も会ったね。改めて、自己紹介するよ。僕は忍坂道臣、この前唐国から戻って来たばかりの元遣唐使。今は
「私は、藤原椎子です。昨日は、助けてくれて、ありがとう」
「無事に元に戻れて、良かったね」
「でも・・・見逃してくれてたのは、どうして?」
「まあ、宮中は事件や騒動がいろいろあるし、でも、君は悪いふうには見えなかった。だから、衛士などでは乱暴振る舞いをする者もいるから、捕まっては駄目だと思ったんだ」
あの時、融通してくれなかったら、私は確かに、とても困ったことになっていた。衛士に捕まって、不名誉な罪状をつけられ、犯人にされ、家名に傷をつけたかもしれない。
この人は当然のごとく、私を守ってくれた。一気に内裏や官吏を飛び越え、周りの目とか、規律とかを気にせず、己の良いと思ったことが出来る人なのだ。若いけど、心の大きさがある。だから、どっしりとした貫録みたいな大きいものも感じる。大きな木みたいな安心感がある。
「遣唐使ってどういうことをするの?」
心があったかくなって、自然と聞いてみたくなった。
「そうか。君が知りたがりの椎の君か」
若竹の君はくすっと笑うと、答えてくれた。
「簡単に言うと、唐の国へ朝貢して、尊い経典をもらって来る仕事だ。でも、船の道はとても厳しく、僕も何か月も漂流したんだ」
「漂流?漂流とはどのような」
普段、聞くことがない言葉に私は好奇心を刺激され、思わず食いついていた。
その後、忍坂道臣はつぶさに語ってくれた。
対馬のルート。その周辺からの難破、漂流。
島での生き残《サバイバル》り生活。船を組み直して、島を脱出し、唐まで行った話。唐での留学体験。通訳の仕事。唐の皇帝との謁見。再び、帰還時の遭難、漂流。
筑紫の漁師に助けられたこと、無事に都に戻ったこと。
など、何か月もの漂流、数年に及ぶ旅の話を、じっくりと。
その珍しさ、危機感、凄まじさ、迫りくる飢餓、恐怖に、私は心底、夢中になった。
「へええ。なんていう、怖ろしい、危険な」
難破、漂流、飢餓、異国・・・迫りくる死の危機、越えても新たに立ちふさがる天候の壁、自然の災厄の中をどう生きるか、そこに人間の知恵がひらめく。そんな話題、耳に入ったことがない。新しい、珍しい、戦慄する。でもわくわくする。
「よくそれで、帰ってこれたわね」
「まあ、何となく。一日一日が大変だったけど、船旅はそれで、けっこう続けられるものなんだ」
「へえええ」
私は改めて、遣唐使忍坂道臣という人に感心した。
(そう言えば、遣唐使って感じがする。なんだか人と違う世界を見て来たって雰囲気がする)
本物の若竹の君?か分からないけど・・・。
彼のしてきた旅は未知との遭遇、生きていた時間は旅の歴史と空間。 ほんとに物語の登場人物みたい。
(いいわね、これが夢ならずっと夢でいい。私は死んだかもしれない。でもそれならそれでもういい。ここから帰りたくない)
「な、なんだい?そんなに興味深かったかい?」
「えっあ」
私はぐいぐいと興味本位の視線で近づきすぎていたようだ。忍坂道臣はあまりに私に見られてのけ反った。
「右少史殿はまるで物語みたいな話を、通って来ているのね。旅人ってすごいわね。うらやましい。私もそのような冒険や旅をしてみたいものだわ」
「出来るなら、連れて行ってあげたいけど、船旅で何か月もかかるし、女の人は厳しい旅だよ、それでもやりたい?」
だからなの?私のこと・・・天女って言ったのは。
自分で言うのも恥ずかしいけど、異国の地から来た男だから?
(右少史殿は、確かに、少々変わった人間かもしれない。長い旅をして来た人だし、初対面の私にそんなことを平気で言えるし。何て言うか、学者先生って感じ)
そう先生ってのがぴったり。大学寮を出て、遣唐使に取り立てられたから、先生ってのも間違ってない。
(珍しい人だ、この人。こんな人は、私の周りに今までいなかった)
なんだか、今、後宮に来て良かったって思える。姉の身代わりに後宮に入ったら、探していた人に出会ったんだもの。もしも、本当の若竹の君でなかったら・・・ううん、それでもいい。若竹の君でいい。それでいい。
「なら、私は物語で頭の中で想像を巡らせるしかないですね」
良い人に出会えた嬉しさに、少し胸がいっぱいになったのを隠すために、背を向けて私は言った。
「私、頭の中だけは、想像がいっぱいにすることが出来るんです。物語が好きで、いくらでも考えられます。右少史殿は、
「
「右少史殿もそういうのをたくさん?」
「まあ、僕ももともと文章生だからね、大学時代はいろいろな学問書や書物を見たし、唐国にも行って実際入手したものものある。だから、あるよ」
最後の一言に、余韻をたっぷりと乗せる。
ああ、そんないたいけな少女に、宝の自慢などされたら・・・もう、どうして我慢しろと言うの。また思わず食いついてしまうじゃないの。ああ、どうして、私の弱味をつっついてくるの?知ってるの?ああ、そこは駄目だ。もう、我慢できない。
「うらやましい」
物語好きの本能を刺激された私は、つい煩悩のまま口走っていた。
「数々の書物を読んだ?そりゃあ、文章生となると読んで当然ですね。だけど、私はやんごとなき高貴な家の者として、こっそりと市で西松に買って来てもらったり、親戚のツテで手に入れるしかなかったのに、あなたは、大学寮に入って、そこでいっぱい書物を手にして、眺めたり、収集したり、唐国まで行って、書物を手にして、・・・うう、あっちもこっちもいっぱい持っているのですか?」
「う、うん」
いつの間にか私は忍坂道臣の胸倉をつかんで揺すっていたけど、道臣はそのままで頷いた。
「私もそういう物語を集めているんです」
私はまだそのまま言い続ける。私も書物を愛する気持ちは負けないものがある。
「いやあの、遣唐使として唐に行かれ、その現地の書まで読んだ右少史殿ほどのことはないのでしょうけれど、教養の学問書ではないから、遊びの道具だからと読むなと、父には言われるのですけれど、集めるのが趣味なんです。ここに来たのだって、その書物目当てでなんです」
「ここに来たのが、君、そんな目的なのかい?」
「はい。とくに常盤御前の作が好きで、坂田中将物語、如月尚侍日記など、流布本には収録されてなかった
「常盤御前?ああ、人気の物語作家だね。彼女のはあまり持ってないな。そう言えば、この宮中にいるって聞いたことがあるな・・・」
常盤御前はこの若竹の君を追いかけて、宮中を出たと夕闇の皇子から聞いたけど、この人が、師匠の恋人?
(いや。違う。こんな若い男、師匠が夢中になって追いかけるなんて考えられない)
事件なら、あの師匠(事件好き)なら追いかける。追いかけて、物語にしてやろうと虎視眈々としているはずだ。
まだまだ、私の知らないことがあるはず。夕闇の君からの情報も、あくまで噂レベルの話だ。いったい何が真実なのか、分かりはしない。
私は久理子に聞いた時と同じくらい、食い入るように男を見た。
それより、不思議なのはこの人だ。本物が物語の中から出て来たみたいだ。
本物の言うことも、全部、世界から飛び出したようだし、もしかして、他の世界の人かしら?まさか・・・この世にはいない人で、本当に本の世界の人だったりして。ということは、超越した場があるの?この後宮は。
(なんてね。まさか、そんなわけない。足もちゃんとついてる。現実の人間だわ)
「僕も唐へ行く前に、内裏に出仕した時に聞いた話だ。僕は詳しくは知らないけど、後宮の奥に隠れていて滅多に姿を現さないんだそうだ。そう言えば、誰かも探しているって言ってたな。君も探しているの?常盤御前を」
初めての人に警戒をしていたけど、私はこの人なら大丈夫だろうと思って、こくこくとうなづいた。
「ふうん、それは面白そうだね。僕も知ってみたいな」
「右少史殿も?」
「そりゃあ、有名な人だから。新作や眠った作品があるなら、僕も気になるよ。僕だって、読み物は好きだ。常盤御前がまた、新しい新作を書くんなら、僕だって是非読んでみたい」
(ああ、師匠はどこでも誰でも人気がある。元遣唐使の忍坂道臣も知りたいって。こんな人にまで思われて、師匠は凄い人だわ)
自分の好きな作家が、他人からも好かれているってことは、他人にはどうでもいいことだろうだが、ファンには大したことなのだ。
「でも、君は帝との婚姻が前提で、この後宮に来たのでないの?」
「違うわ。他の誰もがそう思っているとしても、そうじゃない。確かに、私の意図ではない力によって後宮に入ったのだけれど、後宮に来たのは、常盤御前を探すため。常盤御前に会って、
「
「え?」
真剣なファンは、誰でもそうだが、当然やることは当然で、やることは決まってる。だから、あの必死でくっつてい来る執着帝と同じことをするわけだ。ということでも、私は無下にあの人を出来ないのだ。そう考えたら、粘着質の方々が多い後宮だけど、姉より私のほうが後宮に合っているかもしれない。
「え、あ、いや、何でもない。じゃあ、帝とのことは?」
「皆の勘違いよ、誰が帝になどお仕えするものですか」
「そんなことを平気で堂々と言って、興味津々でここに来たとは、さすが知りたがりの椎子殿だな・・・」
右少史は言って、鼻息荒くしている私を笑った。
実際、私は今何をしただろう?後宮の女官なのに男の前に堂々と立って顔も隠さず、本音も隠さず、揺さぶって、煩悩を口にして、欲望のままに口走った?
笑われて当然だ。はっずかしい。
今更ながら、姫君としても、後宮の女としても恥じらいがないことに気づいた。私の顔が赤くなっていく。
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