第10話
その時、にゃあにゃあと、三毛猫が私の足元にすり寄って来た。
げ。こんな時に、可愛い猫ちゃんが。こんな時でなければ、可愛がりたい。ああっ。ふわんふわん。笑顔。
「誰じゃ。お玉が擦りよるとは、曲者ぞ、皆の者、出合え」
わー、名前も可愛いのね、おたま。かしかしっ耳を足で掻いてる。見事にまるっとふっくらしてるじゃないの。
とたんに、わらわらと御殿から女衆が出てくる。
これはヤバい。弘徽殿女御と言えば、帝のれっきとした妃の一人。私ももう立派な侵入者。禁中の妃の部屋に侵入者として見つかっては、新入りだってただでは済まない。
私はくるりとユーターン。なんだか上手いこと侵入してしまった庭木の間とか、兎に角必死で来た道を戻って、また上手いこと、出入りの門まで戻ってしまった。我ながら、侵入者の腕が良すぎて怖い。
「ネズミ一匹通すな」
「いたか」
「こちらにはいない」
しかし、やはり女御の敷地というもの。いったん厳重警戒になると、わらわらと人が出てきて、植木の隙間や小さな門まで、全部、見張りや衛兵が押さえてしまった。
(どうしよう)
来るとき目星をつけた垣根の隙間に入るか、思いきって新人のふりして、迷って入りましたって言うか。それぐらいしか、もう手段がない。
でも、寵愛を受ける姉の妹と思われたら、あの嫉妬深そうな弘徽殿女御だもの。何をされるか想像すると、ぞっとする。
そう思って、絶体絶命のピンチ、とあたりを見回したところだった。
「月華門(げっかもん)のほうへ行けば、むしろ空いている。あちらへ」
誰かの声がした。女の人の声だ。
「だれ?」
思いきって、恐る恐るながら声がしたほうを見たけど、誰もいない。
(いったい、誰が・・・?)
空耳?夢まぼろし?でも、確かに声がしたと思う。凛とした声だった。おそらく高い位の人。
兵士の声が聞こえて、迷ったけど、私はその声に従った。
(出られたのは良かったものの・・・)
とりあえず、後宮から出て、内裏のほうへ出られたのは良かったものの、曲者じゃ曲者じゃと、騒ぎが大きくなっている。かがり火が焚かれ、何棟も離れた殿閣まで、兵士がうろうろとしている。
(足が擦り傷だらけ。植木の間を何度も潜り抜けたからだ)
あちこち体が痛む。けど、構っている暇はない。
(今見つかったら、思いっきり、不審者だわ)
犯人(師匠)を捜索して、私が犯人になるとは、本末転倒だわ。父にも迷惑がかかる。もし捕まったら、師匠に責任取ってもらおう。けど、こんな話、面白くないって言われて笑われそう。だから、私も自分で切り抜けなきゃ。
巡回兵に迫られ、松明の明かりが増えて、私は松の大木の根本をかいくぐり、ツツジの植え込みの影に隠れた。
近衛府の兵士も大勢増えている。彼らは内裏の警護だ。
がさ。
その時だ。
「なんだろ、誰かいるのか?」
ちょうどその時、月間の雲が晴れて、さあっと月明かりが地面に射し、 ツツジの植木の影に隠れていた私を照らした。
その気配に気づき、近くにいた者がこちらに来るのが分かった。
(やばい、見つかった)
背の高い男と丸い顔の男がぬうっと顔を出した。
織女し舟乗りすらし まそ鏡
清き月夜に雲立ちわたる
「えっ?」
それは、内裏の官吏の二人連れだった。
明日の管弦楽の用意をしているみたいで、舞の格好らしき白装束だ。
声をかけたのは、背の高い男性のほう。
(う、どうしよう?)
雅楽の衣装の鳥の仮面も被っている。
(だ、だれ?だろう。分からない)
「あ、こいつ、少々変わり者で、忍坂道臣。元遣唐使。こいつ、書物に書かれた天女の話を信じて、遣唐使になって唐国まで探しに行った男なんだ。あの物語の若竹の君みたいだなって言われていて、実際、若竹の君って言われている」
え・・・・?
この状況でべらべら喋る奴と思ったが、それが普通のやんちゃ体質の男らしい。
お酒も入っているのかもしれない。明日の宴会の用意をしているから。
「あなたが、若竹の君?」
まさか。
月夜の明かりの下で、天の使いのような白い衣の男性と対峙して、私は一瞬、この世がどこか分からなくなった。
その時、男は仮面を取った。
下から出て来たのは、涼やかな目をした美しい男性。今宵の月のような神秘的な魅力を秘めている。
(この人が、若竹の君?)
嘘・・・本当?
若竹の君は、背が高くて、竹のようにしなやかで、怜悧な麗しい美丈夫で・・・
でも・・・そう言われたら似てる。いえ、若竹の君に似ている・・・!
その若竹の君がぐいっと手を引いた。
まるで・・・天女と出会った時みたいに。
私は若竹の君に覆いかぶされるように見つめられ、息が詰まりかける。
「逃げて」
「え?」
「近衛府が来る。彼らに見つかったら、いろいろややこしい。問題ないんだったら、逃げて」
最初はぼうっと見惚れて何を言われたか分からなかったけど・・・
「あっちだ、あっちに行った」
若竹の君がそう言って、兵士の注意を逸らすのが聞こえた。
衛士の足音がして、若竹の君が目で逃げろと促すまま、後ろ髪を引かれるようにして、私は逃げた。
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