¥ エル・ウィック ¥


 悲鳴が先だったか衝撃音が先だったか分からない。


 ハウスボトルの鏡月は胴の下半分が砕け散り、緑色の硝子片は返り血のごとく自身の液体を浴びて輝いている。

 かろうじて形が残っている瓶の上部は客の手の中だ。テーブルの角に叩き付けたと思われるそれは一撃必殺の凶器に成り下がり、客の血走った白目は周囲に不吉な光を放っていた。


 何が客の逆鱗に触れたのか。担当していた派遣のキャストは動く事が出来ず膝のハンカチを震える両手で握り締めている。


 黒服の対応は早かった。地蔵と化した派遣の腕を掴むと関節が抜ける勢いでソファから引き抜き、棒立ちの店長に押し付けた。

 マイさんは派遣を取り上げると、大判のブランケットで素早く包み肩を抱くようにして更衣室へ連れ添った。


 これで居合わせたキャストは皆更衣室へ避難した。壁は薄いが内鍵が掛かる。平日の閉店間際だった事が幸いし他に客はいない。


 私? 実はトイレから動けない。手を洗っていると物騒な音が聞こえ恐る恐るフロアを覗くと修羅場と化していた。


 客との距離壁を挟んでおよそ二メートル。

 個室に戻りそっと鍵を掛けた。


 フロアで動きがあったらしく壁ごしの衝撃で個室のドアが震える。手で口を押さえるとしゃがみ込みきつく目を閉じた。


 店の入口が開く気配がした。新規来店だったら防犯訓練ですと言い張るしかない。


 暫くの沈黙を耐えると客のくぐもった声が聞こえた。テーブルが倒れグラスが割れる音がする。黒服の怒鳴り声が響くと再び沈黙が訪れた。


 個室をノックされ体を固くするとマイさんの声が聞こえた。一言、終わったと告げられた。


 フロアの状態は全回復していた。業者もびっくりの早業だ。硝子片の残りが無いか床に這いつくばって確認している黒服にそう言うと、まあ掃除屋が来たからね、と呟き作業に戻った。


 詳しく聞かない方がいいだろう。


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