迷いの森 4

 《ほう……そんなことがあったのか》

 《これは楽しい》

 《やみつきだ》

 《今一度……》

 《今一度……》

 その声を聞きつけて、アスティの心がどうしようもない苦しみに悶えていた。

(やめて……)

(もうやめて)

 アスティの目の前で紅く光るものがあった。朦朧とする意識のなか、よく考えもせずにアスティはその光を見つめた。

 それは、小粒のルビー。

 いつのまにか服の外に出ていたのか、四方から届く灯りに反応してプリズムをつくっている。

(―――――)



 《なんだ?》

 《こころが反応したぞ》

 《まさか。そんなことできるわけがない》

 《自我を完全に失っているのだぞ、あの女》


『そういえば、誕生日はいつだ?』

(王……)

 いつの日だったか? あれは仕事を終えて夜の廊下を二人して歩いていたとき……。

『―――――今月の終わりです』

『なに』

(―――――)


 《なんだ!》

 《あれは我々の術ではないぞ!》

 《早く止めろ!》


『なぜもっと早く言わなかった?』

『いえ……あの、聞かれなかったので』

(私の生まれた日は国で最も忙しい時期―――――)

(なのに……なのに)

『忘れるところだった。誕生日だ』

 そしてこの彼から贈られたルビーは、それからどれだけ自分を救ったことか……。

 初めて……そう初めてもらった、形に残る贈り物。言葉だけではなく。


『お初お目にかかります、陛下』


 《なんだあれは!》

 《やめさせろ!》


『……宮廷魔術師に?』


 《くっ……なんだこの感じは!》

 《術を! とにかくやめさせろ!》


(―――――王……)

(王……)


『……承知した。今より仕えてもらう』


(―――――)

(―――――)


 自分があの日……恐る恐る顔を上げたとき、まっさきに飛び込んできた黒い瞳。戦士らしく鍛え上げられた身体、口と顎に髭をたくわえ、その顔は精悍そのもの。叡智をたたえた瞳、きりりとした口元。

 自分を一瞬にして魅了した……あの日のセスラス……。


『陛下。なんとお呼びすれば?』

『陛下以外ならなんでもいい。妥当なところでそうだな、王とでも呼べ』


 城の中であなたを陛下と呼ばないのは私だけだと―――――ディレムに聞きました

 あの時苦笑しながら言ったあなたの言葉が……耳から離れない……。


 《やめろ!》

 《やめろ!》


『お前にだけは、陛下と呼ばれたくない。理由はそれだけだ』

 アスティの全身から突然光が放たれた。無論アスティがしたことではない。彼女は思い出したくない過去と愛する男のことを意志とは関係なく思い出し、こころが混乱してそれどころではない。《心》のなかに雑念が入るのを防ぎ、なんとか元の通り、理性を保たねばと脂汗を流して未だ倒れ伏していた。


 《―――――なんと》

 《なんと……》

 《あの娘……》

 《こころの闇とこころの光を同時に持ち合わせているぞ》

 《なんということ……》

 《こんな人間はみたことがない》

 《……これが……》

 《かの渦の力なのか……?》


 声たちはアスティを見下ろした。


 《それともこの娘の―――――力なのか?》


 アスティはハッとした。

 苦痛に悶えるうち、あれだけまばゆかったホールの中がまた、薄暗く寒いものへと戻っているのに、やっと気付いたのだ。ようやく立ち上がれるようになって、アスティは腹を押さえながらよろめきつつ立ち上がり、辺りを怪訝そうに見回した。まだその顔には脂汗が浮かんでいる。

 ポウ……

 突然アスティの目の前で蛍のような光が灯った。思わず身構える。


 《娘よ……》

 《アスティ……》


「―――――」


 《もうこれくらいにしておこう》

 《我らもお前の力を侮っていた》

 《少し悪戯が過ぎたようだな》


 くすくすと忍び笑いがもれてきた。


 《アスティ。我々にもてあそばれるためにここまで来たのではあるまい》

 《用件を聞こう》


「―――――」

 この光が古代からの《意志》なのだろうか?

「―――――私は、石版を探しているの」

 微かに空気が動いた。声が、意志たちが、動揺したと言っていい。


 《石版……?》


「ううん。正確には、石版を探している方を探しているの。

 その方の名はセスラス陛下。リザレアの王」


 《ウェンセスラス……》

 《セスラス……》

 《あああの……》

 《この女と対の運命を持つ男だ》

 《善なる運命……》

 《石版……》

 《そんな男が石版を探しているだと……?》


「違う。話を聞いて」

 アスティは見えない相手に対して話しはじめた。

 かのルイガの事件のこと、小石版、そしてセスラスの旅立ち。思ったよりもそれは長くかかった。実際口にしてみると、なんと長く複雑なことばかりなのか。


 《…………》

 《…………》

 《石版を……》

 《あのちからをまた欲する者が―――――》

 《現われた》


「私がここに来たのは、何か、あなたたちが石版について知っているのではないかと思って、それで来たの」


 《なんという女だ》

 《たかがそれだけのために―――――》

 《いったいなんの価値があるというのだ》

 《―――――なるほどあの男か……》

 《憎いの》

 《本当に……》

 《あれだけの女にあれだけのことをさせるとは……》

 《善なる運命の持ち主も捨てたものではない》

 《ふふふ……ならば賭けるか》

 《…………》

 《…………》


 声たちはいっせいに黙った。この会話だけはアスティには聞こえなかったが、それは彼女にとっては、まるで何人もの人間が自分に背中を向けてひそひそ話をしているようで、アスティはかなりの間、じっと待つことを余儀なくされた。


 《……よかろう》

 《私はあの女とあの女の主君に賭ける》

 《きっとやれる》

 《きっとやれる》

 《ふむ……》

 《よし》


 と、背中を向けていた者達の相談が終わる気配がした。


 《アスティ》

 《武勇国カイレンを知っているか?》


「カイレン……ええ。有名な国だわ。何人もの戦士があそこにわざを鍛えに行くという」

 《そうそのカイレンに……》

 《大図書館があるのも、おそらく見知っていよう》


「……ええ」


 《そこへ行け》

 《一冊だけ古代のことを記してある本がある》

 《赤い革の表紙だ》

 《合言葉は ヌエド》

 《この言葉を本に向かって呟くがいい》

 《そしてその本の……》

 《二百七十六頁目がお前のめざす事柄》

 《かまえて言っておくが使用に気をつけよ》

 《あの本はひとのこころを喰う》

 《気を許すな》

 《よいな》

 《よいな―――――!》


「二百七十六頁……」

 アスティは忘れないようにひとり呟いて、それからうなづいた。


 《では行け》

 《もう用はあるまい》

 《お行き》

 《お行き》


「どうもありがとう」

 アスティが光に向かって言うと、一度だけ大きく光が揺らめいた。

 自分たちに礼を言うなど、見当違いもいいところだと、言っているかのようだった。

 後ろで勢いよく扉が開いた。アスティは扉を見、未だ目の前で揺らめいている光を見ると、今度はなにも言わずに館から出ていった。

 外へ一歩出ようとしたアスティに、後ろから再び声がかかった。


 《アスティ》

 《最後に》


 《あの男―――――セスラスを愛しているのか?》


 あの強い光―――――あれは、何度も何度も血を吐きそうになるくらいの絶望に打ち拉がれたアスティを救う唯一の光、ただひとつ、セスラスという名の。彼への想い、彼への尋常ならざる強い愛が、あの光の疑いもない源。

 アスティは振り向かなかった。立ち止まって小さく、

「……ええ」

 と応えただけだった。その表情が果たしてどんなものだったのか、古代の意志たちには見当もつかぬ。アスティは霧雨の振る道を歩き始めようと顔を上げた。

 どうしたものか、一本、黄色い道が出来上がっている。


 《お行き》

 《これは餞別》

 《この道に沿って行けば街道に合流できる》

 《幸運を》

 《幸運を》


 アスティはこたえず、黙って道を行き始めた。

 その姿が完全に消えてから、しかし声たちはまだ話を続けていた。


 《それにしても酔狂な―――――》

 《先代リザレアの預言者は、あの呪われた運命に気付いていたということか》

 《古代よりの記憶を受け継いでいるのだからな》

 《しかしドールヴェの預言者は恐ろしくて口にもできなかったらしいではないか》

 《リザレアの預言者はセスラス王と共にマイルフィック倒伐を見届けた者だ》

 《精神力が違う》

 《では先代も―――――そして当代も》

 《呪われた運命と善なる運命のことは知っているのだな》

 《おそらくは―――――》

 《しかしあの時代より数千年……》

 《まさかに石版を手に入れようとする者が現われるとは》

 《そしてそれを追い、阻止する者があの二つの運命の宿主だとは》

 《古代王国の運命で、最高にして最強のちからを持つ、対の運命―――――》

 《名は言えぬ……》

 《名は言えぬ……》

 《あの二つの運命の名は言えぬ……》

 《言えば制約により地獄に落とされる》

 《名を言えることができるのはあの女だけ》

 《見ろ。時空の向こうで、こちらを睨んでいる》

 《恐いのう……》



 風が吹いた。アスティがふと顔を上げると、そこはいつのまにか街道の真ん中だった。 アスティはしばらく後ろを見ていたが、森は遠く、ただその古代のちからに圧倒されるのみ。ああして、あの意志たちは永久にあの森で暮らすのだろう。自ら生きることに疲れるまで。

(……武勇国カイレン……)

 アスティは歩きだした。大陸一と評判のセスラスの剣技、もしかしたらかの王国で会えるかもしれない、その一縷の望みを胸に秘め。


 《古代の秘密……》

 《石版の秘密……》

 《あのちからを手に入れる……》

 《世界がまた変わる》

 《古代究極の秘密が……》

 《動き始める》


 《そしてまたあの二つの運命も―――――》

 《古代王国の最高機密》

 《ただその名前のみが》

 《―――――》


 意志たちは、しばらくざわめいて、そして静まった。

 退屈な生活とは、しばらくの間おさらば。ほんのしばらく。

 我らにとっては、閉じていた瞳を開けるまでの、ほんの短い間―――――。



(王―――――)

 アスティの旅は、まだまだ続く、セスラスを追う旅。

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