迷いの森 2
2
アスティが自分が呪われた運命を持つということを導師たちによって知らされたのは、かなり早い時期からであった。アスティが五つの時である。しかしその時は、呪われた、という言葉の意味を知ってはいても、実際自分とどういう関係があるのかわからず、わかったようで実は、わかっていなかった。五歳の少女に理解しろという方が無理であろう。 既に修業を始めていたアスティはその日、導師に連れられて課外授業で薬草を摘みに行った。十数人の仲間たちも一緒である。
野原で、導師から少し離れたところでひとり薬草を摘んでいたのにはわけがある。
そこだけ量がたくさんあったのだ。幼いアスティが夢中になって薬草を摘んだのは無理ないことであった。ところがその時、背後で微かに気配がしたかと思うと、振り向いたアスティの口と鼻にはすでに、おかしな匂いのする布が押しあてられていた。
それから後のことはよく覚えていない。ただはっきりしていることは、気が付いたとき既に窓から見える空は黒く、月がぽっかりと浮かんでいて、自分は森のなかの石の家の一室に閉じこめられているということ、護身用に導師からもらっている銀の短剣がないこと、そして自分が攫われたらしいということだ。身なりから見て、どこかの娘かと思ったのだろうか。
無論扉は閉まっている。そっと戸板に耳をつけると、あちら側の会話が辛うじて聞こえることができた。
「金貨……千枚は……」
「そのあと殺して……」
アスティは青くなった。どうやら本当に危ないようだと、そう思った。
アスティは窓の近くまで歩み寄り、窓になんの格子もついていないことを確認して、思い切り飛び上がった。ものごころつく前から修業をしているアスティである。このくらいはなんでもなかったが、それでもまだ五つ、辛うじて窓の縁に手が届いたのみだった。見事にそれにも上りつめて、小さな窓に小さな身体をするりと入れると、タッと地面に降りたった。見回すと、森に囲まれている。風が木々を揺らし、不気味だ。アスティは地形から場所を判断し、それから魔法院が逗留している場所をだいたい思い巡らせて走り始めた。 魔法院ではなにか異変がおこると必ずそのまま逗留する。そしてまたそれが解決すると、次の場所へと移動するのだ。自分がいないことを知って、導師たちは自分を探し回っているであろう。魔法院がまだ移動期ではないのは知っていたし、よしや移動する時期でも、絶対に自分が帰るまで彼らが動かないということが、幼いアスティにもわかっていた。アスティが必死に木立をかきわけたとき、すぐ側の茂みがガサリと蠢いた。
アスティは青くなった。
「へえ、魔法院の子なんだ。アスティっていうのかい」
彼は名をアベルと名乗った。背中に大きな弓を背負っているから、この付近の狩人なのだろう。アベルはアスティの手を引き、今彼女が言った通りの場所へと、彼女を案内しようとしている。黒い目と、同色の髪は、なかなかにいい色をしている。その瞳は知性の輝きを放っていた。次第に辺りに霧が立ち籠め始め、アスティの生まれたときから魔法院にいるその、本能にも近い勘、帰巣本能のようなものが動いて、
「あっち」
と指をさし、魔法院が霧の中から見えたときのことだ。
「見付けたぞ!」
背後から、剣を持った男たちが二人に迫ろうとしていた。追ってきたのだ。
アベルは血相を変え、
「逃げるんだ……!」
とアスティを押しやって剣を抜こうとした。しかし多勢に無勢、しかも相手はいくつもの悪事を重ねてきた者たちだ。彼がかなうわけがなかった。逃げようとしたアスティは連れ戻され、必死に抗いながらも引きずられていくアスティの目の前でアベルが三人の男たちに袋叩きにあっている。誰もが剣を抜いていた。
その時、アスティは思い出した。
授業で聞いた、導師の言葉。
どうしようもない危機に陥ったとき、〈心〉で導師たちに訴えかけるちから。それは魔
法院で修業し、魔法院で育ったものに自然に身につく、自衛のちから。しかし上位魔導師としての能力を身につくにつれそれは、次第に消えていくという。まだ方法も習えないほどの未熟な歳ゆえ、てだてはよく知らぬ。しかし今自分は間違いなくその身の危険にさら
され―――――……自分を助けようとした者は死にかけている。これしか方法はないのだ、これしか。まだ習っていない、しかし、導師の口から、こんな風にするものなのだとだけは、聞いたことがある。
頭の芯をからっぽにし、心の力を抜き、そして集中する。
〈助けて……―――――導師さま!〉
幼いアスティの必死のこころが効を奏したのか、それともただの偶然か、それは未だよくわからぬ。
しかしその未熟で微力ながらも必死な呼び掛けは、全部の導師には届かなかったけれども、七人の導師たちがそれをとらえることができた。
ある者は実験の途中で、ある者は導師の部屋にいて、またある者は、自室で本を読んでいる最中に声を聞き、椅子を倒すまでに強く立ち上がり。
魔法院の入り口でそれぞれであった彼らは息を切らせ顔を合わせた。
「きいたかさっきの声を―――――!?」
「昼間から行方不明のアスティか!?」
外でただならぬ悲鳴と怒声が聞こえる。彼らは表へ出た。
果たしてアスティはいた。曲者にその身体をひきずられるようにして、なお必死に抵抗を続けている。側で若者が剣でなぶられていた。
(この日がとうとう来たか)
導師たちは一様にそれを思っていた。
とうとう可動したか、呪われし忌まわしい運命が―――――!
彼らは駆け寄った。あれしきの者たち、魔法を使うにも及ばぬ。突然現われた老人たちに曲者たちは一瞬色めきたったが、すぐに思いなおしたのか、
「怯むなっ! たかがじじいどもだっ!」
と叫んで導師たちに手向かった。走りながら抜刀し、
「老人をなめると恐いぞ」
と呟いた導師たちはあっという間に彼らの息の根を止めていた。
「アスティ……」
「無事か……」
しかしアスティは聞いていなかった。今は冷たき骸となったアベルの側に、茫然と座り込むのみ。アスティは震える手でアベルの手の甲にそっと触れた。
(―――――)
(私のせいだ……)
(私の―――――)
「導師さま……」
ゾッとするような細く高い声で呟いたアスティ、その背中の孤立した悲しみは、もう誰にも救うことはできぬ。
「いつか―――――いつか聞いた私の……呪われた運命とは、このことですか?」
導師たちは顔を見合わせた。誰もが苦い顔をしている。しかし違うとだけは言えない。 仕方なくカペル師がこたえる、
「そうだ」
と。アスティはしばらく黙っていたが、やがて
「呪われた、運命-―――――」
(人を巻き込み、殺す運命―――――)
と呟くと、アベルの腰に携えてあった短剣を、シャッと引き抜いた。導師たちは一瞬身じろぎした。悲しみと自責から、彼女が自殺すると思ったのだ。しかし違った。
アスティは左手で腰ほどまであった長い髪をたばね、右手の短剣で一気にそれを首のあたりでざっくりと切ったのだ。
「―――――」
あまりのいさぎよい動きに、さすがの導師たちも硬直した。
アスティは切った髪をアベルの手に握らせ、スッと立ち上がった。
その、冬の湖のような虚ろな瞳を、のちの師・カペルはいつまでも忘れられないと記述している。
アベルは死んだ、呪われた運命の渦に、巻き込まれて。
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