迷いの森 1



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 大陸のほぼ中央南寄りの街道・ベリテス、アルゴイ、ジディアラからはそれぞれ、三つずつ他国への道がつながっている。この辺りは森に囲まれている場所が多く、街道からそれて少しでも中へ入ってしまうと、もう薄暗くなってしまうほどに、木立が深い。

 アスティはジディアラ街道を少し行ったところで辺りに人がいないのを確認し、森へ入った。黒い髪が日の光を受けてまばゆいばかりにあたりに光沢を放ち、つやつやと光っている。欝蒼とした緑のなか、これほど目立つ者も珍しいと言っていい。今日は冬だというのに、まるで春の日のような暖かな陽射しで、空も深く、風は吹かないものの、一足先に春が来たのではないかと思うほどであった。アスティは森の中に分け入り、木立の枝で身体を傷つけないようにしながら、ずんずん中へ入っていった。

 先日のドールヴェ王国国王の言葉に従い、ジディアラ街道をやってきた。国王が教えてくれた迷いの森というところへ、カイレン王国へ行く前に行こうと思ったのだ。石版について何かわかるかもしれない上に、セスラスの足取りがつかめるかもしれない。彼が街道を通っていったというのは、間違いないのだ。

 森は深く、もう空も見えない。あたりは湿った空気が漂い、森が持つ特有の樹のにおいが濃くたちこめている。アスティは戸惑うことなく、東へと進んでいる。迷いの森に行くには、まずこの森を抜けなくてはならぬ。そして迷いの森に無事着くことができたなら、今度は古代の霊たちが住むという森の館へ行かなくてはならないのだ。アスティは少し立ち止まり、ちいさくため息をついた。えらく骨の折れることだと、自分でもよくわかっている。

 しかし主君セスラスを追う旅は石版を追う旅、必然あの男、ルイガにも関係してくるのだ。

 あの男の野望を食い止める唯一の方法は、彼に石版の内容をすべて入手させないこと、すなわち自分で石版を探すことだと、セスラスは言って旅立った。そのセスラスを探して、こうして旅をしている以上、いつかは出会うであろう主君のために、少しでもいいから情報を手に入れておきたいのだ。

 アスティは先刻からそうやって自分に言い聞かせていた。

 湿気を含んだ空気が辺りに手当たり次第とでもいった風に漂い、アスティはなにを頼りにするわけでもなく、ただ進むのみであった。


 《ほう……何百年ぶりかの来客だ……》

 《珍しや……》

 《珍しや……》

 《おやあの娘……上位魔導師ハイ・ソーサラーだ》

 《上位魔導師ハイ・ソーサラー……》

 《上位魔導師ハイ・ソーサラー……》

 《面白い…………》

 《案内しろ》

 《ご招待だ》

 《連れてこい》

 《連れてこい》


 ザワ……

 ふいに風が吹いて、アスティは空を見上げた。

 なんだろう。なにか胸騒ぎがする。ふと、なにげなく前をみやったアスティの顔に、フワリと触れたものがあった。

「!?」

 それは霧であった。辺り一面、霧に包まれている。

「いつのまに……?」

 アスティは不安げに辺りをみまわし、それから背負い袋から糸玉を取り出して木々に結び、また歩き始めた。


 《ほう……なかなかあの娘、賢い》

 《今まで来た者が頭がまわらなさすぎたのだ》

 《ばかにあの娘を嫌うではないか》

 《お前は上位魔導師ハイ・ソーサラーが嫌いだからの》

 《ふふ……》

 《ふふふふふふ……》


 すると今度は、その霧にまるでまじるかのように、小雨が振り始めた。それは、確かに雨なのだが、手で受け止めようとすると、まるで粒にはならず、手が湿るだけなのだ。

「? ……」

 アスティは雨に打たれながら歩き回った。

 サアアアア……

 霧雨が快い音をたてて降り続く。

 アスティはしばらく歩き回っていた。とにかく森の館という所にたどりつかなければならない。しかしアスティの顔色は、自分の胸のあたりに張っておいた糸が触れた時に、サッと青くなった。

(迷いの森に入った)

 喜ばしいという気持ちもあったが、それ以上に、果たして無事に辿りつけるだろうかという不安のほうが、先にあった。重くたれこめる雲のようにアスティの胸が重くなる。本当に大丈夫なのだろうか?

「―――――」


 《ご案内しろ》

 《ご案内しろ》

 《ご招待だ》

 《連れてこい》

 《我らの館へ招待だ》

 《上位魔導師ハイ・ソーサラーだ》

 《客だ》

 《客だぞ》

 《ご案内しろ》

 《何百年ぶりの客だ―――――!》


 ザアアッ……

「? ―――――」

 突然風が吹いたかと思うと、アスティのまわりの木々の枝がいっせいに同じ方向を指し示した。まるでこの方向へ行けとでも言っているかのようだ。気味が悪かったが、もっとおかしな経験を過去に何度もしているので、幸い恐ろしいとは思わなかった。

 アスティは枝々の示す方へと歩きだした。


 《そうそう……そこを右に行って……》

 《まっすぐまっすぐ……迷わずに……》

 《そうそして道なりに行って―――――》

 《そこで左を向けば》

 《ようこそ森の館へ!》


「―――――」

 雨に打たれながら、アスティは絶句した。

 目の前に、石造りの館がそびえたっていた。なんとなく造りが魔法院に似ている。

「いったい……」

 しかしこの館が森の館であることは間違いなかった。アスティは扉の丸環をもってたたいてみたが、予想通り反応がない。アスティは扉を開けて中に入った。

 中はホールになっていた。

 正面左寄りには大きな階段があり、そのまま二階からバルコニーになってホールを見渡せる。右側には大きな長テーブルと椅子、そして側には暖炉があった。中は薄暗く、指が凍りそうに寒い。アスティが中に入りきると、それを待っていたように扉が自然に閉まった。これはなかなか不気味だ。アスティは振り向いて扉を凝視し、それから長テーブルに歩み寄った。

 古代の霊というのが住むのは―――――単に噂なのだろうか?

 気配すらない。


 《森の館にようこそ!》


 その時、突然壁やテーブルの上の燭台に火が灯ったかと思うと、辺りをまばゆいばかりに照らしだし、暖炉にはボッという音と共に勢いよく炎が燃えさかった。

 薄暗かったホールは明るくなり、痺れていた指が嘘のように、空気が暖かくなってきている。

「何……?」

 《ようこそ、森の館へ》

 《ようこそ》

 突然どこからか声が響いた。頭に直接響いてくるのではない。ホール全体に聞こえてくる。アスティは辺りを見回した。

「誰?」

 《ようこそ森の館へ》

 《我らは古代より生きる者》

 《古代より永らえ―――――》

 《伝承する者だ》

「じゃあ、古代からの霊というのはあなたたち……?」

 《霊……》

 声のひとりが、その言葉を呟いてふふと笑った。

 《そう呼ぶ者もいる》

 《しかし我らを浄化することはできぬ》

 《不浄ではないゆえに》

「浄化……できない?」

 《我らは意志》

 《強い強い意志で生くる者》

 《自ら望まぬ以上は永遠にこの世にとどまることができる》

「……」

 《娘よ。名は?》

 《美しい娘。名は?》

 《名は?》

 アスティはしばらく、どこから聞こえるかもわからぬ声に対して、所在なげにあたりを見回していたが、やがてどこを見ても一緒だと思ったのか、小さくため息をつき、一点をみつめ言った。

「アスティ」

 《アスティ……》

 と、声のひとつが炎でもゆらめくように名を呟くと、一瞬の沈黙のあとに、辺りの声はいっせいに言葉を吐き始めた。

 《アスティ》

 《知ってる》

 《マイルフィックを倒した女だ》

 《呪われた運命を持つ……》

 アスティの顔色がサッと変わった。

 どうして知っている? いや、それ以前に、なぜわかった?

 アスティの心中を悟ったかのように、嘲笑するような口調で声は言った。

 《アスティ。我らは古代より生くる者》

 《同じ時代のものをわからずしてなんとする?》

 《呪われた運命を持つ女だ》

 《何人その渦で巻き込んだ?》

 アスティは思わず両手で耳を押さえた。しかし声は直接頭に入ってくる。

 《砂漠戦争とかいうものの原因もこの女らしい》

 《ほう……》

 《この女ひとりのせいで何人戦死したか……》

 《見てみたい》

 《見てみたい》

 アスティはひたすらそれに耐えていたが、突然、全身がちぎれるような激痛がからだを襲ったかと思うと、既に床に倒れており、辛うじて気絶だけはしなかったものの、その苦痛に悶え苦しんだ。

「っ……」

 内臓がたぎるような熱さだ。いったいこの痛みは?

 《見てみたい》

 《この女の心の傷……》

 《開けてやれ》

 《見てやれ》

 《何人巻き込んだ……?》

 《見てやれ》

 意識はあった。

 頭の奥で朦朧と声が聞こえる。全身の苦痛は止んでいたが余韻が生々しく残っていた。 アスティは立つこともできず、ただそこに倒れ伏してひたすら耐えるのみであった。

 ただ、五臓がちぎれてしまいそうな凄まじい激痛があるのみ。

 汗が顔をつたい知れず身体が震えた。

 《制約により渦の名を口にすることはできぬ》

 《見ろ。あの女が時空の隙間からこちらを見ている》

 《ほう。まだ生きておったか》

 《恐い恐い。睨んでいるわ》

 《見てやれ》

 《見てやれ》

 《こころの扉を開けろ》

 《見たい》

 《見たいぞ》

 《あの渦で一体どれだけの人間を巻き込んだのか》

 《見てみたい》

 《最初の犠牲者は―――――》

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