第6話 キス

 音楽室や理科室など、特別な設備のある教室だけが入った棟の階段は螺旋状になっている。壁も床も真っ白な中、晴れた日には窓のステンドグラスが色鮮やかに浮かび上がり、まるでカンバスに水彩絵の具を散らしたように見える。

 絵の中に入り込んだような不思議な気分を味わいながら、私は螺旋階段を駆け下りていた。美術の授業でつい作業に夢中になり、我に帰ったときには既に次の授業が始まる時刻になっていた。慌てて隣の棟へと向かっているが、遅刻は免れないだろう。

 だんだんと目が回って来たので、踊り場で小休憩を取ることにした。ふらふらする頭をしゃきっとさせるため、深呼吸をする。そのとき、どこからか保味先生の声が聞こえたような気がした。声に導かれるように廊下に出て、窓から中庭を見下ろす。深緑の葉をつけた常緑樹の林の陰に、二人の女が立っていた。こちらに背を向けている、スラックスとシャツ姿の人は保味先生だろう。彼女と向かい合っている女は、制服の黒いワンピースを着ている。シスターではない。ベールをかぶっていないから。

 制服の女が、すっと背伸びをした。バランスを崩したのが保味先生に倒れかかり、そして、顔と顔を近付ける。

「え……」

 見間違いではない。でも、どうして、そんな、

「キス……した」

 動けなくなっている私の視線に気付いたのか、制服の女が顔を上げる。そのとき初めて、私は彼女が百合文学同好会の佐々木部長であることに気付いた。

 部長と目が合ってしまう。蛇ににらまれたように体が強張る。彼女は、にやりと笑った。


 午後の授業は、全て右から左に流れてしまった。

 夕食もほとんど喉を通らず、食堂の隅っこの咳でぼんやりとスプーンを握っていると、突然後ろから声をかけられた。

「湖波ちゃん、大丈夫?」

 マリモ先輩だった。彼女は私の隣の席に座り、皿ののったお盆をガチャンとテーブルに置く。今から食べ始めるらしい。

「見ちゃったんじゃないの、あれ」

 マリモ先輩は意味深に言うと、シチューを一口ぱくりと呑み込んだ。スプーンをくわえたまま、私の顔をのぞき込む。

「もしかして、マリモ先輩も見たんですか」

「まあ、たまたま。まさか本当に手を出すなんて思ってなかったけどねぇ。あの先生、ウブっぽいから最悪解雇されるかも」

「先生が手を出したわけじゃ……」

「それでも、やることやっちゃったらアウトだよ。部長は魔性の女だからね、逃げらんないよ」

 私が先生に百合文学同好会について相談しなかったら、こんなことにはなっていなかった。

 私のせいだ。

「……もしかして君、あの先生のこと好きなの?」

「えっ?」

 マリモ先輩が、私の目元を服の袖でぬぐう。

「だって君、泣いてるもん。そっか。なら、私も一肌脱ぐかな」

 戸惑う私の背中を、マリモ先輩はぽんぽんと優しく叩いてくれた。

「なんとかしてあげるよ、私が」


 夜、浴場から寮の自室に戻る途中で、事務室の前を通りがかった。先生の顔を見る勇気がなくて、気付かれないように通り過ぎようとしたのに、ドアが内側から開いた。

「湖波さん、ちょっとお茶呑んで行きますか?」

 いつもと変わらないはにかんだような笑顔で、保味先生が手招きする。今すぐ逃げ出したい気持ちと、先生のそばにいたい気持ちがぐるぐると胸の中で混ざり合って何がなんだか分からなくなってしまう。

 涙がこぼれそうになったとき、事務室の中からマリモ先輩の声がした。

「私と部長もお呼ばれしてるんだ! みんなでオセロしよ」

 私はホッとして、中に入った。

 部長とマリモ先輩がテーブルの前に並んで座っていた。私はマリモ先輩の向かいに座ろうとして、ためらった。この席順だと、部長と保味先生が向かい合わせになってしまう。それを避けたくて、勇気を出して部長の前にの席に着いた。

 部長は何もなかったかのように、穏やかに微笑んでいる。私に対する敵意も嘲笑も何一つ浮かべず、可愛い子犬でも見るかのような視線を向けてくる。

 もしかしたら昼間のあれは夢だったんじゃないかと思えて来た。いやしかし、マリモ先輩も目撃しているのだ。何をするつもりかは分からないけれど、今ここにいるのは思惑があってのことだろう。

「湖波さんはココアで良いですか?」

 先生に聞かれ、私はうなずく。他の三人の前には、既にマグカップが置かれていた。それぞれ、違う種類のティーバッグがひたされている。

「はい、どうぞ」

 先生からマグカップを受け取り、そっと両手で包んだ。じんわりと、熱が伝わってくる。

 さっきまでオセロをしていたらしく、盤上には白と黒の石が並んでいた。ぱっと見た感じ、白の方が勝っているようだ。

 石を指先で回しながら、マリモ先輩が笑う。

「私と部長、賭けをしてるんだ。勝った方が保味先生を自由にできる、って」

「は?」

 なんてことだ。びっくりして先生の顔を見る。彼女は困ったように微笑んでいた。

 一肌脱ぐと言うのがこんな方法だなんて、正直呆れてしまう。直球すぎる。

 部長が手を口に当ててクスクスと笑う。そして、マグカップを少し持ち上げた。

「ねえ先生、マリモさんが持ってきてくださったこのお紅茶、とても美味しいです。先生も味見してみませんか? ほら、どうぞ」

 部長が無理矢理、自分のマグカップを先生に押し付ける。先生はふうとため息をつくと、カップを傾けた。

 次の瞬間――

 真っ赤な液体が飛び散った。


【つづく】

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