第2話 夜の海、ココア
私は、枕が変わると眠れない人間だ。
消灯時間を過ぎているので蛍光灯をつけることもできず、二段ベッドの上の段で何度も寝返りを打つ。下の段はまだ、荷物で散らかしたままだ。家から持ってきたイルカの形の枕をぎゅっと抱きしめ、母が使っていた柔軟剤の甘い香りをかぐ。前の学校では、遠足にも修学旅行にも行けなかった。家族で旅行をすることもほとんどなく、見知らぬ天井を見上げるのは久しぶりだ。天井の木目を目でなぞっているうちにだんだんイライラして来て、イルカを壁に向かって放り投げた。起き上がり、はしごを降りて、パジャマの上に臙脂色のカーディガンをはおる。夜間は特別な用事がある場合を除いて外に出てはいけないことになっているが、監視カメラがあるわけでもない。みんな眠っているのだから気付かれないだろうと自分に言い聞かせて、ドアを開けた。
廊下は、青い光に満ちていた。電灯はついていない。白くつややかな床に、窓枠の形の影が落ちている。それらはまるで水族館の水槽のように並び、海藻や波や小魚が、ゆらゆらと揺らめいている。本当は、それは野草や池や鳥や虫なのだろう。けれど、私は深い海の底にいるような気がしていた。頬を撫でる夜風は涼やかな水流で、吸い込むとしょっぱかった。涙の味だ。
昼間見た、回廊に行ってみようと思った。夜に見るそれは、きっと美しいだろう。
なるべく足音を立てないように歩く。廊下の角を曲がったとき、
「わっ」
思わず声が出た。反対側から来た人と、ぶつかりそうになったのだ。
「湖波さん、こんな時間にお散歩ですか」
保味先生が、私に微笑みかける。昼間はワイシャツと棒ネクタイ、スラックスというフォーマルな服装だったが、今は白いTシャツとトレパンをはいていた。シャツが薄いせいか胸の膨らみが分かってしまい、私は目をそらせた。
「怒らないんですか、先生」
「初めての場所では、落ち着かないのが普通でしょう。ココアでも飲みますか」
先生が背を向ける。私がついて来ないことに気付いたのか、振り返ってちょいちょいと手招きする。
「僕はまだ、君に遠慮されてるみたいですね」
「警戒しているんです」
「そうですか。まあ、確かに、僕はあまりとっつき易いタイプではありませんからね」
らせん階段の窓にはステンドグラスがはめられており、月明かりが床にぼんやりと色とりどりの影を落としている。階段を抜けると、温かい黄色い光が私を包んだ。寮の事務室から漏れる光だった。
先生に促され、固いソファに腰かける。
「ココアとホットミルクとハーブティーと……コーヒーはカフェインが入っているからダメですね」
「ココアが良いです」
先生はうなずき、ティファールのスイッチをぽんと押した。すぐにお湯がわく。甘い香り。先生からわたされた飾り気のない白いマグカップは、私の両手をじんわりと温めた。
「僕も、人付き合いはあまり得意ではないんです。いったん仲良くなっても、居心地の良い関係を長く続けることができなくて、破綻してしまう」
「私もそうです」
先生は声に出してからりと笑い、自分用のマグカップを両手で包んで私の隣に座った。カップの中身はハーブティーのようだ。
「僕は、思うんですよ。社会で生きてゆくためには、周囲に居心地が良いと思わせるように努力しなくちゃならない。それは深入りをしないということでありながら、互いを思いやることでもある。難しいですね」
よく分からなかったけれど、勝手に言葉がぽろりと出た。
「先生は、私の前では努力しなくて良いですよ。……辛いから」
先生はふにゃりと笑った。
「心に留めておきます」
ココアをちびりと口にふくむ。今この瞬間が心地良いのが、私だけではないと良いと思った。
【つづく】
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