uminokoe
紫陽花 雨希
第1話 15の春、流刑地にて
十五歳の春、電車とバスを乗り継いで紀州の山奥にあるその学園にたどりついた時、自分が今夢を見ているのではないかと思った。どこまでも続くかと思われた雑木の森が突然ぱっくりと割れ、目の前に現れた赤レンガ造りの城。時計台には凝ったレリーフがほどこされ、名前の分からないピンク色の花をつけた蔦が絡まっている。中庭には小さな滝があり、人工の浅い池を囲むように白壁の回廊がある。エントランスの扉は開け放たれており、壁一面にステンドグラスがはめ込まれているのが見える。おそらく、新約聖書の一節をモチーフにした図だろう。合唱部が練習をしているらしく、どこからか重なり合った少女たちの声が聞こえてくる。エントランスに足を踏み入れようとしたとき、カーンと鐘が涼やかに鳴った。何かが始まろうとしている、そんな気がした。
生徒の服装と同じデザインだという黒いワンピースを着たシスターに案内されて、寮の自室へと向かう。二段ベッドの他に、机とクローゼットと本棚が二つずつある小さな部屋だった。片方の本棚には既にぎっしりと詰められていたので、同室の子のものだと思った。シスターにそのことをたずねると、彼女は眉一つ動かさず答えた。
「この部屋は、人数調整の問題であなた一人で住むことになります。本棚の中身は、前の住人が置いていったのでしょう。午後の入寮式までに、荷物を片付けなさい」
シスターは足音も立てず去ってゆく。残された私はベッドの下の段にぽすんと座った。長旅の後だったので、かなり疲れていた。両足がじんわりと痛い。片付けは後回しにすると決めた。布団の上に上半身をねかせる。ひんやりとした。目線の先に、ちょうど本棚があった。なんとなく、詰め込まれているものをながめる。
恩田陸「麦の海に沈む果実」
宮木あや子「雨の塔」
アーシュラ・K. ル・グウィン「こわれた腕環 ゲド戦記2」
谷山浩子の50周年コンサートを収録したアルバム
神聖かまってちゃんのアルバム「児童カルテ」
樋口橘「学園アリス」
あおのなち「きみが死ぬまで恋をしたい」
どれも、私の知っている作品だった。今日引きずって来たトランクに入っている作品すらある。前の住人はどんな人だったのだろう。もし会うことができていれば、仲良くなれていたかもしれない。目をつむる。疲れのせいか、何も考えることができなかった。
ふと、何か物音がして目が覚めた。誰かが、部屋の入口のドアを外から叩いていた。慌てて乱れた服を直し、「はい」と返事をする。
ドアの陰からそっと顔をのぞかせたのは、生徒よりも年上に見える人だった。白いワイシャツの胸に黒い棒ネクタイを結んでいる。中性的な雰囲気だったが、なんとなく女性のような気がした。
「こんにちは。僕は、君が所属するクラスの担任の保味です。よろしくね」
保味先生はへにゃり、と相好を崩す。ほっと体が緩んで、自分が緊張していたことに気付いた。
「私は湖波っていいます。よろしくお願いします」
「あと十分で入寮式が始まるから、早く制服に着替えてください。ドアの外で待っていますね」
左腕に巻いた時計を確認する。二時間以上眠っていたらしかった。
慌てて、トランクを開ける。片付けている暇がないので、仕方なく中身をベッドの上に積む。事前に実家に郵送されていた黒いワンピースは、一番奥にあった。袖を通すと、すっと肌を風がなでるような感覚があった。
外に出る。保味先生は、壁によりかかったままうつらうつらとしていた。私が声をかけられずにいると、がくんと首が前に向かって折れ、その衝撃で目が覚めたらしかった。
「ごめん、ごめん。僕もこの学園に来たばかりで、慣れなくて忙しいんです」
「そうなんですか」
「戸惑わせちゃったね、ごめん。とりあえず、行きましょうか」
保味先生の少し後ろをついてゆく。
「この学園は、生徒を十人ずつのクラスに分けています。授業は選択制で、個々で好きな教室を受講できることになっていますが、自学自習の時間やホームルーム、学校行事ではクラス単位で行動するんです。僕には、科目に関わらず分からないことならなんでも相談して大丈夫です。勉強以外のことでも」
先生の声は穏やかだけれどよく通る。表情は見えないが、きっと笑顔なのだろう。
「分かりました」
先生が振り返る。目を細めて、
「湖波さんはなんだか、色々なことに遠慮してしまうみたいですね。僕たちはきっと友達にはなれないだろうけれど、僕は湖波さんのことが好きになりましたよ」
と笑った。その言い方がとても自然だったせいか、心にすっとしみ込んで、喉の奥から何かがわきあがってきた。
私は、前の学校で不登校だった。手を焼いた成金の親が、かなりの額を出して私をここに送ったのだ。どんな子どもでも手厚いケアが受けられる、とうたう全寮制のこの学園に。
ぼろぼろと涙がこぼれる。保味先生は寂しそうな笑顔のまま、そっと私の隣に立っていた。
ひとしきり泣いて、気持ちが落ち着く。先生がぽんと私の肩に片手を置いて、もう一方の手をひらりと前に向けた。窓から斜めに差し込むオレンジ色の光が、爪の先をキラキラと縁取る。
「入学、おめでとうございます」
そうして、私の三年間が始まった。
【つづく】
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