絵文字の名前ばかりで名前の色を思い出せなくなったから名前を付けた

キネ

プロローグ

 初めての街。

 初めての出会い。

 初めての挨拶。

 そして――。

「ええと……」

 初めての言葉を発しようとするとき、ぼくはいつも躓く。

 自分の名前なのに、なぜか出てこない。直きに思いだすのだが、それまでの空白の時間、そもそも思い出そうと思っている名前がほんとうに自分の名前なのか、自信をもてなくなってしまう。夏目漱石の作品名をもじって、「我輩は人間である。名前はまだない」とでも名乗ってしまうのも手かもしれないが、そんな自己紹介をしようものなら、つまらないギャグで場を白けさせる人というイメージを間違いなく相手に植えつけることになる。それならば、相手に違和を感じさせてしまうとしても、名前を思いだすまでは黙っているほうが良い。

 おそらく、思いだすまでに十秒ほどの間隔があったのではないか。

 満面の笑みを湛えながら、内心ではかなり焦っていた。

 中学時代にハマっていたソシャゲのプレイヤーネームやら、今現在使用しているSNSのアカウント名やら、どうでもいい名前はすぐに思いだせるのに、肝心の本名が浮かんでこない。

 ぼくの目の前で、女の子が首を傾げている。染髪ではなく地毛の色なのだろうが、少し赤っぽい。その髪を肩にかかるくらいに切り揃えている。水色のワンピースを着る彼女は大人びて見えたけれど、彼女が仮に童顔だったらなら、だいぶ子供っぽくなるデザインだった。

 彼女と知り合ったきっかけがSNS内であれば、自己紹介をするのもたやすかった。「はじめまして。ぼくがこけももです」(それがぼくのSNSでのアカウント名なのだ)と名乗るだけで良い。

 けれども、リアルを介しての出会いとなれば話は変わってくる。ぼくも彼女も、互いの知り合いがだれもいない状況なのだった。彼女がスマホのグループメッセージに服装の特徴を書きこんでいたので、駅を出てから見つけるまでに時間はかからなかった。が、こんなことなら、トイレの個室で暇をつぶしていればよかった。集合時間まで、まだ三十分もある。とほほ。

 初対面の女子とふたりだけで話せるだけのコミュ力を残念ながら持ち合わせていない。だから余計に言葉に詰まる。まるでぼくの口ではないみたいだ。

 そんな苦労をよそに、子供が潮風を体に付着させながら走り去っていく。彼からこぼれ落ちた余剰の粒子が日差しに反射してきらめく。数分も歩けば、そこは海だ。初めて訪れる街であっても、海の広がりを、ぼくたちはスマホの地図アプリを通じて感じることができる。海に向かって、どこまでも青空が広がっている。それなのに、粒子が降り注ぐ街の景色はどことなく色褪せていて。

 そもそも、なぜ今回の企画に呼ばれたのだろう。まったく気乗りはしなかったのだが、せっかく誘ってもらったのを無碍に断るわけにもいかず、返事を濁しているうちに気づけば参加者リストに名前が載っていた。

 禰宜史哉。そう、それがぼくの名前だった。

 ようやく思い出した自分の名前を口にだそうと、唇を開こうとする。

――ねぎふみや。

 ところが、ぼくはこのクラゲみたいにふにゃふにゃとした自分の名前を結局、口にすることができなかった。

 なぜなら。

「禰宜くん?」

 先にぼくの名前を呼んだのは、彼女のほうだったのだから。

 潮風が彼女の髪を揺らしている。それを彼女は左手で押さえていた。ワンピースと同じ、水色のマニキュア。褪色した街並のなかで、彼女のマニキュアだけが色鮮やかだった。

 どうしてぼくの名前を知っているのだろう。

 一瞬の逡巡のあとで理由はすぐにわかったし、同時にそれまでまごついていた自分が恥ずかしくなった。

 彼女とこれまで会ったことがないとはいえ、グループメッセージという接点があるのだ。そして、彼女が投げた到着のコメントに対して、「ぼくももうすぐ駅に着きます」と返信を送っている。だから、彼女の目の前に現れるのが禰宜史哉なのは当たり前だった。自己紹介をする必要がそもそもなかったにもかかわらず、ぼくは自分の名前をすぐに思いだすことができずに勝手にひとりで焦っていたというわけだ。

 もちろん、ぼくだって彼女の名前を知っている。

「はじめまして、禰宜です。ええと、鹿波さんだよね」

 自分の名前はあれほど思いだすまでに時間がかかったのに、彼女の名前はすらすらと口に出せた。最初からそうしていればよかった。

 鹿波真帆。彼女がまとう水色にぴったりの名前だと思った。


 そのときからだ。自分の名前がどんな色だったのかを、思いだせなくなったのは。

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