第二部 修道院潜入編

第38話 プロローグ ソニアの修道院生活

 修道院に送られた元聖女の私、ソニアは劣悪な環境にいた。勇者パーティの聖女として周囲からもてはやされた時代は、遥か遠くの夢だった。

 

 極北に位置するアデンブル修道院。一年中雪で閉ざされる隣国と国境を接する村にあり、隣国の気候と大差ない。


 修道院の建物内は、暖炉の薪がもったいないという理由で最低限しか使われず、とくに廊下は身体の芯から冷えた。聖女時代の王宮の一室に住んでいた頃の、暖かい部屋が懐かしい。

 

 部屋と言えば……蛇口を捻れば水は出ると思っていたけれど、この修道院では昔ながらの井戸を使う。施設の中でも唯一暖かい修道院長の部屋の近くにあるおかげで、井戸が凍ることはない。


 魔法を使えば、水くらい簡単に出せるはずだったけれど……。

 

 魔獣ネアトリアンダーの甘い話に乗ってしまった影響で、魔法が完全に使えなくなった。聖女の回復魔法も全然ダメ。擦り傷さえ治せない。代償があまりに大き過ぎた。

 

 修道院長からは初対面の開口一番に「聖女が来ると聞いたから楽しみにしていたのに、魔法を使えないなんて役立たずね。期待しただけ損だったわ」と嫌味を言われた。

 

 役立たず。あの聖女――ロザリーに言っていた言葉がそっくり返ってくるなんて。惨めな自分に笑いたくなっちゃう。

 

 引く手あまたの聖女が、こんな劣悪な環境に喜んで身を投じるわけがないですわ!

 

 と、反論したくなる気持ちをこらえて「そうですか……。すみません……」と返事した。

 

 どうやら王宮から「ソニアは著しい環境の変化があり、体調面が危惧される。しっかり休めるように一人部屋にするように」と通達があったようで、修道院長はその配慮が気に食わなかったらしく、事あるごとに突っかかってくるのだ。

 修道院長の座が脅かされると焦っているのだろう。そんなつもりは毛頭ないのに。


 一生を王宮の牢屋で暮らすか、この修道院のどちらが良いか聞かれたら……どちらも嫌だ。究極の選択すぎて答えを出すのも嫌だ。

 でもそんなことを言うのは許されない。静かに神に祈りを捧げ、平和に貢献する。それが私の勤めだから。


 


 手ですくった冷たい水を顔にピシャとかけると、寝ぼけた頭が一気に冴え渡った。

 もちろん蛇口から出る水ではなく、自分で汲みあげた井戸水だ。井戸水の冷たさには慣れそうにもない。

 

 突然、「う……」とうめき声のようなものが聞こえた。一瞬、風の音だと思った。

 周囲に視線を走らせるが、誰もいない。朝日は出ておらず、辺りはまだ暗い。もしかしてまだ寝ぼけていたのだろうか。

 

 いや、違う。断続的にその音がして、耳を澄ませると、井戸の中から聞こえてきた。

 

 幽霊? 見たことはないけれど、もしそうだったら怖い。

 でも、確認してみないことにはわからない。

 

 意を決して、恐る恐る井戸の中を覗き込む。そこに映り込んだのは長い黒髪の美丈夫だった。


 瞬きをすると、消えた。

 幻覚を見てしまったのだろうか。

 誰かの視線を感じて、バケツに溜めた水を見ると、また同じ男性が映り込んだ。

 

「……ソニアだな」

「――え?」

 

 ゆらゆらと水面が揺れて、その彼が言葉を発したのだとわかった。

 私のことを知っているようだ。

 

 浮世から離れた存在でいようと思ったのに、心を動かされてしまったのは、きっとその男性があまりに美しい顔をしていたからだ。

 

「聖女が落ちぶれたものだな」

「――あなた失礼ね!」

 

 水面に映る麗人を睨み付けた。

 私が一番言われたくないことを……!

 

「お前の本来の実力を発揮できれば、勇者パーティは危機に陥らなかっただろうな。勇者が頭に障害を負ったのもお前の力で救えただろうに」

 

 この方は神なのだろうか。これまでの出来事をまるでその場で見てきたようだ。その中でも気になる一言が。

 

「本来の実力……?」

 

 聖女としては凡人で、ロザリーのような規格外な力はないと思っていた。そうではなく、私の自己評価が低かったってこと?


 私の顔色が変わったのを感じ取った彼は、すかさず畳み掛けてくる。

 

「我ならば、この状況を変えることができる。このチャンスをものにできるかは、お前の決断次第だ」


 そう言われては、もはや神の啓示に従うしかなかった。


「はい……よろしくお願いします」

 

 バケツから彼の手が伸びてきて、差し出された手を握り返す。握った感触はなく、空気を掴んだ感じだった。

 

 神が私の体に入り込んだとわかったのは、バケツから彼の姿が消えていたからだ。

 

 誰かの声に似ているとは思ったけれど、迷宮ダンジョンで甘い誘いをしてきた魔獣だと気づいたのは、意識が途切れる直前だった。

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