夜の電車

みにぱぷる

夜の電車

 バン。

 背後で小さな音が鳴った。私は特に気にせず、椅子に座ったまま新聞を読み続ける。うむ、この夏は異常気象なのか。もう毎年が異常気象で、どの年が異常でどの年が普通かわからなくなっていることに少々恐怖を覚えざるを得ない。

 バン。

 また背後で小さな音が鳴った。そして、それに被さるようにアナウンスが聞こえてくる。

「次は、武田、武田です」

 武田なら西宝まで、後二駅はあるか。私はそんなことをぼんやり考えながら新聞に目を落とす。目の前に座る男性は爆睡している。服装からして仕事帰りだろう。夜十時であることも考えれば彼は残業終わりの帰宅か、とついつい考えてしまうのは職業病というやつなのだろう。

 というのも、私は一応推理作家をやっている。一応ギリギリ食えていけるだけの稼ぎはあり、もうデビューから早十年近く経とうとしている。十年近く経ってもデビュー時の作品を超える人気作は書けておらず、正直そろそろ引き時かと弱気になっている自分もいるが、何とか続けている次第だ。

 スポーツ欄では、メジャーで活躍する野球選手の対談が大きく出ている。だが、私はスルーして新聞を読み進めていく。

「武田。武田です」

 アナウンスが鳴り、ゆっくりと電車が止まった。電車の扉が開き、電車に乗っていた数人は皆電車を降りていく。この車両には正面で爆睡している男性と私しかいなくなった。そして、また電車は走り出す。

 バン。

 また小さくこの音が。私は新聞を読み進める。

 異常気象によるカメムシの大量発生が一面を占めていた。「異常気象、カメムシの異常発生」とデカデカと見出しに書かれているが、そんなこと言われなくてもわかっている。異常気象により、カメムシが異常な量現れており、一部の地域では問題にもなっているそうだ。都会ではせいぜい虫嫌いにとって辛いだけで済むのだが、田舎となると農作物などが絡んでくるのだろう。

 先ほどから背後で聞こえる音もカメムシが窓ガラスに張り付く音だ。カメムシが発生し始めた時期こそ、いちいち気になって振り返っていたのだが、今となってはもう慣れすぎてカメムシにいちいち興味を示してはいられない。

 バン。

 また小さな音が。そして、羽音もかすかに聞こえてくる。ある程度電車の窓には防音機能があるので、そこまでやかましくはない。

「次は裏島。裏島です。錦頭への方は次でお乗り換えください」

 裏島、ということは西宝は次か。散々利用してきたこの路線だが、未だに駅の順番はうろ覚えである。これは記憶の衰退なんかではなく、ただただ自分が覚えようとしていないだけなのだと信じたいが。

 バン。

 バン。

 二匹同時に張り付いたのだろう。

 前の席の男性がぼそぼそ寝言を言っている。本当に疲れているようだ。そんな彼を見ていると私も眠たくなってきた。今日は出版社へ新作に関するあれこれで出向いたのだが、それまで缶詰をしていた私にとって外出は数日ぶりのことだったので、とても体力が吸われている。

「裏島、裏島です」

 電車がゆっくりと停止した。二、三人組の女子高生集団が乗ってくる。二、三人は頬にタトゥーシールを貼ったり、紫色の妖しげなローブを身に纏っている。これは別に彼女らが魔女であるというわけではなく、今日はハロウィーンで彼女らは仮装をしているのだ。

「マジで如月のキョンシーの仮装おもろかった」

「それな」

 三人は喋りながら車内に入ってくる。

 ふと一人が、あ、と小さく声を上げて、電車を降りていった。続いて残りの二人も降りていく。ここは乗り換えの多い駅なので、乗る先の電車を間違えたのだろう。電車の扉は閉まり、また走り出した。

「次は、西宝、西宝。次の駅が...」

 突然、アナウンスがそこで止まった。私はなんだろうと首を傾げる。放送器具の不具合だろうか。そして、今度は電車内の電気が消えた。真っ暗になり、私は流石に驚いてひっと声を上げる。数秒して、予備電力に切り替わったのか、再び電気がついた。特に車内に違和感はなく、前の席の男性は爆睡したままだ。なんだ、電波関係の不具合かと私はほっと胸を撫で下ろした。

 その束の間、電車が嫌な音を立てて急ブレーキをかけて止まった。私は椅子に座ったまま体勢を崩しそうになり、慌てて脇の手すりに捕まる。流石に驚いた私は電車が停止した後立ち上がった。前の席の男性はまだ寝ている。

 パリン。

 ガラスが割れる嫌な音がした。それと同時に、首筋に痛みが走る。私の背後の窓ガラスが割れたようだ。驚いて、振り返った私を待っていたのはおよそ信じられない様子だった。

 異常な量のカメムシが一気に傾れ込んでくる。私は驚いてそのまま床に尻餅をついた。大量のカメムシが堰を切ったように入ってきて、どんどん車内に充満していく。光のある天井に虫たちは溜まろうとするが、どんどん入ってくるため、スペースはなく、上から上からちょっとずつ私を潰すように、空間が埋められていく。

 これでさっきの女子高生の反応や、武田駅で殆ど全員の客が降りていった理由がわかった。これだけの虫が私の背後に張り付いていたのか。

 ハロウィーンの嘘だと言ってくれ。これは、ハロウィーンの仮装で、ハロウィーンが呼んだ幻想で。もう頭頂はカメムシによって埋められている。

 ハロウィーンは死者を祀るイベントだといつか聞いたことがある。アガサクリスティか誰かの小説でそんな一節を見た覚えがある。なるほど、この大量のカメムシたちはその死者たちなのか。日本で言うお盆のように、カメムシが降りてきたのか。

 私はそんな馬鹿らしい妄想をしながら自分の終わりを悟る。この車内にいるのは眠っている男性と私だけだ。いや、彼は気絶しているのかもしれない。どちらにせよ助けはいない。

 私は最後に大声で叫んだ。自分でも訳のわからない言葉を発して狂ったように叫んだ。その口の中にどんどんカメムシが入っていく。リスのように頬をぱんぱんにさせて口の中に充満しても、まだまだ入ってくる。それでも私は叫び続ける。

 声が出る限り、叫ぶ。


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