春風

正部芳奈

春風

 四月の末、春に追いやられるようにして、冬野透真は死んだ。急性心不全だった。はっきりした死因は分からない。俺と飲みに行った翌日には、彼はもう亡くなっていたそうだ。俺がそのニュースを知った時には、冬野はもう、煙になって、風になっていた。



「春見が気付いて連絡してきたんだと思った」

 四月の頭、冬野は居酒屋で、ラッキーストライクを吸いながら笑って言った。

 冬野は高校の同級生だった。彼はバンドマンで、高校の時から彼はバンドを続けており、大学卒業後デビューしたそうだ。しかし俺が彼のことを知ったのは高校卒業後だ。高校時代は彼とはたまに話す友人程度の認識しかなく、社会人になってから同僚に冬野のバンドのことを教えてもらい、彼を彼だと気付かないまま、気付けばファンになっていた。

 再会のきっかけは、かろうじて繋がっていたSNSで、自分のバンドのラバーバンドを腕に付けた冬野の写真を見て、彼のことをファンだと思いこんだ俺が「そのバンドめっちゃいいよな」とメッセージを送りつけたことだった。でも意地が悪いのは、気付かれてないことを面白がった冬野がファンのふりをして、「今度飲もうよ」と俺に声を掛けたことだ。名前を忘れるくらいには高校卒業から時間が経っていたし、彼はバンドでは本名を名乗っていなかったから、全く気付かずにホイホイその誘いに乗った。

 そうして飲み会当日、指定された席に向かえばそこには好きなバンドのボーカルが座っていて、俺は驚きのあまりふらついて、横の席に座っていた人のグラスを落として割った。浮かれて飲み会に行ったら推してるバンドのボーカルがいるってそりゃ普通こうはなる。そこで初めて冬野に騙されていたことに気付いた。そんなちょっかいかけるくらい俺を親しく思ってくれてんのかとちょっと浮かれもした。

「普通気付くだろうよ。俺は気付いてたのに」

「あり得ないくらい気付かなかったな……」

 彼はジョッキを呷りながら笑った。

 なんとかスーツに自分の体を押し込んで馴染ませようとしてる俺とは違って、冬野は元が良いのもあるが、ラフで自由な服を着ていて、大人になったのに無邪気な少年のままのようでもあって、羨ましかった。その儚げなルックスからはどこかかけ離れた、低くハスキーな歌声と、力強く、どこか泥臭く、かつ洒落た旋律が彼らの音楽の魅力だった。 

 俺も彼に見合うように背伸びし、酒を呷りながら笑う。煙草なんて吸い方を知らないから吸えるわけがない。笑えるくらい緊張して、暫く手が震えていた。俺の様子を見た冬野は震えが止まるまで笑いっぱなしだった。

「でも俺のバンド応援してくれてんの普通にめちゃめちゃ嬉しかった」

 彼は煙草をふかしながら嬉しそうに微笑んでいる。冬野は自由に生きているように見えて、まあ彼は彼なりに苦労してるんだろうけど、その小慣れた感じが格好良かった。

「今度のライブ来てくれんの」

 冬野はその頃、バンドの新曲が深夜ドラマのタイアップに決まったりと、人気に火が付き始めていた。その時期も彼はツアー中で全国のライブハウスを回っている最中で、俺もライブに参加する予定だった。発券ももうしてあって、スタンディングで前のほう。家の大事なもの入れの中に、しっかりとしまってある。心の底から楽しみにしていた。

「行くよ、絶対行く」

 俺が食い気味に答えると、冬野は噴き出して笑った。

「めっちゃファンじゃん」

「悪いかよ」

「や、全然。めちゃめちゃ嬉しいよ」

 彼は笑いながら、嬉しそうに俺を見つめる。ニッと歯を見せて笑う表情にはまだあどけなさが残っていて、彼は思っているより俺と近い場所にいるのではないかと感じて、目が離せなくなる。

 彼の持つ声色もそうだけど、大人しく見えて茶目っ気のあるような、そういうギャップも彼の持つ魅力だった。近くで彼と話すことで、彼自身の魅力を深く知る。今まで彼を知ろうとしなかったのを勿体なく感じて後悔するほどに。次のライブでは必ず、彼の姿を目に焼き付けようと決意した。今まで見えなかった彼の格好いい姿がより一層よく見えるはずだと思うと、期待で胸が躍った。

俺の決意を知らない冬野は、「お前と飲むの、楽しいわ。もっと早く仲良くなりたかったな」と言って酒を呷り、少年のような顔で笑った。


「今日は俺が奢るから」

 二人とも程よく酔いが回ってきたころ、冬野はよたよたと立ち上がって言った。

「さすがに申し訳ないって、俺も出す」

 俺がそう言うと、彼はニヤッと笑って親指と人差し指で輪っかを作った。

「最近ちょっとこれが潤ってんすわ」

 悪代官ってこういう奴のこと言うんだろうなってくらい悪い顔をするから、俺は思わず吹き出す。酔っ払いなんて箸が転がっても笑うんだから、つられて冬野も大笑いする。息ができないくらい笑ったあと、冬野は目元を拭って微笑んだ。

「いいんだよ。また次会うとき奢ってよ」

 俺は目を丸くし、口角を上げた。次のことを言ってくれるくらい楽しかったんだと安堵したし、めちゃくちゃ嬉しかった。また会いたいと心から思った。それは好きなバンドのボーカルではなく、ただの友人として。

「じゃあ物販もしこたま買わせていただきますわ」

「めっちゃファンじゃん」

「ファンだよ」

 冬野はまた笑った。俺も一緒になって笑った。こんなに笑えたのは久しぶりだった。


 結局めちゃくちゃ喋りこんで、居座ろうとする冬野の明日の予定を聞き出し、俺が急かす形でその日は解散となった。店から出ると、遅咲きの夜桜が街の照明に照らされて、ちらちらと風に揺られて光っていた。春らしい風景に見とれていると、かちりとライターの音が聞こえた。振り向くと、灰皿のそばに立つ冬野が煙草を吸いながら空を仰いでいた。俺の視線に気付くと手招きし、俺は彼の傍らに立つ。煙草の匂いは好きでも嫌いでもなかったけど、不愉快ではなかった。

「吸う?」

 冬野は俺に煙草を差し出した。

「じゃあ」

 一本取って咥えてみる。彼はライターを鳴らし、すぐさま煙草に火をつけてくれた。見様見真似で煙草に火をつけて、思い切り息を吸って思い切り咽せる。涙が出そうなくらい苦しがっている俺を見て、冬野は心配しながらも少し笑っていた。

「ごめんごめん。知ってると思ってて」

「いや、いいよ……」

 深呼吸をして呼吸を落ち着けて、もう一度煙草を吸う。煙の味しかしなくて、舌がぴりぴりするし、喉の奥だって仄かに痛い。何が正解で何が不正解かも分からない俺の煙草の吸い方は多分冬野から見たらとてもダサいんだろうけど、一緒に時間を過ごすための道具だと思えば、結構都合の良いもののようにも感じた。

「綺麗だねえ」

 冬野が煙を燻らせながら言う。桜の花びらは、煙の色と少し似ていた。煙が桜の花びらになる中に佇む冬野はあまりにも様になっていたから、俺は一枚写真を撮った。シャッター音に気付いた彼は子供のように近づいて、「一緒に撮ろうよ」と笑った。

「いいの?」

「いいよ。何がダメなの」

 冬野はやけに堂々と笑った。それもそうだなと俺も笑った。インカメラに変え、ぎこちない手つきでスマートフォンを持ち、掲げてみる。冬野が潜り込むように俺に近寄って肩に腕を回して、控えめに微笑んでピースサインをする。彼からしたら多分なんでもない動作の一つ一つが、彼と過ごした時間の長さと親しさが比例しないことを証明しているように思えた。

 俺もピースサインをして、子供のように笑う。撮れた写真を見て、二人して笑った。

「マジで子供じゃん」

「子供だな。高校の時のノリだ」

 顔を見合わせて笑う。高校の頃に戻った気分だった。何も考えず、なんの隔たりもなく、ただここにいる。大人になるとそういう些細なことでそばにいることすら結構難しくなった。だから、こうやって立場を気にせず話して肩を並べるだけのことが妙に嬉しくて、それだけで純粋な励みになるし、それだけで、冬野のことが誇らしく、応援したくなった。


「じゃあ、俺はここで」

 駅に着き、冬野は指をさした。俺はその逆方向に帰宅する。

「また飲みに行こうな」

「俺なんかでよければいつでも」

「春見だからいいんだよ」

 ぽかんと表情を失う俺に、冬野は笑う。

「マジで?」

「マジで」

 俺の表情を見る冬野は愉快そうに口角を上げた。

「……物販全部買ったろ」

 冬野はまた吹き出して笑った。

「無理しない程度でいいよ。来てくれるのが嬉しいから」

 冬野は笑みの色を残したまま、少し真面目な顔をして、俺に手を伸ばした。握手を求められていることに気がついて、俺は服の裾で手を拭って、差し出した。冬野は真面目な表情を綻ばせた。

「ありがとう。めっちゃ元気もらえた」

 嬉しくて泣きそうになるのを堪えて、俺は思い切り笑った。

「俺のほうこそ」

 冬野はニッと笑って、手を離した。

「歌ってきた甲斐あった」

 その言葉を聞いて、ぽろりと涙が零れた。報われたような気がした。俺の顔を見て、冬野は微笑み、肩をさすってくれた。

「泣くなよ。泣くんならライブの時にしろや」

 俺は笑って泣くのをやめ、こくこくと頷く。

「次のライブ行くから、頑張れ」

「うん。春見もな。楽しみにしてる」

 俺が頷くと、冬野は微笑み、「じゃあまた今度はライブハウスでな」と手を振った。俺は手を掲げ、それを合図にしたように冬野が振り向き、俺とは違う路線のホームへと向かっていく。俺は立ち止まって彼を見送る。彼は気持ち弾んだ足取りだった。その背中を見て、涙がまたぽろぽろ溢れ始めた。無味無臭とまでは言わないけれど、彩りの少ない俺の生活でも、なんの取り柄もないこんな俺でも、誰かの力になることができるというのを冬野が教えてくれた。明日から、胸を張って生きていける気がした。冬野が俺の友人で良かったと心から思った。俺も冬野の友人として、誇らしく思ってもらえるように頑張ろうと心から思えた。

 彼は一度だけ振り向いて、手を振って、階段を降りていった。それが、俺が見た冬野の最後の姿だった。



 スタッフが連絡がないからと自宅に様子を見に行って、それで冬野の死は発覚した。

 俺がその知らせを受け取ったのは彼が死んだ3日後で、それを教えてくれたのは彼の家族でも親しい人でもなく、彼が所属する事務所だった。

 前兆は、あった。直近のライブが中止になった。メンバーがSNSの更新を行わなくなった。不気味なくらい、音沙汰がなかった。メンバーに何かあったんじゃ無いかと思う気持ちはあったが、怪我や病気ではないだろうと思っていた。まさかそんな大事が、自分の生活に表裏一体であると思いもしなかった。漠然とした不安と、根拠のない希望を抱えながら会社と自宅の往復を繰り返し、最終的には報われることもなく、それはあっけなく期待を食い尽くして、俺の身体を空にした。

 帰宅して早々、その知らせを受け取り、玄関先で崩れ落ちた。不思議と涙は出なかった。嘘だろ、と声にもならない声が出る。今日も朝、通勤する時に彼の歌声を聞いていた。少し前にも二人で飲みに行った。普通に一緒に笑い合った。あれが最後だなんて、そんなのってないだろ。何かの質の悪いドッキリだって言ってくれよと思ったけど、そんな知らせはいつまで待っても来なかった。

 山ほど色んな事を考えた。どうして俺じゃなかったんだろう。どうして、あいつじゃなきゃいけなかったんだろう。誰の役にも立ちやしない俺だったら、死んでも良かったのに。声にならない思いも、言葉にできない思考も、自分の中でぐるぐると蟠って息ができない。胸が詰まって苦しくて、どうしようもないくらいに痛い。悲しさで人って死ねるんじゃないかと思うほど、現実は胸に深く突き刺さっていた。

冬野がいないのに、世界は何もかも前と同じ速さで進んでいくのが、信じられないほど寂しかった。そんな世界で生きている価値はあるのかと考えた。でも誰にも迷惑を掛けられないと思えるくらいには正気だったから、酒を飲んだ。いつもは飲まない量の酒を、よくわからないままに飲んだ。そうして運良く死ねたら、冬野と同じ所へ行けるんじゃないだろうかと、半ば本気で思っていた。それでも肉体は冷静で、過剰なアルコールを拒絶して気分が悪くなって、トイレに駆け込み便器に顔を突っ込んで嘔吐した。思考を埋め尽くしていたのは最悪とか絶望とかそういうのではなく、ただ、理不尽に対する遣る瀬無さと空虚だった。彼の音楽は、彼は、いつでも俺の傍にいて、俺のことをいつでも支え、知らず知らずのうちに励ましてくれていたのだと、その時はじめて気付いた。世界が彼の形だけを残して、埋まるものが何もない。聞こえてくる街の音も景色も何もかもが憎いほどにいつものままだ。目の前が真っ白になるだなんて嘘じゃないか。想像してたよりもずっと大事だっただなんて、いなくなってから気付きたくなかった。また飲みに行くって言ったのに約束破るなよ、と零した声は、吐瀉物と一緒に下水道へ流れていった。

 電気もついていない部屋でベッドに突っ伏して、正気に戻った頃、時計を見ると時刻は日付が変わって随分経っていた。次に襲い掛かってきたのは現実だった。明日も普通に平日で、会社を休もうか迷った。親が死んだことにして休んでもいいかと思ったけど、本当に人が死んでる手前、気が引けた。友人が死んで忌引きもないのは可笑しいだろと思った。

 ふと顔を上げると、部屋に貼ってある、冬野が映ったポスターが目に入った。それを見た瞬間、溶かした墨のような虚しさが俺の心に翳りを作った。呆然と立ち止まる。彼と笑い合ったり、一緒に煙草を吸った時間が鮮やかに蘇った。全てが過去になって、どうしようもない場所に行ってしまった。取り返しがつかない。彼の歌声を思い出して、また動けなくなるのが分かった。

 俺はポスターを外した。彼の音楽も、目に入らない場所へ何とか追いやった。今、彼のことを思い出していては、そのたびに立ち止まって息ができなくなって、うまく歩いて行ける気がしなかったのだ。それは、立ち直るために必要な動作だった。とりあえず、明日は会社を休もうと思ってスマホを手に取った。

 画面を見ると、大量の不在着信が来ていた。それは友人の那月からのものだった。次の日に飲みの約束をしていた、高校からの友人だった。彼は冬野とも仲が良かった。

 顔を合わせられないと心から思った。楽しい雰囲気で誤魔化すというのが嘘でも嫌だったし、絶対についていけないと思った。でもなんの連絡もなしに約束を一方的に破るのは嫌だし、彼の事情だって察する。お互い静かにしていたほうがいいんじゃないかと思っていた矢先、那月からの電話が来た。驚き出ようかどうか迷っていたが、迷った果てに、飲みを断るために出た。電話口には、思っていたより何でもない声のトーンの那月がいた。

「もしもし」

「悠人、今から会えるか」

「今……?」

 時計を見る。時刻は夜更けも夜更けだ。言い淀んでいると、ふっと笑う声が聞こえた。

「ごめん、聞き方悪かったな。今から会うぞ」

「は?」

 俺が本気で聞き返すと、外でクラクションの音が鳴った。まさかと思ってベランダから外を見ると、そこには一台の車と、それから出てくる那月の姿があった。

「お前馬鹿?」

「言いたいことは分かってるよ。馬鹿にくらいならせてくれよ」

 那月が零したその一言には、現実の重さや彼の思いが滲んでて、馬鹿にできなかった。

 那月は笑うでも、悲しむでもなく、言った。

「今から、冬野の葬式しよう」


 喪服を着て降りてこいと言われ、喪服なんて持ってないから、持ち合わせの中でできる限り黒いスーツと黒めのネクタイを用意して、それを着て部屋から出た。マンションの前には俺と似たような黒いスーツと黒いネクタイを締めた那月がいた。彼は少しだけ笑って手を振る。俺は手も振れず、ただ彼の前に歩いていく。

「すげー顔だな」

 那月は俺の顔を見て笑った。那月は、パッと見ても特に異変はないように見えた。凹んでないわけじゃないだろうけど、すごいなと感心した。大人だな、と思った。

「どうせお前、明日仕事なんて行けないだろ」

 何から何まで説明しないでいいのが楽だった。那月の一言で、明日仕事休もうと決めた。

「今からどこ行くんだよ」

 車に乗りながら尋ねると、那月は真面目な顔で言った。

「海」

 そう言われてピンと来る。ドラマのタイアップが決まった冬野のバンドの曲は、海が舞台となる別れの曲だった。

 後部座席を見ると、花束が置いてあった。冬野のためのものだとすぐに分かった。俺は何も言わずにシートベルトを締める。ここまで来たら、那月の思うようにさせようと思った。車はゆったりと、夜闇へ向かって進む。


 流れていく街並みの光や車が走る音を聞きながら、俺はただ茫然と、冬野を忘れることに努めていた。しばらく無言で、先に静寂を破ったのは那月だった。

「友達なのに葬式にも通夜にも行けないって悲しいなって思ってさ」

 那月はハンドルを握りながら言う。那月が言われて初めて、そういえばそうだと気付く。彼はとっくの昔に煙と骨になってしまっている。俺たちが知らない間に、彼の家族だけで。

「普通そういう場所できっちり気持ちと現実を分けるもんだと思うからさ」

 那月の話はなかなか筋が通っていると感じた。今までの人生でそういう別れの区切りがなかった俺は、今にも死にそうなほど駄目になっていた。那月が誘い出してくれなければ、ずっとこのままだったかもしれない。無理やり那月が来てくれてよかったのかもしれないと思って、それと同時に申し訳なくなった。

「曲流していい? 透真の」

「冬野の曲?」

「そう。今度のタイアップの」

 赤信号で立ち止まっている時、那月はスマホを触りながら言った。

「俺あの曲好きなんだ」

 那月は俺に笑いかける。それに反して、俺はうまく笑みを返せなかった。それに気付いて、那月は表情を曇らせた。

「悪い、今はあんまり聞きたくない」

 那月は俺の表情に気付いたのか、スマホを置き、ハンドルを握り直した。

「そっか」

 彼は優しく微笑んでいた。いい友達を持ったな、と思えた。

 しばらく無言が続いた。時刻はもうそろそろ明け方だった。普段は眠くなる時間帯のはずなのに、全く眠くならないのはどうしてなのだろう。那月も眠そうな素振りの一つも見せずに運転を続けている。那月も俺と同じなのかなと思った。俺たちには、たぶん似たような形の空白ができているけど、世界の誰もがそのことに気付いていない。世界ってそんなもんなのかもしれない。それが大人になるってことだと思うと、妙に寂しかった。

 隣で運転する那月を見る。彼は今ここに生きている。両親のことも急に思い出した。そういう人たちは、自分より先に死んでしまうんだろうか。これから先、今くらい苦しい悲しみを何度も繰り返すことになるのだろうか。そう考えて、怖くなった。人生には別れしか残されていないのだろうか。皆、どうやってそのことを割り切って生きて行くのだろう?

 だけど分かっていることも一つあって、もし今那月が死んでしまったら、間違いなく俺は後を追う。那月もきっとそうだ。死ねないなと、漠然と、強く思った。人は死に場所を探すためではなく、人との繋がりに生かされているのかもしれない。那月の運転する車に揺られながら、思った。人間はたぶん、どうしようもなく一人じゃ生きていけないのだ。


 海岸のすぐそばの駐車場に車が止まった。外へ出ると、冷たい潮風が頬を撫でていく。暗い空のふちは徐々に白く染まっていた。

 彼は後部座席の花束を手に取った。

「菊とか混じってるからいいだろ」

 那月は冗談みたく笑う。どうやら仏花のつもりらしい。こいつ本気で葬式やる気あんのかと思った。それならちゃんとした喪服も着ずに式場とは遠く離れた海まで来てる時点で俺も同罪か、とちょっとおかしくなって笑った。那月は俺の顔を見て、また笑った。

「行くか」

 彼は花束を肩に乗せ、砂浜を歩いていった。俺もそれについて砂浜を歩く。灰色の砂浜は乾いていて、足を取られてうまく歩けない。悪戦苦闘しながら波打ち際へと近づくと、那月は花束の包装を解いて、花を数本渡してきた。

「これを海に投げる。んで、線香替わりに煙草を吸う」

「映画かよ」

「やってみたかったんだよ」

 那月はいたずらっぽく笑った。やりたくなかったかと問われると、なんとも微妙なところだ。縁起が悪いような気もしたけど、冬野なら怒らなさそうだし、やる機会は確かにないわな、と妙に納得もした。

「それに、あいつこれ好きだったから」

 那月はポケットから新品の煙草を取り出した。それはラッキーストライクだった。冬野の笑顔が、今もまだ、色鮮やかに蘇る。

 持っていた花を、半ばやけくそで思い切り遠くへと投げた。振り払いたい気持ちだった。

 乱雑な投げ方だったから、花弁が数枚散って、足元に落ちた。空気の抵抗を受け、壁にぶつかるようにして花は海へと落ちていく。那月も花束を、俺よりは丁寧に投げる。ぱしゃりと音を立てて海に浮かんだ花は、波に攫われて時間をかけて、遠くへと離れてゆく。

 ライターの音が波の音に混じって響いた。横を見ると、那月が煙草に火を付けていた。那月は煙草とライターを俺に渡しながら煙を吐き出した。煙は風に煽られ、淡く消える。

「ラッキーストライクって天国に一番近い煙草なんだって、透真が教えてくれたことあってさあ」

 俺は煙草を一本取り出して、煙草に火を付ける。そっと吸えば、火は容易に付いた。

「ガンになりやすいんだってさ。ロマンチックもクソもない」

 なんてこと言うんだと思って振り向いて、俺は固まった。それまで気丈に振舞っていたはずの那月が、静かに泣いていた。

「天国に届くかな」

 那月は目元を拭いながら、声を涙で滲ませて、言った。

「ずりいよ、お前、それは」

 喉の奥が締まって、つんと痛む。絞り出すような声が出る。那月は馬鹿にするみたいに鼻で笑って言った。

「なに泣いてんだよ」

 気付けば、涙がこぼれていた。

 那月のそばに詰め寄って、彼の腕を掴む。彼の瞳からまた、涙が零れた。

「なんでこんな苦しいんだよ、なあ」

 流すつもりのなかった涙が、ぼろぼろと流れ始めた。行き場のない悲しさが知らず知らずのうちに膨れ上がっていて、やっと出口を見つけて、あふれた。

「こんなに痛くて苦しいのに、忘れられないんだよ。俺どうやって冬野のこと忘れて生きていけばいい?」

 那月の腕を掴んだまま、崩れ落ちる。冷たい波が俺を打ち、そして返っていく。涙だけが止め方もわからないまま、流れていく。八つ当たりだと分かっていた。今の俺たちはうまい生き方を知らなくて、真正面から悲しみにぶち当たって壊れていくことしかできない。避け方があるなら、教えて欲しかった。悲しまずに人と別れる方法があるなら、知りたかった。

 那月は俺の腕を掴み返した。強い力だった。

「そんなん俺だって教えてほしかったよ」

 那月は俺のことを掴み上げ、立たせる。那月の瞳は涙に濡れていた。彼は真っ直ぐ、俺のことを見つめている。彼は手を放して、ゆっくりと、無理をして、笑った。口角は震えていた。

「悠人は俺より先に死ぬなよ」

 人は別れを前にしてどうやって平気な顔して生きてるんだろうと思っていた。誰かからうまい生き方を教わるんだと思っていた。でも本当はそうじゃなくて、皆、そんな理想的な方法を探して、傷ついたまま、何とか息をして、大人な顔して生きているんだろう。

「それはずるいだろ」

 波間で花が揺れている。日が差し込み始めて空を仰ぐと、胸がすっと空くような、綺麗な朝焼けが広がっていた。煙草の火をもみ消して、那月と並んでそれを見つめる。

「俺は、忘れたくないよ。透真のこと」

 那月がぽつりと呟いた。穏やかな声だった。

「思い出されないほうが寂しいだろ」

 那月の声が波の音の間で揺れている。そうだな、と掠れた声で相槌を打つ。何が正解かはわからなかった。でも、俺の思いも那月の声も、全部正しい。生きていく方法に、間違いなんてないはずだ。

 まだ、まだ苦しいけど、生きようと思った朝を忘れないために、写真を撮ろうと思った。スマホを開くと画像欄が目に入った。そこには、冬野と一緒に撮った写真があった。こんな気分に似合わない彼の笑顔を見て、ちょっと泣いて、笑ってしまった。遺影にしては明るすぎるそれを見て、漠然と、写真の中で笑う彼は死んでいないんだなと思った。彼がこの世からいなくなっても、彼のいた痕跡は決して消えはしない。だからこそ苦しいし、してやれなかったことへの後悔が幾度も募るけれど。

「なあ、車に戻ったら透真の歌聞こうよ」

 俺がそう言うと、那月は弱々しく、だけど笑って頷いた。

 人は簡単にいなくなる。だから、今、声にしなきゃいけない。伝えないといけない。あとから、少しでも後悔しないように。

 人間はたぶん、生きるのが下手くそだ。だからその分、失わないように大切にできる。受け止めようと手を伸ばそうとする。

「ありがとな」

 俺がそう言うと、那月は歩き出しながら手を上げた。

「あと、お前も俺より先に死ぬなよ!」

 そう言うと那月は誤魔化すように走り出した。俺も一緒に走り出す。びしょ濡れのズボンで車乗るな!という叫び声を聞きながら、涙を拭って、進む。

 冬野が今どこかでもし俺たちのことを見ていたら、笑うんだろうか。笑ってほしいなと思った。なんとか生きてみるから、全部終わったら新曲を聞かせてくれよ。今は息ができないくらいに悲しいけど、与えてくれたものは消えない。涙が出るほど、出会えてよかったと、心から思える。

 どこかで、ライターがカチリと鳴った。振り向けば、白い空の中に、煙草をふかす冬野の姿が見えたような気がした。瞬きをすればその姿は煙のように空へと溶けて、強い風が吹いた。優しく頬を撫でて過ぎ去り、辺りが一瞬、静まり返った。

 冬野だと思った。大きく息を吸い、吐く。

 冬野は春風になった。春風になって、今もここにいる。そう思うと、すとんと腑に落ちた。自由なやつだな、と笑って、また少し泣いた。

 車の中で、あの日のことを那月に話そうと思った。今なら、笑って話せそうだ。

手を振れば、強い風が吹く。背中を押されて、俺は歩き出した。

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春風 正部芳奈 @Hm9512

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