13

「なに? どうしたの?」


 レイは巧の視線を追うが、眼鏡を失った彼女の目には、空の薄い青色がぼんやりと見えるだけだった。彼女は目を細める。


「あ……」


 巧が見ているものを、ようやくレイも認識する。そしてそれは、まさに彼女の予想通りのものに他ならなかった。


---


 隼人は瞼をぎゅっと閉じたまま、涙が自然に湧き上がるのを待って、眼に入った砂を洗い流す。野球場のマウンドに立っていた時にも、砂が眼に入ることはよくあった。そんな時、彼はいつもこうして凌いでいたのだった。


 "……あれ?"


 ようやく眼を開けることが出来た彼は、足元にあったはずのホルスターが姿を消していることに気づく。


 さすがに彼も一撃で敵機を撃墜出来るとは思っていなかった。だからホルスターのベルトに予備の弾を三つ入れておいたのだ。しかし、そのホルスターそのものが無くなってしまっては元も子もない。


 "そうか! 今の風で吹き飛ばされたんだ……しまった!"


 慌てて隼人は辺りを見回すが、見える範囲にホルスターは影も形もなかった。


 "だめだ……探してる間に敵はもう一度攻撃を仕掛けてくる。とても間に合わない……"


 ほぞを噛む思いで隼人は、それでもホルスターが飛ばされたとおぼしき方向に走りだそうとする。


 が。


「隼人! 上を見ろ!」


「……え?」


 巧の声に隼人は反射的に足を止め、上を向き、そして……その顔が、巧と同じように驚愕の表情に変わる。


「……何だありゃ?」


 遥か上空、高度三百メートルほどに一つ、光の点があった。視力2・0超の隼人の両目には、それは小さな落下傘にぶら下がっているように見えた。


 しかし、いつまでもそれに目を奪われているわけにはいかない。その謎の光点も潜在的には危険なものかもしれないが、それ以上に明白で大きな脅威が彼らに差し迫っていたのだ。


 上昇していたSu-24が大きくループを描き、三たび地上掃射の体勢に入った。彼らに向かって一目散に急降下してくる。


「巧、レイを連れて逃げろ!」


 我に返った隼人は、そう叫び残してSu-24に向かって走り出す。彼は巧とレイから敵の注意を逸らすつもりだった。


「待ってよ、隼人!」レイも叫び返すが、隼人が足を止めないのを見て、巧を振り返る。「巧! あなたも彼を止めてよ! あのバカ、囮になるつもりなのよ! 無茶にも程があるって……」


 しかし、巧は隼人の方に向いたまま言う。


「いや……無茶じゃないよ」


「……どういうこと?」


 不思議そうに自分を見上げるレイの顔をちらりと見てから、巧は隼人を指さした。


「レイ、立つんだ。あいつの後を追うぞ」


「ええっ?」レイは目を丸くする。


「あいつは分かってやってるのか知らないけど、この状況ならああするのが一番正解なんだ。敵が狙ってるのは、どうやらアレみたいだからね」そう言って巧はジープの方に顎をしゃくって見せる。「だからアレからできるだけ離れなきゃならない。とすれば、どこに逃げるか、だけど、敵に向かっていけば常に敵の位置が把握できるし、万一敵がこちらを狙ってきたとしても、距離を詰めれば詰めるだけ向こうは射撃しづらくなるからね。レイ、走れるか?」


「……」


 呆然としながらも、レイは巧の顔を見つめた。


 "信じられない……この人、なんでこんなに冷静なの……?"


 先ほどフラッシュバックを起こしてすっかり取り乱してしまった彼女としては、この極限状態にもかかわらず平静さを保ち続けている巧の精神構造が、全くもって理解できなかった。


 だが、巧の過去に思い当たったレイは気づく。彼は死ぬことを恐れていない。むしろ、死ねばメグにもう一度会える、とすら思っている。だからこんな状況でも落ち着いていられるのだ。


 それは哀しいことだが、皮肉にも今のレイは、むしろそれに感謝したいほどだった。目の前に冷静な人間がいれば、彼女も自分を見失わずにいられる。


 だけど同時に彼女は、このままではいけない、とも思う。巧は自分の命を惜しいと思っていない。そしてそのような人間は、往々にしてそのまま文字通り致命的な事態を引き起こすのである。特に、戦場では。


「どうしたの?」


 巧が訝しげに自分の顔を覗き込んでいるのに気づいたレイは、我に返る。


「え、ええ、大丈夫」


「ようし」巧は笑みを見せて、立ち上がりながらレイの手を握ると、ぐい、と引いて彼女も無理矢理立たせた。「それじゃ、あいつの方に向かってジグザグに走るんだ。さあ!」


「待って」レイが巧を見据える。「眼鏡がなくてよく見えないの。あなたが先に行って。私はあなたについて行く」


 そのレイの申し出には、言外の意図があった。今の巧は彼女を助けるために、何か命知らずな無茶をしでかすかもしれない。だけど彼が常に目の前にいれば、彼女もそれに対処しやすくなる。086のクルーである彼を失うわけにはいかない。だが、それにもまして彼女は、自分だけが生き残るようなことはもう二度と経験したくなかったのだ。


「分かった。だけど、くっついていたら、やられるときは二人ともやられる。僕が見える限り距離を開けてついてくるんだ。いいね」


 巧はそう言って走り出す。元々なのか、それともレイを慮ってなのかは分からないが、彼の走るスピードはそれほど速くなかったため、レイも十分ついていくことが出来た。むしろ気が急いているせいか、「距離を開けろ」と巧に言われたにもかかわらず、いつのまにか彼女は彼の真後ろにいた。そしてそれは見事に裏目に出る。いきなり巧の足が止まったのだ。


「……きゃっ!」


「うわっ!」


 巧が止まったのに気づかなかったレイが、そのまま彼の背中に突っ込む。その反動で巧もよろけるが、かろうじて二人とも転倒は免れた。


「いたた……もう、何なのよ……」


 思いっきりぶつけてしまった鼻っ柱を押さえながら、レイは巧の顔をのぞき込む。


「ご、ごめん……隼人がいきなり立ち止まったんだよ。で、何だろうと思って上を見たら……ほら」


 巧が指さす方を、レイも目を細めて見る。

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