12
右の肩が痛む。
が、骨折も脱臼もしていないようだ。痛みを我慢すれば、とりあえず右腕を動かすことはできる。
地面に横たわっていたレイは体を起こす。
迷彩服の破れた右肩の穴から、血の滲んだ素肌が見えた。
"打撲と……擦りむいただけか……助かった……"
遠くの風景にうまく焦点を合わせることができない。それでようやくレイは眼鏡を失ったことに気づく。彼女の裸眼視力は左右とも0・5。眼鏡なしでも日常生活に支障を来すほどではないが、今のような状況で眼鏡を失うのは、どう考えても望ましいことではなかった。
二メートルほど離れて、ジープが右側面を地面に付けて横だおしになっている。
それがその形になった瞬間、レイは運転席から投げ出され、右肩から地面に落ちて転がったのだ。大した怪我をせずに済んだのは、無意識に体を丸めて受け身を取ったからだろう。
レイは目を細め、上を見上げる。
Su-24は上昇し、翼を開いて大きく旋回していた。
通常、戦闘機の機銃は機軸の方向にしか撃てない。地上の目標を攻撃するためには、機首を下げなくては狙えない。しかし、機首を下げたままでは当然地面に激突してしまう。従って、地上の目標を繰り返し攻撃するためには、下降と上昇を何度も繰り返さなくてはならないのだ。
"同じコースからまた銃撃するつもりね。ここにいては危ない……"
そう考えてレイが立ち上がった時だった。
「レイ!」
自分を呼ぶ声に、レイはギョッとして振り向く。
ジープの向こうから走ってくる巧の姿が、彼女の眼に飛び込んできた。
「巧!?」
「よ……よかった……はぁ……はぁ……無事だったんだ……」
息を切らしながら巧はレイに近づく。だが、そんな彼を、レイは顔に怒りをあらわに浮かべて睨みつけた。
「バカ! 何で出て来たりするのよ!」
レイの前で立ち止まった巧は、両手を両膝に置いて体を折り曲げ、苦しそうに呼吸を続ける。
「はぁ……はぁ……言ったろ……僕には……はぁ……はぁ……君を見捨てること……なんか出来ないって……」
言ってしまった後で、それが随分とクサいセリフであることに気がつき、巧は恥ずかしさで頭に血が上るのを感じる。もっとも、全力で走った彼の顔は既に真っ赤に上気していて、それ以上赤くなることも無さそうだった。
「と、とにかく、ここにいたら危ない。早く逃げないと……!?」
突然レイの言葉が途切れたのに気づき、ようやく息が整い始めた巧は顔を上げる。
「……レイ?」
レイは大きく目を見開き、驚愕の表情のまま凍りついていた。その視線の先を追った瞬間、巧も同様に絶句する。
そこにいたのは、自転車に跨った隼人だった。
「「隼人!」」
二人の声が重なる。
「……はぁ……はぁ……お前ら、助けに来たぜ」
汗だくで、肩で息をしながらも、隼人はニヤリと笑う。
「あ……あなた……どうして……」あまりにも想定外な事態に、レイはそれだけを言うのがやっとのようだった。
「巧を死なせるわけにはいかないし……それに、レイ……てめぇにも、助けてもらった借りがあるからな」
隼人は自転車から降りると、それを無造作に地面に倒す。
「た、助けに来た、って……」巧も呆然と隼人を見つめるだけだった。
「おう、武器を持って来た。こいつで敵機をぶち落としてやる」
隼人はホルスターを肩から降ろして、その中に収まっていた、大型の拳銃のような武器を取り出し、セフティレバーを降ろす。
「ちょ、ちょっと、あなた、それ……」レイが驚きに固まったままの顔で言いかけるが、隼人の耳には届いていなかった。
「来たぞ!」駆け出そうとした隼人が、ふと足を止めて振り返る。「お前らは早く逃げろ! 巧、レイは任せた!」
「お、おい、隼人! 待てよ!」
巧の制止も聞かず再び隼人は走り出すと、ジープから十メートルほど離れて止まり、足元にホルスターを投げ捨てて両手で武器を構え、降下して来たSu-24に狙いを定める。
Su-24の銃撃が始まり、地面に転がったジープに向かって、一直線に弾着煙が延びていく。
"まずい、ジープがやられる……燃料タンクを撃たれたら、爆発するぞ!"
巧はジープから傍らのレイに視線を移す。ジープは彼らが今いる位置から五メートルも離れていない。今のままでそれが爆発したら、二人ともただで済まないのは明らかだった。
「レイ、伏せろ!」
巧はレイに向かって叫ぶが、彼女は隼人に気を取られたままだった。
「待ちなさい! 隼人……そんなもので……きゃっ!」
隼人を追いかけようとするレイの背後から巧がタックルし、彼女に覆いかぶさるようにして強引に押し倒した。ほぼ同時に機銃弾がジープを直撃する衝撃音が響く。
Su-24が地上に最も近づき、上昇に転じようとした、その瞬間。
「行けぇ!」
隼人は叫びながら、頭上を飛び去ろうとするSu-24の前方、着弾を見越した位置に向かってトリガーを引く。
だが。
「!?」
隼人の手に持った武器の銃口から発射されたものは、彼の予想を遥かに下回る初速だった。それはSu-24が既に飛び去った何も無い空間を、のろのろと白煙を引きながら上昇する。
"しまった……外したか!"
次の瞬間、Su-24が巻き起こしたすさまじい旋風が砂塵と共に隼人を襲う。反射的に眼を閉じたが、遅かった。砂が二、三粒彼の両眼に飛び込む。
「くぅ……!」
目を閉じ、吹き飛ばされそうになりながらも隼人は必死に耐える。
---
数秒続いた暴風が止んだ。
「……George!」
"え……?"
レイの叫び声に、彼女の上にかぶさって地面に伏せていた巧は体を起こす。土ぼこりが彼の髪を白く染めていたが、気づくはずもなかった。
「う……わっ……?」
突然、体の正面に何か柔いものがぶつかるのを感じた巧は、とっさに右手を背中の地面について、反動で仰向けに倒れようとするのを防ぐ。
レイだった。彼女が起き上がるや否や、巧の胸に飛び込んでいたのだ。
「No……George……Don't leave me alone……」
絞り出すような声でそう言いながら、巧の背中に両腕を回し彼の体を締め付けたままで、レイはガタガタと震え続けていた。
「レ、レイ……?」
女性から抱きつかれた経験などない巧は狼狽する。だが、レイは今、明らかに錯乱しているようだ。とにかく彼女を正気に戻さなくては。
巧は両手でレイの両肩を掴んで彼女の身体を無理やり自分のそれから引きはがし、そのまま激しく前後に揺さぶる。
「しっかりしろ! レイ!」
「!?……あ……巧……」
ようやくレイが我に返る。その左目から一筋の涙がこぼれ落ち、頬を伝った。
「……んっ」
怪我をした右肩に痛みが走ったのか、レイが顔を歪める。慌てて巧はその肩から両手を放した。
「あ、ごめん……怪我してたんだ……」
「ううん、大丈夫よ。巧……あなたは、大丈夫なの?」
「あ、ああ、何ともないよ」
「よかった……」
レイは心底ほっとした、という表情に変わり、左手で涙を拭う。巧と目が合うと、なぜか彼女は頬を赤らめた。
「あ、あの、ごめんね、いきなりしがみついたりして……」
「え……あ、いや……別に……いいんだけど……」
レイの体の温もりと感触が、まだ巧の意識にはっきりと残っていた。しかし、彼らは今、間違いなく危機的な状況にあるのだ。巧はそれらを頭の中から強引に振り払う。
「そうだ、敵機は?」
巧は頭上を見上げ……ポカンと口を開けたままになった。
「な……何だ? あれは……」
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