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「……!?」


 一瞬、ジェットエンジンの排気音が聞こえたようだった。


 朱音は時速八〇キロメートルで走らせていた黒塗りのモトクロッサーを、躊躇なく真横に向ける。カウンターハンドルを一杯に切ってテールスライド。モトクロッサーは土煙を上げて急減速、停止する。朱音は右足をアスファルトの路面に付けてエンジンを切り、ヘルメットをずらして耳を露出させる。


 静寂。やがて、ターボファンエンジンの音が途切れ途切れに、しかしはっきりと朱音の耳に聞こえ始めた。


 "しまった! 予想より早い!"


 朱音はサイドスタンドを降ろしてモトクロッサーから降り、背負っていた携帯型地対空ミサイル、スティンガーを背中から降ろす。

 しかしそれよりも早く、彼女の左後方から一機のSu-24が姿を現し、高度三〇メートル程の超低空を瞬く間に飛び去って行く。NATO名Fencer。可変後退翼に双発エンジンを備えた、やや大型の戦闘爆撃機。


「く……!」


 朱音はスティンガーを構えるが、既にSu-24は山の稜線の向こうに消えていた。


「まずい……桜峠に向かってる……」


 スティンガーをかつぎ直し、朱音はモトクロッサーに飛び乗ってキックペダルを蹴った。

 2ストローク二〇〇ccのエンジンに再び火が入る。単気筒シングルシリンダー特有の低く断続的な排気音。


 スタンドを蹴り上げ、右手を軽く捻って空ぶかしブリッピングを加える。シフトペダルを一速に蹴り込み、スロットルを開けながら〇・一秒だけ滑らせてクラッチミート。浮き上がる前輪を両手のハンドルで押さえ付けながら、朱音はフルスロットルでモトクロッサーを加速させた。


---


 止めてから三〇分ほどしか経っていないジープのエンジンはまだ十分暖かく、キーを一捻りするだけで始動した。


 サイドブレーキを下ろしてシフトレバーを一速に入れ、レイは右足のアクセルを踏みこむと同時に左足で乱暴にクラッチをつなぎ、急発進する。


 ラップトップ端末から得られた情報では、敵機の進入コースは南々東。もうそろそろこの上空を通過するはずだった。


 果たして、レイが駐車場から出ようとしたその時、彼女の左前方からSu-24が降下してくるのが見えた。


 "見つかった! 間に合わなかったか!"


 レイはアクセルペダルを底まで踏み付ける。二七〇〇ccディーゼルターボエンジンが唸りを上げるが、それは機構的に高回転まで回らないため、加速が頭打ちになってしまう。


  急上昇するSu-24の両主翼上面が白い蒸気ヴェイパーに覆われる。インメルマン・ターンの途中でロールして右に針路を変えたその機動が、自分のジープを道路に沿ったコースから射撃するための準備であることは、レイにも容易に察しがついた。


 "撃たれる前に、あの曲がり角に飛び込めれば……"


 ガリッ、とトランスミッションが悲鳴をあげるのにも構わず、レイはシフトレバーを乱暴に三速から四速に叩き込み、正面の左カーブを目指してアクセルを踏み込む。


 彼女の背後にSu-24が降下し、射撃を開始。機関砲の咆哮と共に、弾着煙がジープの後方に等間隔に立ちのぼった。


「!」


 とっさにレイはハンドルを左に切る。急激に左を向いたジープの、右一メートル程の地面に降り注いだ二三ミリ弾が次々に土煙を上げていく。


 だが、グリップを失いスライドしていた右後輪が爆撃で荒れた道路の窪みにはまり、その反動でジープの車体がぐらりと大きく右に傾いた。


「しまった!」


 あわててレイはハンドルを右に戻す。ジープの傾きが辛うじて横転する一歩手前で止まる。が、それも一瞬のことだった。


 飛び去ったSu-24が巻き起こした旋風に押される形で、ジープの車体が再び傾きを増してゆき、遂には左側面を真上に向けて横転、静止する。


---


 "……ここは……?"


 意識を取り戻した巧は、ひんやりしたコンクリートの床の上に、自分が仰向けに横たわっていることに気づく。


 真っ暗な空間。だが、彼の目の前には白く光る三日月のような形があり、そこから差し込む光が彼の顔を照らしていた。


「……うっ!」


 起き上がろうとした巧の腹に走った痛みが、彼に現在の状況を瞬時に思い出させる。


 そこは、さっきまで彼とレイがいた、地上と機器室の間の狭い地下室だった。


 "確か僕はレイに、当て身を食らわされて……そうか、彼女が気を失った僕をここに運んで、一人で行っちまったんだ!"


 三日月のように見えたのは、マンホールの蓋が穴の上から少しずれて置かれたために出来た隙間だった。巧が中から蓋を開けやすくするためか、それとも彼の窒息を防ぐためか、いずれにしても、それがレイの配慮なのは間違いなかった。そして今、その隙間からジェットエンジンの排気音が漏れ聞こえていた。


 "まずい! もうこの上空に来たのか? とにかく、ここから出なくては……"


 両手で力任せにマンホールの蓋をはねのけ、外に飛び出した巧を、いきなり轟音と突風が襲う。激しい風と眩しさで、眼を大きく開くことができない。


 ようやく明るさに眼が慣れ、ガシャン、と大きな音がした方に巧が振り向くと、二〇〇メートルほど向こうで、レイが乗っているであろうジープがシャシーを彼に向けて横たわっていた。


「!」


 巧は全身の血が一気に引くような絶望感に襲われる。六年前の情景が一気に脳裏に蘇り、ドクン、ドクンと心臓が高鳴る。


 "そんな……また、何もできなかったなんて……"


「レイ!!」


 巧は絶叫しながらジープに向かって走りだす。


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