17

「おう!」


 応えると同時に巧は首をすくめて急激な機動に備える。彼は隼人の意図を既に察知していた。


 隼人は操縦桿を左に目いっぱい倒し、続いてそれを右へ一気に運んでカウンターを一瞬当てロールを止めると、今度は折れよとばかりに一杯に引く。〇・二秒で一八〇度裏返った機体はそのまま機首を真下に向けて降下を開始する。アルファベットのSの下半分のような軌道を描く、スプリットS機動の始まりである。


 水平に急旋回を行えば速度が低下するが、スプリットSの場合は位置エネルギーが運動エネルギーに変わるために速度は落ちず、むしろ増加する。

 加えて、スプリットSの開始時は地球の重力が機動によって発生するGを打ち消す方向に働く。従って、水平旋回に比べて急激な、しかも速度を失わない方向転換が可能になるのである。もちろんそれは高度というアドバンテージを犠牲にした結果ではあるのだが。


 HMTDの対気速度表示がMach《マック》単位に切り替わる。音速を突破したのだ。キャビンに鳴り響く速度警告音をものともせず、086は空中分解すれすれの速度で一気に一五〇〇〇フィートの高度差を駆け抜ける。


 高度六五〇〇フィートで引き起こし。G表示が7・5を示したところで隼人の視界はブラックアウトする。スプリットSの最後の引き起こしは、地球の本来の重力が遠心力に加わるために、パイロットにとっては水平旋回よりも苛酷な条件となる。しかし、ここでスティックを引く力を少しでも緩めれば、待っているのは地上との激突による「死」なのだ。


 プルアップ・アラーム音が止まったのを確認して隼人は操縦桿を引く力を緩めた。視界がすぐに回復する。


 086の後ろに執拗に張り付いていたMiG-29の姿は消えていた。MiG-29は対気速度八五〇ノット以上になると空中分解してしまう。しかしF-23はそれ以上の速度で急降下ダイブが可能なのだ。


「はぁっ……はぁっ……」


 全身が冷や汗にまみれている。心臓が早鐘のように鼓動を打っていた。隼人は口の中にアドレナリンの仄かな甘味を感じる。


 それまで彼は逃げるのに夢中で、怖さを感じている余裕は全くなかった。だが、MiG-29を振り切ることが出来たとわかった途端、それまで忘れていた恐怖感が一気に押し寄せてきたのだった。


 恐ろしい。まるで心臓を鷲掴みにされているようだ。


 それは彼が今までに全く感じたことのない種類の恐怖だった。


 野球の試合ならば負けたところで死ぬことはない。だが、この戦いに負ければ、命はないのだ。


「……ようし。スパイク (敵機のレーダーからの攻撃照準波)は完全に消えた。逃げ切れたな」


 巧の口調は、いつもと何一つ変わっていなかった。隼人は驚く、というより、呆れる。


 "全く、なんて奴だ。こいつはこんな状況でも怖さを感じねえんだろうか……"


 確かに巧には昔からそういうところがあった。妙に度胸が据わっている、というか、怖い物知らず、というか……


 しかし、隼人はすぐに思い直す。


 "いや、こいつのそれは、度胸とか勇気なんていう格好の良いものじゃないな……"


 とにかく、巧は全く死ぬことを恐れていないように見える。むしろ、進んで死のうとしているのではないのか、とすら思えたことも、隼人には何度となくあった。そして、その理由にも彼は思い当たるフシがあるのだった。


 "やっぱりこいつは、あのことをどうしても忘れられないのか……いや、レイだな。彼女に出会ったことが、こいつの記憶を蘇らせて……"


「RTB(基地への帰投)しよう。武器なしじゃどうにもならない」


 巧の声で、もの思いにふけっていた隼人は我に返った。


「……分かった」


 応えて隼人は操縦悍を引く。彼はあらかじめ基地の方角をスプリットS機動の出口に選んでいた。そのまましばらく上昇して、まっすぐ進めば基地に帰れるはずだった。


 だが。


「……ん?」


 ふと、隼人がHMTDを上げ、何度もまばたきをする。そしていきなり舌打ちをしたかと思うと、引いていた操縦悍を即座に戻した。


「お、おい、どうした、隼人?」


 予想外のマイナスGに面食らった巧の声が裏返る。それに対する隼人の応えには、もううんざりだ、という響きが多分に込められていた。


「タリー。イレブン、ハイ(敵機発見。十一時上方)……たぶん、さっきの奴だ」


「!」


 とっさに巧も隼人の言う方角を見上げるが、何も見えない。そもそもMiG-29は近代のジェット戦闘機としては機体が小さく、遠く離れると視認しづらいのである。だが、隼人の視力は並外れている。彼には間違いなく見えているのだろう。


「くそ……止めを刺すつもりなのか?」と、巧。


「いや……違う」と、隼人。「機首がむこう向いてる。こっちには来ねえな。俺たちのことも気づいてねえようだ」


「……!」巧は絶句する。


 "機首の方向まで分かるのか……僕には何も見えないのに……"


 数値上、隼人の視力は両目とも2・0だが、それはたまたま視力検査で計測出来る最大値がそうであるだけで、彼の視力がそれを軽く上回っているのは間違いなかった。事実、隼人は目を凝らすと昼間でも青空に星を見ることが出来た。そして彼のその視力が、数々の野球の試合の中で彼自身を助けたことも、二度や三度ではないのだった。


 戦闘機パイロットにとっても飛び抜けた視力は利点となる。敵が自分を見つける前に敵を発見できれば、それだけ自分が有利になるのだ。かつて零戦のエースパイロットだった坂井三郎も、そのような超人的視力の持ち主だった。


 現代ではレーダーの発達で、目視で敵を発見する機会は少なくなってはいるが、レーダーは常に使うことができるわけではなく、またステルスやECMで無力化してしまうことも多い。そのような局面で一番頼りになるのは、やはり未だに肉眼なのである。


 おそらく、「この世界の」隼人の視力も同じくらいなのだろう。そしてそれは、無敵の撃墜王「トロポポーズの鷹」の伝説と無関係ではあるまい。


「待てよ……ってことは、あいつ、俺たちと同じ方向に向かってるのか?」


 隼人のその言葉は、しかし、彼らにとって重大な事実を意味していた。


「……なにぃ? それって、奴も能登基地に向かってる、ってことじゃないか!」と、巧。


「たぶん、な。ちくしょう……どうやって基地の位置を掴んだんだ?」


「わからん。僕らと基地との交信を傍受したか……でも奴にそんなCOMINT(通信情報収集)能力があるとも思えんが。それとも、ただ単に本来のコースに戻っただけかもしれん。偶然それが基地上空を通るだけなのであって、な」


「どっちにしろ、基地が発見される可能性は高いんじゃないのか?」


「その通りだ。奴は対地装備は積んでないようだが、基地を見つければ機銃掃射くらいはしていくかもな。いずれにしろ、奴に基地の周りでうろうろされたら、こっちも着陸できないぞ」


「じゃあ奴を撃墜するしかない、ってことか? だけど、こっちの武器は全部ビンゴなんだぞ」


「そりゃあそうだが……」


 言いながら兵装ストアパネルに目をやった巧は、ふと、ある重要なことを、今までずっと見過ごしていたのに気づく。


 "あ……!"


 その瞬間、とてつもないアイデアが彼の脳裏に閃いた。


「どう考えても無理じゃないのか? あのベテランに、マニューバキル (武器を使わず、機動だけで相手を撃墜すること)なんか通用するとはとても思えんぜ?」


「……」


 隼人が呼びかけても、巧は応えようとしない。


「おい、聞いてんのか?……巧?」


「隼人!」


「うわあっ!」


 出し抜けに大声を出した巧に驚いた隼人は、ヘッドレストに後ろ頭を軽くぶつける。


「な、何だよ、びっくりさせやがって……」


「………………」


「………………」


「………………」


「……何だと?……巧、お前……何言ってんだ?」


 巧のその提案は、隼人を仰天させるには十分過ぎるほど突拍子もないものだった。

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