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「なにぃ?」巧は眉をしかめる。「無茶だ! 失敗したらヤバイだろ!」


 プガチョフズ・コブラ。頭をもたげて進むコブラのように、機首を真上に上げたまま前進する機動である。ロシアの戦闘機、スホーイSu-27のテストパイロット、ヴィクトル・プガチョフが初めて行ったためにその名がついた。


 この機動を行うと機体は一気に減速するため、確実に敵をオーバーシュートさせることはできるが、同時に空戦時の命とも言える運動エネルギーを著しく消耗する。一対一で、しかも確実に敵を撃墜できなければかなり不利な状況に陥ることになる。巧が躊躇ちゅうちょするのも無理はなかった。


 だが、これ以上シザーズを続けても手詰まりスティルメイトに陥るだけで、状況を打開できない。幸い、シザーズの連続で速度も高度も落ちている。コブラができない状況ではない。隼人は心を決める。


「もうこれしか方法はねえ! やるぞ!」


 MiG-29が真後ろにいるのを確認し、隼人は操縦桿を引き続けて迎角リミッターを強制解除。一気に軽くなった操縦桿がストッパーに当たってカツンと音を立てた。スロットルはMAX、エンジンの回転モーメントによって生じるヨーを吸収するために、左にラダーを軽く踏み込み、左エンジンの出力を若干下げる。


 弾かれたように機首が跳ね上がり、086の機体上面が真っ白な蒸気ヴェイパーに包まれた。強烈なプラスGがキャビンの二人に容赦なく襲いかかり、速度が一瞬にして一〇〇ノット以下にまで落ち込む。


 MiG-29はこの機動についていけずに086の真下を飛び抜けた。すかさず隼人はアフターバーナーを焚いたまま機首を下げて水平に戻す。目の前に敵機を捉え、トリガスイッチを引く。〇・三秒。


「Ammo Bingo」


 抑揚のない女性の合成音声が、全弾を発射し尽くしたことを告げた。


「……くそぉ!」


 隼人が呪詛の声を上げる。彼が放った銃弾は全て逸れていた。敵機はすぐさま左にブレイクする。巧はそれを見失わないように必死に目で追った。


「まずい……後ろに回り込まれる!」


 高度、八〇〇〇フィート。ダイブで逃げるには低すぎる。このような状況で失速直前まで失ってしまった速度を回復させるには、F-23のマルチサイクルエンジン二基のフルパワーを持ってしても、数十秒の時間がかかる。その間にMiG-29は小さな旋回を終えて再び086の後方に回りこむ。


「だから言っただろうが!」予想通り苦境に陥ったことで、巧は思わず声を荒げてしまう。


「う……うるせえ! 今は喧嘩してる場合じゃねえだろ!」


 隼人も怒鳴り返すが、自分の判断の甘さが招いた結果だけに声はいくぶん小さかった。


 考えられる限り、最悪の状況だ。敵は容赦なく追い詰めてくる。反撃しようにも武器はない。


 ふと、巧は自分が誰かの名前を呼ぼうとして、その名前が思い出せないことに気づく。


 "そうだ……こんな時、僕たちはいつも誰かを頼りにしていた気がする……と言っても、誰なんだ……? この機体には、他に誰が乗っているわけでもない、というのに……"


 それでも巧の中には、三人目の乗員クルーが存在していたような記憶がおぼろげにあった。だが、それが果たして真の記憶なのかどうかは分からない。単なる勘違いなのかもしれない。そもそも、086に座席が二つしかない以上、本来なら三人目の乗員などいるはずがないのだ。


 キャノピーの外の風景が目まぐるしく回転する。


 隼人はエルロンと尾翼をランダムに使う、ジンキングと呼ばれる機動でひたすら相手の追撃をかわしていた。しかし、敵は依然として086の後方に食らいついたまま離れない。もちろん直進すれば086の加速にMiG-29はついてこれない。しかしその一瞬、敵に射撃の絶好のチャンスを与えてしまうのである。


 破裂音と共に被弾の衝撃がキャビンに伝わり、続いて警報が鳴り響く。反射的に振り返った巧が叫んだ。


「やられた! 左尾翼先端!」


 左の尾翼の上端が翼端灯もろとも吹き飛ばされていた。通信および警報システム不調の警告メッセージがMPDおよびHMTDに表示される。F-23の尾翼の上部にはRWR受信部と無線のアンテナが内蔵されていた。今のところ右の尾翼は無事なので、それらの機能が完全に失われたわけではないが、通常時よりも性能が落ちるのは間違いなかった。


「くっ……」


 隼人は歯を噛み締める。しかし、撃墜される恐怖にかられてはいたものの、彼は完全に冷静さを失っていたわけでなかった。絶望的な状況の中にあっても、彼は半ば本能的に、ある一つのことに気を配っていた。


 エネルギー状態エナジー・ステート


 空戦で最も重要なのは運動エネルギーカイネティック・エナジーだが、空戦時のエネルギー状態には高度に伴う位置エネルギーポテンシヤル・エナジーも含められる。高度が高い ―― 即ち位置エネルギーが大きければ、たとえ運動エネルギーを消耗していたとしても、降下して位置エネルギーを速度に転換することですぐにそれを回復させられる。彼は小刻みにジンキングしながらも、徐々に高度を上げていたのである。


 一瞬、隼人はHMTDの高度表示に視線を走らせる。二三〇〇〇フィート。もう高度は十分だった。


「巧……行くぞ!」

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