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 朱音は機体底面のサービスジャックからインターフォンのプラグを引き抜き、キャビンに向かって親指を立てる。これ以降地上要員とのコミュニケーションは、手信号とアイコンタクトが全てとなる。隼人は両足のトゥブレーキペダルを踏み込み、両手で拳を作ってその先端を胸の前でコツンと合わせ、そのまま左右に腕を開いて肩をすくめるようなポーズをする。車輪止め外しチョークアウトの合図。朱音が同じ仕草をしてみせる。


 地上要員たちが前脚、主脚の車輪止めを外して機体から遠ざかった。それを確認し、隼人は右手で前方に手刀を降り下ろす。滑走開始の合図。そのまま彼はブレーキをリリース。スロットル・レバーを MIL の位置までゆっくりと動かす。


 F-23のスロットル・レバーは左右のエンジン毎にそれぞれ独立して動かすことができ、エンジン停止状態の"STOP"から最大推力の"MAX"までの間、"IDLE"(アイドリング)、"CTL"(自動モードに設定)、"MIL"(アフターバーナー非使用時の最大推力。ミリタリーパワー)の各ポジションで軽くロックがかかるようになっていた。


 エンジンの金属音が高まり機体がゆっくりと動き出したのを確認して、隼人はすぐさまスロットルをアイドルへ。一旦動き出してしまえば慣性がつくので、アイドルの推力で十分なのだ。


 朱音が両腕を上げ、それらを同時に曲げ伸ばす動作を繰り返しながら後ろ向きに歩いて彼らを誘導マーシャリングする。彼女のマーシャリングどおりに隼人は両足のラダーペダルを操作して自機を進める。


 航空機の地上滑走タキシ―時の操舵は基本的にラダーで行う。ラダーはフットバーとも呼ばれ、原理的には垂直の回転軸 (ラダー軸)の上に水平な棒がくっついた、自転車のハンドルのような構造をしている。しかしラダーの場合、右に曲がる時は右足をかかとで踏み込んでラダー軸を反時計回りに回し、左はその逆、というように、ちょうど自転車のハンドルと反対の操作になるのだ。ちなみに空中でのラダー動作もこれと全く同じである。

 ブレーキをかける時はラダーペダルの上に乗っているブレーキペダルをつま先で踏み込む。右足のペダルは右主脚のブレーキ、左足は左主脚のブレーキにそれぞれ対応しており、片方のブレーキだけをかけて戦車のような信地旋回もできる。


 並んだ地上要員たちが、エプロン内をゆっくり進んでいく086に対して一斉に敬礼。隼人、巧も答礼する。


 タキシーウェイの入り口まで案内した後、朱音は機体を一旦停めるように合図をする。ここはアーミングエリアと呼ばれ、武装の安全装置を解除もしくは設定する場所である。エプロン内では暴発事故を防ぐために、武装の安全装置は常に設定しておかなければならないのだ。


 最後まで残っていた内蔵二五ミリガトリング砲、GAU-22のセフティタグを抜いて、右手にそれを掲げながら朱音は機体から離れ、左の親指を立ててウィンクして見せる。機体の外回り、異状なしのサイン。彼女はマーシャリングしながら機体の外観をチェックしていたのだ。コクピットの二人もサムアップサインを作ってそれに応える。


 離陸準備はこれで完了。隼人は無線のスイッチを入れ、プリセットチャンネル2を選択。タワーをコールする。


「Noto tower, Hawk01. Radio check (管制塔、こちらはホーク01。無線チェック)」


 "ホーク01"はブリーフィングで決められた彼らのコールサインだった。


「グッドモーニング、ホーク・ジロワン、リーディング ユー ファイフ。ハウ ドゥ ユー リード? (おはようございます、ホーク01、感明度は5です。こちらの感明度は?)」


 VHF AMのざらついた声。真奈美の極めて日本人的なカタカナ英語に、隼人は心の中で苦笑する。ネイティブに近い発音も出来るが、ここは無用の混乱を避けるため自分もカタカナ英語で応えるべきだろう。


「リード ユー ファイフ。リクエスト タキシー (感明度5。タキシー許可を請う)」


「ホーク・ジロワン、ノト・タワー、クリアー フォー タキシー、ランウェイ ジロ・セブン。キューエヌエイチ、ツー・ナイナー・ナイナー・ツリー。リードバック (ホーク01、こちらは管制塔、タキシー許可します。滑走路端07から離陸してください。高度補正値は二九九三です。復唱をどうぞ)」


 真奈美は管制官らしく、数字の0を"ジロ"、3を"ツリー"、9を"ナイナー"と発音する。一般的に航空業界ではQNH (高度補正値)は水銀柱インチ (inHg)、高度はフィート、距離は海里 (ノーティカルマイル)、速度はノット、燃料はガロンまたはポンドといった単位をそれぞれ用いるのが通例だった。


「ランウェイ07。 QNH 2993」


 隼人は復唱しながら高度補正値を気圧高度計に入力し、もう一度手刀を切る仕草をする。ゆっくりとタキシーウェイの中に進んでいく086の後ろ姿を、敬礼しながら朱音は祈るように見つめた。


「無事に還ってきてね……」


 ケロシン臭を含む生暖かいジェット排気の欠片かけらが、ふわりと彼女の顔を撫でる。


---


「ホーク・ジロワン、クリアー フォー テイクオフ。ウィンド、ツリー・ジロ・ナイナー、アット ワン (ホーク01、離陸を許可します。風向309、風速一ノット)」


 滑走路07へ移動中の086に、真奈美の離陸許可が伝えられる。


「ラジャー」


 短く応答し、これで通信終了……と踏んでいた隼人の耳に、思いがけなく真奈美の声が続いた。


「ハッチさん、ロックさん、頑張ってくださいね!」


 面食らいながらも隼人は応える。


「お、おう。行ってくるぜ」


 本来ならこのような会話は許されない。航空無線のやり取りはできるだけ短く済ませるのが暗黙の了解事項なのだ。しかし、今の彼女の管制対象は086一機だけ。この程度のムダ口なら許容範囲だろう。


 086は滑走路の右寄りを進み、07と大きく書かれた滑走路端に到着。隼人はトゥブレーキを踏んで減速し機体を一八〇度回頭、静止させた後でマスターアームスイッチを入れ、FCS(火器管制システムFiring Control System)周りをチェックする。この作業はエプロン付近ではできない。地上要員たちが強烈なレーダー電磁波に曝されるからだ。FCSのモードを次々に変更し、HUDと三つのMPDを確認。全て異状なし。


 スラストチェック。両足のブレーキをいっぱいに踏み込んだまま、隼人は左右のスロットルレバーをじわじわと MIL ポジションへ進める。轟音と共にエンジン回転数が百パーセントに。巻き上がる高熱のジェット排気が、086の背景を揺らめく陽炎の中に閉じ込めた。


 二度スラストチェックを繰り返し、隼人は操縦桿のステアリングスイッチを小回りの利くマニューバリングモードから離陸滑走用のノーマルモードへ切り替える。両足のブレーキペダルを踏み込んだまま、三たびスロットルを MIL へ。エンジンの雄叫びを轟かせ、086は排気の反動により機首を沈めた姿勢で静止する。


 矢を射る直前の大きくしなった弓のように、ほんのわずかなきっかけで弾け飛んでしまう、かりそめの均衡状態。


「巧、行くぞ」


 隼人が後ろを振り返ると、巧は無言で親指を立てた右手を掲げる。


「Tower, Hawk01. Now start roll (タワー、ホーク01。離陸滑走開始)」


 宣言し、隼人はスロットルを押し込んでMAXの位置へ入れる、と同時に、ブレーキペダルを踏みつけていた両足の力を抜く。


 矢は放たれた。

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