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「え?」


 首だけを横に回し、朱音は横目で巧を見る。


「君になら、安心して僕らの機体を任せられるよ」


 それは、巧の本心からの言葉だった。


 朱音は心底飛行機が好きなのだ。彼女と過ごした少しの時間の中で、巧はそれを十分過ぎるほど感じていた。彼女に任せておけば間違いはないだろう。


「……!」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で朱音はしばらく巧を見つめていたが、やがて急に顔を赤らめると、


「あ……あったり前やわいね! ほらぁンね、あんたはもうなんも心配せんでいいさけぇ、早う戻って寝まっしま!」


 と言って首を正面に戻す。


「あ、ああ……」


 巧は朱音のセリフの意味が今一つ掴めていなかったが、おそらく『早く戻って寝ろ』と言ってるのだろう、と見当を付ける。少し怒り口調なのが気になるが、いずれにせよここは大人しく退散した方が良さそうだ。


「そ、それじゃ朱音、また明日」


「おやすみ!」


 巧に背を向けたまま、朱音はぶっきらぼうに応えた。


 "うーん……女心って、わからんなあ……"


 心の中で呟くと、巧は再び歩き始める。


---


 翌朝。〇八〇〇時。


 滑走路端ランウェイ25にほど近い、第三駐機場エプロン地上要員グラウンドクルーによって地下からここまで移動された086の機体が、朝の柔らかな日差しを跳ね返していた。


「あ、ハッチさん、ロックさん、おはようございます」


 フライトスーツ姿の二人に向かって美由紀が声をかけ、敬礼する。


「うっす」


「おはよう」


 軽く答礼し、隼人と巧は086に向かって歩いていく。


 朱音も二人に気が付き、笑顔を見せた。


「おはよう。いい天気ね。絶好のフライト日和って感じ」


「ああ、遊覧飛行ならそうだろうがな」


 そっけなく応える隼人に、朱音はニヤリとする。


「そうね。あんたたちは遊びに行くわけじゃないのよ。よく分かってるじゃない」


「当然だろ」


 ふん、と鼻を鳴らす隼人の後に続いて通り過ぎようとする巧に、朱音はニッコリと笑いかけた。


「巧、少しは眠れた?」


「あ、ああ……まあね」


「よかった。頑張ってね。必ず生きて還ってきなさいよ」


「ああ」


 そこで巧は、立ち止まって自分を訝しげに見つめている隼人に気づく。


「……な、何?」


「いや……なんでもねえよ」


 視線を逸らし、隼人は小声で呟いた。


「(朱音の奴……俺と巧とじゃ随分態度が違わねえか……?)」


「何か言った?」と、巧。


「だからなんでもねえっての!」


「……?」


 巧は首をかしげる。


---


 086の前で、二人は身につけている装備のチェックを始めた。


 頭のヘルメット、それにぶら下がった酸素マスク、上半身のジャケットにサバイバルキット、緊急用の携帯無線機ハンディ、救命ビーコン、下半身にはGスーツ。全て合わせて一〇キログラム程になる。しかしそれは、二人にとっては懐かしさを思い起こさせる重さだった。


 そう。それは装備一式を手に取った時から始まっていた。体の奥で何かが目覚めていく感覚。


 今、彼らの心を支配しているのは、大空を駆け抜けることへの期待と興奮だった。


 だが、同時に隼人は、それらに対する違和感が未だ心の中でくすぶっているのにも気づいていた。


「おかしなもんだよな」


「え?」巧は隼人に顔を向ける。


「あれだけ飛行機を憎んでたはずのこの俺が……飛びたくて仕方ねえんだぜ。やっぱ、おかしいだろ……」


「……隼人」彼の左肩に、ポン、と巧は右手をかけた。


「もう気にすんなよ。叔父さんだって喜んでるさ……きっと」


「ふん」鼻を鳴らして隼人は巧から顔を背ける。「外回りのチェック、するぜ」


「ああ」


 二人はチェックリストに従い、機体各部の目視点検を開始。機首から時計回りに機体の周りを移動しながら、時には機体を叩いてみたり、動翼を手で動かしてみたりもする。


「ほう……こりゃすごいな。すっかり元どおりだ」


 キャビンの右側面を見た隼人が上げた感嘆の声は、朱音を始め整備員全員の顔をほころばせた。


 チェック終了。隼人と巧はそれぞれ前席、後席のキャノピーシルにかけられているボーディングラダーを登り、キャノピーシルを跨いで座面に立つ。座る場所に土足で乗るのはあまり気持ちのいいものではないが、キャビンの床まで直接足が届かない以上、そうせざるを得ないのだ。


 そのまま二人は周りを見回し、地面から見えない機体上面をチェックする。異状なし。二人が床面に降りて座席に腰を下ろすと、美由紀が前席、朱音が後席のラダーを登り、彼らの両肩にある固定ソケットにパラシュートハーネスの金具を挿入する。


「サンクス」


「ありがとう」


 二人が礼を言うと、美由紀と朱音は共に笑みを見せ、地面に降りてラダーを機体から取り外し持ち去る。

 その様子を見送りながら、隼人と巧は下半身にシートベルトを締め、Gスーツと酸素マスクのホース、インターフォンの配線をそれぞれ接続。エンジン始動前のチェックリストに取り掛かる。声に出しながら、彼らは次々に各種スイッチ類の位置を確認していく。


空中給油エアリフュエルスイッチ――クローズ。スロットル――オフ。ウェポンベイ・ドア・スイッチ――センター。スピートブレーキスイッチ――無効フォワード。エンジンモードレバー――通常コンベンショナル。スロットルフリクション――セット……」


 合計六〇項目以上のチェックを終了すると、隼人は右手で握りこぶしを作り、それを頭の高さに持ち上げて前から後ろに引いた。その、肘を前に突き出したガッツポーズのような動作は、補助ガスタービンエンジンであるAPU(補助動力装置Auxiliary Power Unit)の始動開始を意味するジェスチャーだった。朱音が同じ動作をするのを見て、彼は左コンソールパネルのAPUマスタースイッチを"ON"の位置に入れる。


 機体後部、左右二つのエンジンのちょうど中間にあるAPUが低い作動音を奏で始める。APUの始動により電源が使用可能になったため、隼人は電装系マスタースイッチを入れる。前面に三つ並んだ大型MPDが次々に点灯。F-23はいわゆる「グラスコクピット」と呼ばれる近代的なコンソールで、従来のアナログ式の計器はほとんど見られない。


 酸素マスクを装着し、隼人は機内通話システムのマスタースイッチをONに。これで後席の巧、そしてケーブルで機体のサービス端子に繋がれたヘッドセットをつけている、機付長の朱音とも通話できるようになる。機内通話用のマイクは常時ONホットの状態で、何も操作せずに会話が可能だった。


「インターフォン チェック」隼人が告げると、


「キャビン、クリア(後席、異状なし)」と巧が応え、続いて、


「サービス、クリア(地上用員、異状なし)」と朱音が応える。


 APUレディライトが緑に点灯しているのを確認。隼人は宣言する。


「両舷エンジン、ランナップ、クリア(始動準備よし)」


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