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 新田原基地の航空機整備班長、橘 藤治とうじ。086の機付長きづけちょう(その機体の主整備担当者)でもある彼は、「この世界の」隼人と巧にとって頭の上がらない人物の一人だった。


「やっぱり、知っているのね!」朱音の顔がパッと輝く。


「ああ」巧はうなずいてみせた。「そうか……確かに彼は石川県出身だって言ってたな。三人の娘がいて、一番上が僕らと同い年だとも……それが君なのか……」


「そうだよ。あたしがその長女。どう、これでもまだあたしのメカニックとしての腕が信じられない?」


「だ、だから、最初から信じられないなんて言ってないって……」


「ふふん。どうだかねぇ……」


 巧が慌てる様子を楽しんでいるかのような朱音は、やがて真顔に戻る。


「ねえ、巧……お父んは……無事やと思う?」


 "ああ、それが聞きたかったのか……"


 ずいぶん遠回りさせてしまった。朱音に対し申し訳ない気持ちになった巧は、自分の知る限りのことを正直に朱音に伝えよう、と思う。


「分からない。だけど、多分最後の出撃まで僕らの機体を整備してくれていたと思う。もし彼がそれまでに亡くなっていたとしたら、ショッキング過ぎて絶対に忘れないと思う。実際、そんな記憶はない。だけど……」


「だけど?」


「今彼がどこでどうしているかは、分からない。レイは、新田原基地は放棄されたらしい、って言ってたけど、そこにいた人たちがどこに撤退したのかは……分からないんだ」


「そうかぁ……」朱音はがっくりと肩を落としてうつむく。


「ごめん……なんか僕、さっきから全然役に立たない奴だね……」


「ううん、そんなことないよ。お父んが生きとる可能性がある、ってことが分かっただけでも嬉しいよ。ありがと、巧」


 そう言って巧に微笑みかけた朱音を、彼はなぜか眩しく感じてうろたえる。動揺を隠すため、彼は別な話題を持ち出すことにした。


「あ、あの……朱音は三人姉妹なんだよね? 妹さんたちは……どうしてるの?」


「一つ下の『あおい』は、パイロットの才能を認められて、今はアメリカに行ってる。あんたたちと同じ戦闘機乗りよ」


「ええっ、そうなの?」


「もちろん生きていれば……だけどね」


「……そう」


「それから、一番下の『みどり』は、まだ小学六年だからここの地下で人口冬眠ハイバネしてる。あたしがここにいるのは彼女を守るためでもあるのよ」


「そうなんだ……それじゃ……お母さんは……」


 と言いかけて、朱音の表情の微妙な変化に気づいた巧は、言葉を飲み込む。


 "しまった、これは聞いてはいけなかったことかも……"


「……死んだよ。空襲でね。おじいちゃんといっしょに」


 "ああ、やっぱり……"


「ご、ごめん……悪いこと、聞いちゃって……」


 しかし朱音は手を振り、別段気にしていない、という仕草をする。


「いいのよ。この世界ではそんなの当たり前なんだから。父親や姉妹が生きてる可能性があるってだけでも、あたしは恵まれてる。ここにいる女の子たちもみな、家族は行方不明だったり、亡くなっていたりするの。レイもそう」


「え、レイも……?」


 朱音は遠くを見つめるような顔になる。


「彼女は天涯孤独よ。たまたま両親が母親の里帰りかなんかでイギリスにいた時に空襲を受けて、二人とも行方不明になってね。北海道に住んでた彼女は、兄さんと二人で本土に避難しようとしたんだけど、乗った船が敵の攻撃を受けて佐渡沖で撃沈された。その時に兄さんも亡くなったの……彼女の目の前でね」


「え……」巧は愕然とする。


「当時この基地にあったUH-60Jが、救命胴衣をつけて漂流していた彼女を見つけて救出し、彼女はここにやってきた……一年くらい前のことよ」


「そうだったのか……」


「だから、彼女はあたしなんかとは比べ物にならないくらい辛い思いをしてるはず。だけど彼女は、そんな悲しみに押し潰されずに基地司令として頑張ってる。強い……よね」


「そうだね……」


 レイのあの落ち着き払った言動は、同い年の女性のものとは巧にはとても思えなかった。その理由の一端を今、巧はかいま見た気がした。彼女はそれほどまでに辛い過去に耐えて来たのだ。


「あ、今の話聞いたこと、レイには言わないでね」思い出したように朱音が付け加える。


「ああ、もちろん」


「それと……彼女は、本当に強いよ。何せ空手の有段者だからね」


「ええっ? レイが?」


「そうよ。だから彼女だけは怒らせない方がいいと思う。下手すりゃ鉄拳が飛んでくるからね」


「朱音も怒らせない方がよさそうだけどね」


「……何か言った?」


「い、いえ、何でもないです、はい」


 その時、朱音の左腕の腕時計が短く電子音を放った。


「あ……もう〇時だね」時計を眺めながら、朱音。


「ええっ、もうそんな時間?」


 巧も自分の腕時計を見て驚く。彼がハンガーに来てから、既に三〇分以上が経過していた。


「ごめん……なんか随分君の仕事の邪魔しちゃったみたいだね」


「ぷっ」


 突然吹き出した朱音に向かって、巧は怪訝そうに眉をしかめる。


「な、なんだよ……」


「巧……あんた、さっきから『ごめん』ばっかりだよ」


「え、そうかな?」


「あんた、いい人なんだね。ちょっとスケベだけどさ」


 そう言って朱音はいたずらっぽく舌をペロッと出して見せる。


「それは言わないでくれよ……」


 つられて巧も苦笑するが、すぐにその表情が曇り、俯く。


「(僕は……いい人なんかじゃない……)」


 巧の小さな呟きを、朱音は聞き逃していなかった。


「巧……?」


 しかし、朱音が巧の顔をのぞき込もうとした時には、既に彼の表情は戻っていた。


「ねえ、朱音、何か手伝おうか? 僕にできることがあったら言ってよ。アビオニクス系を触ってれば、ブラックボックスにアクセスする方法も……思い出せるかも」


「え? ええ、そうね……」


 少しの間考えた後、朱音はかぶりを振る。


「ありがと。だけどあんたには、部屋に戻ってやらなきゃならないことが一つある」


「え……何?」


 右手の人差し指を立てて巧に向け、朱音はピシャリと言い放った。


「寝ることよ。寝るのもパイロットの任務の一つだからね」


「……」


「さ、もうあんたは宿舎に帰って寝た方がいいよ。眠れなくてもね、横になって目を閉じてるだけでも随分疲れ方が違うんだから。明日は『一応』初飛行なんでしょ?」


 朱音の言うことももっともだ、と巧は思う。でも、それだけではないのかもしれない。彼は、先刻自分が朱音に「スケベ」とはっきり認定されてしまったことを思い出す。朱音にしてみれば、やはりそんな男と深夜にこれ以上二人きりでいたくないのかもしれない。


 今になってそれに気が付く己の鈍さに、巧は三たび自らを呪う。いずれにせよ、ここは素直に退散した方が良さそうだ。


「分かったよ。だけど、本当にごめんね。僕、なんか邪魔しかしてなくて……」


 しかし朱音は屈託のない笑顔を返す。


「もう……そんなに謝んなくたっていいってば。あたしは結構楽しかったよ。また飛行機の話しようよ、ね?」


 "あれ……なんだ、僕、そんなに嫌われた訳じゃないのか……"


 巧の心に安堵が湧き上がる。彼も朱音ともっと話していたい、と感じていた。


「そ、そうだね。それじゃ、僕は戻るけど……朱音もあまり無理しないでね」


「うん。分かってる。あたしももうすぐ終わりにするよ」


「それじゃ、お先に」


 巧は手を上げ、出口に向かって歩き始める。


「ええ。おやすみなさい」


 朱音も手を振って巧を見送り、086の傍らにある整備機器の制御卓コンソールに向かう。


 ふと巧は足を止め、振り返った。


「朱音……」

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