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「トロポポーズというのは、対流圏と成層圏の境界……亜成層圏のことよ。おおよそ高度三万フィート……一万メートルあたりの空域ね。この高度は機体の空気抵抗とエンジンへの流入空気密度のバランスが一番いいから、旅客機の巡航高度も基本ここね」


「それは知ってる」


「でも問題は……この高度では空気が薄くて動翼の効きが悪くなり、小回りが効かなくなるってこと。低空のような戦闘機動ができなくなるのよ」


「……確かに」


「だけどF-23に乗ったあんたたちは、トロポポーズくらいの高度でも低空と同じように機体を俊敏に動かすことができた。なぜだか分かる?」


「うーん……」巧は思わず考え込む。


「……はぁ」朱音の溜め息はさらに深くなった。「あんた、『この世界の』自分のこと、ホントに何も知らんのねぇ」


「ご、ごめん……」


「……ま、いいや。教えてあげる」


 すっかりしょげ返った様子の巧に、朱音はさすがに気の毒に思ったのか、優しく笑いかける。


「その理由はエンジンよ。ジェネラル・エレクトリックのF120をベースに開発した新型のね。可変サイクルで、ターボファンとターボジェットのいいとこ取りをしているの」


 ターボファンエンジンの構造は、基本的にターボジェットエンジンの初段コンプレッサーのさらに手前にファンがついているだけである。燃費面や低速時はターボファンエンジンが有利だが、エンジンのレスポンスや高速度域はターボジェットエンジンの方が優れている。可変サイクルエンジンは動作を状況に応じてターボファンもしくはターボジェットに切り替えることが可能なのだ。


 朱音は言葉を続ける。


「とにかく、当時の人類にとっての一番の脅威は、高高度を飛んできてところ構わず絨毯爆撃する、中ロ連合軍の戦略爆撃機だったからね。だけどあんたたちは高高度と高速度の領域で性能に優れるターボジェットモードで真っ先に要撃に上がり、エンジンのレスポンスとパワーで機動性をカバーして、敵機を片っ端から叩き落とした。だから『トロポポーズの鷹』と呼ばれるようになったわけ」


「なるほど……」


 巧がうなずくと、朱音は彼の顔から086に視線を移す。


「あとね、この機体はF-23の初号機なのよ。もともとF-23はYF-23をベースに日本が次期主力戦闘機としてノースロップ・グラマンやボーイングと共同開発を計画していた機体だった。かつて日本はF-16を見事に改良してF-2に仕立てあげた実績もあったしね」


「F-2は確かにそうだね」


「というわけで、あんたたちはその初号機……086に乗ってテスト飛行を積み重ねた。さらに実戦にも参加してガンガン戦果を挙げていった。といっても、最初はものすごく操縦が難しい機体でね。それを誰にも扱えるように調整チューンしたのもあんたたちだった。だからあんたたちは世界中のスパイダー・ライダーの尊敬の的、ってわけ。それで『ハチロク』の名前も世界中に知られるようになった。だけどさぁ……『ハチロク』って、いくらなんでもできすぎじゃない?」


「え、な、何が?」


「あんたたちのTACネームよ。"ハッチ"と"ロック"で、乗機がハチロク。それってやっぱりダジャレでどっちかをどっちかに合わせたの? それとも、単なる偶然?」


 そう言うと朱音は呆れ顔になった。


「うーん……わかんないけど、偶然だと思うよ。さすがに機番は勝手に変えられないと思うし、"ハッチ"は昔からの隼人のあだ名だからなぁ」


「あ、そうなの?」


「ああ。"ハヤト"だから"ハッちゃん"だったのが、いつの間にか"ハッチ"になったのさ。この世界でもその辺は一緒なのかもね」


「へぇ。それじゃ、あんたはなんで"ロック"なの? それもあだ名?」


「いや……ちょっと待って」巧は額に手を当てて考え込む。「なんとなくだけど……他の誰かのTACネームを受け継いだ……ような気がする……」


「そう……ごめん……」急に朱音が申し訳無さそうにうつむいた。


「……え?」わけがわからないまま、巧は彼女を振り返る。


「受け継いだ、ってことは……たぶんその誰かは戦死したんだよね……」


「!」


 その言葉が引き金となって、巧の脳裏に面影がはっきりと浮かび上がった。


 岩田一佐。「予科練」での彼らの教官であり、旧空自で「最強の戦闘機パイロット」と言われたほどの人物。朱音の言う通り「この世界の」隼人と巧が予科練を修了してまもなく、熾烈な戦いの中で彼はその命を散らしていた。しかし、巧が彼からその名を受け継いだのは、彼が戦死する以前、巧の戦闘機操縦士養成課程が終わりかけた頃のことだった。


「ああ、そうかもしれない」巧は笑顔を朱音に向けた。「でも、僕が実際に体験したわけじゃないから、大丈夫だよ」


「……ありがと」朱音も彼に微笑み返すが、すぐに真顔に戻る。「でね、ずいぶん余計な話が長くなっちゃったんだけど、あたし、あんたに聞きたいことが一つ……ううん、二つあるのよね」

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