第一章 「 遷 移 」 Chapter 1 - Quantum Transition -

1

 目が覚める。


 胸の鼓動が高鳴っている。呼吸が荒い。全身がぐっしょりと汗ばんでいた。


 風間かさま たくみは起き上がって周りを見渡す。自宅の二階、いつもの自分の部屋。自分のベッドの上に彼はいた。


「……夢……か」


 ため息をつくと、巧は額に浮かんだ汗を右手で拭う。


 ここ最近、彼は同じような夢を何度となく見続けていた。自分がジェット戦闘機に乗り、敵機と戦っている夢だ。


 巧は四月に三年に進級してから、大学受験勉強に専念するためそれまで毎日のように遊んでいたパソコンのフライトシミュレータは封印し、それ以来二度とジョイスティックを手にしていない。

 その反動でこんな夢を見るのか、とも思う。


 それにしても……


 今日の夢は今までとは少し違っていた。それまで彼は夢の中で一度も撃墜されたことはなかった。どのような敵が相手でも、常に勝利を収めていた。仲間が全て撃墜されても、自分だけは最後まで生き残っていた。


 それなのに今日の夢の中では、彼の戦闘機はコクピットの側面に被弾し、そのせいで夢の中の彼は重傷を負ってしまったのだ。

 その時の激痛が、今も鮮やかに脳裏に蘇る。夢の中の自分が最後に思い浮かべた恋人の面影すら、巧にはうっすらと思い出すことが出来るのだった。


 あの後、夢の中の自分はどうなったのだろう。もう一度眠れば続きが分かるだろうか。


 巧は壁に掛けられた時計を見る。時刻は七時過ぎ。いつもよりは早起きだが、かといってもう一眠りするだけの余裕もなさそうだった。そもそも、もう一度眠ろうにも、寝覚めがあまりに衝撃的だっただけに、彼の眠気は完全に消え失せていた。


「巧、ごはんだよ」


 階下から母親の呼ぶ声が聞こえてきた。


---


 食事と身支度を済ませ、玄関に向かう途中、巧は祖父の部屋の前で足を止める。


 開いた障子戸の奥で、祖父の振一郎しんいちろうが、巧から取り上げたパソコンのモニターに向かっていた。しかしその右手に握られているのは、マウスではなくジョイスティックだった。


「じいちゃん、また朝からやってんの……」


 呆れ顔で巧は声をかける。彼のフライトシミュレータは、今ではすっかり振一郎のものになってしまっていた。


 シミュレータの舞台はWWII太平洋戦線。振一郎は画面の中で愛機の零戦れいせんを操り、今日も世界中のオンライン対戦相手と戦っているのだった。


「おう、巧か。見てみろ。今日は生意気な『ペロハチ』を三機撃墜してやったて。こんで山本元帥の魂も浮かばれる、ってもんだこて」振一郎は振り向いてそう言うと、ニヤリと笑う。


 「ペロハチ」とは、大戦中のアメリカ陸軍の戦闘機、ロッキードP-38ライトニングのことである。エンジンを二基積んだこの重戦闘機は、別名「双胴の悪魔」とも呼ばれており、昭和十八年四月十八日、ブーゲンビル島で当時の日本の連合艦隊司令長官であった山本五十六いそろくが乗った一式陸上攻撃機を撃墜したことでも知られている。


 しかしながら、P-38は頑丈で速度は速いものの旋回性能が悪く、低高度の格闘戦では日本の零戦の敵ではなかった。そのため、熟練した零戦乗りは、「ペロリと喰える奴」という意味でP-38を「ペロハチ」と言う蔑称で呼んでいたのである。


 新潟県長岡市出身の振一郎にとって、山本五十六は郷土の生んだヒーローなのだった。その山本五十六を戦死させたP-38を、彼はシミュレータの中でも目の仇にしていたのである。


「……そりゃ、『ホーク』の手にかかればね」


 巧はわざと嫌味っぽく言う。「ホーク」は振一郎の航空自衛隊時代のTACネーム(戦術名Tactical Name:戦闘時に呼びやすいように名乗る、短い通称)である。その名前に特に意味はない。たまたま、TACネームを付けた当時の彼の愛車が「ホーク」という名の二輪車だった、というだけの話である。


 振一郎は、F-86Fセイバー、F-104Jスターファイター、F-4EJファントムと、歴代の空自の主力戦闘機を乗り継いできた、生粋のファイターパイロットだった。その腕はなかなかのものだったらしく、戦技競技会では何度も表彰されている。その当時の賞状は、今でも彼の部屋に並べて飾ってあるのだった。


 振一郎の妻、即ち巧の祖母は、十五年前に交通事故で他界していた。彼は十年前に定年で除隊してから民間に再就職したが、それも定年を迎え六年前から彼の長男、即ち巧の父親の家に身を寄せている。そして、彼の孫である巧は、そんな「ホーク」の自慢話を、いつもうんざりするほど家で聞かされていたのだった。


「はっはっは。まだまだ若いもんには負けられねえっけな」


 巧の呆れ顔など全く意に介した様子もなく、振一郎は快活に大笑いする。


「……ったく、あんまりエキサイトするとまた血圧上がるよ。それじゃ、行って来るね」


 巧はそう言い残して部屋を後にした。


「おう、気ぃつけてな」


 振一郎は再び画面に向き直る。


---


「あれ、巧、今日は早いじゃねえか」


 玄関を出て、愛用のクロスバイクのハンドルを握ったところで、巧は聞きなれた声を耳にした。


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