亜成層圏《トロポポーズ》の鷹R

Phantom Cat

プロローグ

*

 果てしなく続く蒼い空。


 高度三二〇〇〇フィート(九八〇〇メートル)。成層圏と対流圏の境、トロポポーズ。


 見上げるにつれ濃くなっていく、群青のグラディエーションだけに支配された世界。


 そして今、ただひたすらに蒼いこの空間で、一つの死闘が繰り広げられていた……


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 一筋の白線が蒼空を切り裂く。


 航跡雲コントレール


 人に創られた、雲。


 ジェットエンジンの排気に含まれる水蒸気が、夏でもマイナス四〇℃になる高高度の大気に急激に冷やされ凝固したものだ。


 そしてそれを吐きだし続けているのは、「蜘蛛」の名が付いた、変わった形の黒い機体だった。それは一般的な戦闘機のように左右に垂直尾翼と水平尾翼が一組ずつあるのではなく、機首から見ると斜め右上と斜め左上に向いた一組の尾翼しか備えていない。


 主翼の形も独特である。上から見ると菱形をしているのだ。しかし、この翼の形ゆえに、その機体はステルス性と高速性をうまく両立させていた。


 「蜘蛛」の二つの排気ノズルの奥には、推力増強装置アフターバーナーの灯が青白く点っている。その炎を目指して二つの短距離AAM(空対空ミサイルAnti Air Missile)が追いすがる。

 両排気ノズルの間にある後部ディスペンサーから立て続けに囮弾フレアを放出しながら、「蜘蛛」は機体に備わる機能を駆使して急角度で旋回。ミサイルは二つともオレンジ色に明るく輝くフレアに惑わされ、目標を捉えることなく飛び去っていく。


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 「蜘蛛」に搭乗している二人の乗員クルーは疲れていた。


 ◯七◯◯時 。彼らはそれまで一晩中、一睡もせずに出撃を繰り返していたのだ。


 今回の大規模な戦いで、彼らの軍は敵に壊滅的な打撃を与えることに成功した。しかし、味方の損害も甚大だった。彼らはこの戦いで、彼らの隊を構成する全ての機を失っていた。そして今、たった一機生き残った彼らは、同じように最後まで生き残った一機の敵と、一対一の戦いを繰り広げているのだった。


 「蜘蛛」の後部RWR(レーダー警報受信機Radar Warning Receiver)は依然として警報を鳴らし続けている。

 乗室キャビン後席のWSO(兵装システム士官Weapon System Officer)は、脅威情報を示しているスクリーンを見ながら嘆息した。


 "ヤツはどうしても自分たちを撃墜したいらしい。しかし、ヤツもこれでミサイルは撃ち尽くしたはずだ"


 彼は後ろを振り向いて敵機を視認する。


 迷彩塗装の大柄な機体。「罪人」の名が付けられたそれは、レーダーに映りにくいステルス性と共に「蜘蛛」をわずかに凌ぐ運動性能を備えていた。しかも、それを操っている存在は原理的に疲れを知らないのだ。これ以上戦いが長引けば、「蜘蛛」にとって不利なのは間違いない。


 ミサイルの回避機動で速度を落とした「蜘蛛」が、「罪人」のガン攻撃可能レンジに捉えられた。が、その瞬間、それはくるりと機体を裏返し、機首を下に向けて一気に急降下する。


 「罪人」も遅れじと追撃。と、いきなり「蜘蛛」が機体をひねり込んでバレルロール。バレルに巻き付くような形の軌跡を描くためその名が付いた機動である。「罪人」も素早く同様にバレルロールを打つ。そのまま二機は互いに互いの後方を占位すべく、絡み合うようにロールを続けながら垂直に降下する。バーティカル・ローリング・シザーズと呼ばれる戦法だった。


 度重なるシザーズの応酬の中でも、依然として「罪人」は「蜘蛛」の後方を占位し続けていた。運動性能はやや「罪人」の方が高く、接近した格闘戦では「蜘蛛」は不利なのだ。

 「蜘蛛」のキャビンの中では時折ロックオンされたことを示す警報が鳴り、その度に銃撃を受けるが、それでも全ての動翼をフルに使って必死に回避運動を行う「蜘蛛」の機体に銃弾が当たることはなかった。

 高度一〇〇〇〇フィート(三〇〇〇メートル)。運動エネルギーと位置エネルギーを使い切る前に、「罪人」はシザーズから離脱しようとする。しかしそれこそが、「蜘蛛」のクルーたちが待ちに待っていた瞬間だった。接近戦でなければ、速度とステルス性能に優れる「蜘蛛」の勝機が高まるのだ。


 左に九〇度、急激にロールすると「蜘蛛」は旋回を開始する。


 だが、次の瞬間。


 衝撃。


 「蜘蛛」のキャビン右側面を、一発の三〇ミリ機銃弾が貫く。炸裂した弾体が「蜘蛛」のキャビンの内壁を吹き飛ばし、その破片が二人のクルーの肉体を著しく傷つけた。


 機銃弾はミサイルと異なり、発射された後は空気抵抗によって減速し、重力に引かれ放物線を描いて落下していく。音速に近い速度で飛ぶジェット戦闘機は、場合によっては外れて通り過ぎたはずの機銃弾に追いついてしまうことがあるのだ。事実、過去にアメリカ海軍のF-11が自分の撃った銃弾で自分を撃墜してしまう、という事故が起こっているのである。


 もちろん自機が撃った弾丸ならばその弾道は予測でき、それが届きそうな危険空域を避けることも容易である。しかし、敵機の射撃弾道まで予測するのはまず不可能だった。そして「罪人」は自弾の危険空域に、いつの間にか「蜘蛛」を誘い込んでいたのだ。

 とは言え、このような状況で弾丸が実際に当たる確率は、決して大きくない。「蜘蛛」のキャビン側面に一発でも被弾したのは偶然に等しかった。それはまさに「流れ弾」に当たったようなものだった。


 "やられた……な……"


 「蜘蛛」の後席のWSOは歯を食いしばって、飛び散った破片に肉をえぐり取られた右太ももの激痛に耐える。右側のMPD(多機能ディスプレイMulti Purpose Display)が出血で赤く染まっていた。


 首を動かして彼は周りを見回す。「罪人」の姿はどこにも見えなかった。レーダーは前後共にクリア。RWR、MAW(ミサイル接近警報Missile Approach Warning)も沈黙を続けている。

 弾薬か燃料か、あるいはその両方が尽きたのだろう。「罪人」は「蜘蛛」にとどめを刺すことなくさっさと離脱したようだ。


 被弾はしたものの、三重に冗長な構成を取っている「蜘蛛」のFLCS(飛行制御システムFLight Control System)は健在で、操縦に支障はないはずだった。にもかかわらず、「蜘蛛」の機体は明らかにコントロールを失っていた。

 WSOは前席のパイロットに呼びかける。応答はない。気絶しているのか、それとも既に絶命しているのか。少なくとも今パイロットが操縦を行えない状態なのは確かなようだった。やむなく彼は強制的に操縦を後席に移譲する。が、彼自身も瀕死の重傷を負っている。まともに操縦するのは不可能だった。最後の力を振り絞って、彼は「蜘蛛」の「三人目のクルー」であるコンピュータに宣言する。


 "You have control"


 "I have control"


 コンピュータの応答を聞いたWSOは安堵すると共に、意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。彼の脳裏に、今は亡き恋人の面影がおぼろげに浮かぶ。


 「蜘蛛」は意識を失った二人のクルーを乗せたまま、ゆっくりと高度を下げていった。


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