10.フォスティア歌劇場Ⅰ

『どうした。今日はやけに張り切っているではないか?』


 宿の部屋で着替えているとウィグナーの声が聞こえてきた。


(だって歌劇場に行くんだよ?)

『ようやく合点がいった。して、その華美な服装は購入したのか?』

(そんなお金はありませーん。貸し衣装だよ貸し衣装!)

『ふ、馬子にも衣装とはよくいったものだ』


 旅を始めてからは、なにかと気が張りっぱなしで少しずつ疲れが溜まりつつある。

 そんなこともあって、何かを察したカイルさんが特別に観覧チケットを用意してくれた。彼が言うには「今日くらいは何も考えずに楽しみましょう」とのことであたしはすっかり浮かれている。


 宿を出るとすぐにカイルさんが出迎えていて、いつもとは違うお洒落なスーツを着込んでいる。


「お待たせしてすみません。勝手がわからなくて……」

「いえ、僕も今来たところですから。それにしても素敵な真紅のドレスですね。髪色と相まってアリスさんによくお似合いです」

「またまた、そんなことないですよ! カイルさんこそどこかの王子様みたいで格好いいです」


 と言うと少しだけ妙に間が空く。

 気まずい。変なことを口走ってしまったかもしれない。


「はは、ありがとうございます。それではあちらで向かいましょうか」


 その直後、やってきたにあたしは文字通り言葉を失った。


「え、本当にこれでですか?」

「今日は特別だと言いましたからね。さあ、お手をどうぞ」


 こうして、あたしは生まれて初めての馬車に乗り込んだ。

 これで移動して劇場まで行くなんて、まるでどこかのお嬢様になったみたいだ。

 すっかり気分が上がってしまったあたしは、鼻歌とともに外の景色を眺めている。こういう世界もあるんだとひとしきり感慨にふけり、視線を車内に戻すとカインさんと目が合った。


「ええと、あたし何かおかしいですか?」

「いえ。アリスさんが嬉しそうなので、僕も同じ気持ちになっていたところです」


 何気ない彼の言葉にまた嬉しくなってしまった。



 お馬さんに手を振ったあと、カイルさんの後ろについて場内へ入る。

 席は中央付近にあり全体がよく見渡せそうだ。

 彼の左隣に座りわくわくして辺りを見回すと、いかにもな格好をした人達が次々と着席していく。それと同時に、あたしは場違いなのかもしれないと少しだけ恥ずかしくなった。


『ほう、フォスティア歌劇場とは久しいな』

(来たことあったんだね。何年くらい前?)

『確か346年前だと記憶しているが』

(へえ、300年以上も前かぁ……。その時はどういう人と来たの?)

『嫌味な金持ちの子息だ。ふん、今思い返しても虫唾が走る』


 ウィグナーでも怒ることってあるんだ。

 そう思っていると場内の照明が暗くなっていく。


「さあ、始まりますよ」


 カイルさんの声とともに舞台上に視線を送る。

 お題目は『君に花束を』。

 あたしはもうこの物語を知っている。

 身分の差にも負けず二人は駆け落ちをするものの、最後には心中をしてしまう。これは小説を何度も読み返すほど大好きで切ないお話だ。


 結局あたしは泣いてしまっている。何度も繰り返し読んだ台詞を実際に耳にしていると感動もひとしおだ。

 カイルさんからハンカチを差し出され涙を拭い、収まったところでまた鼻がつまる。

 カーテンコールが終わると周りからは大きな拍手と歓声が起き、あたし達も手を叩いて賞賛した。


「もう泣きっぱなしでした。ハンカチ洗って返します……」

「演出が特に素晴らしく、感情に深く訴えかけるものがありましたね。さて、時間もありますし食事でも――」


 カイルさんが立ち上がった途端、


「ようやく見つけましたわ! もし、そこのお方!」


 赤髪の気の強そうな女性が近づいてくると、彼の表情は引きつり固まってしまった。


「すみません、恥を忍んで一つお願いがあるのですが」

「できることなら何でも言ってください」

「アリスさん、僕と逃げてくださいませんか?」


 真剣な目をして囁くものだから、もしかしてまだ劇が続いているのかと錯覚してしまう。

 どこへ連れ去ってくれるのだろう。

 まるで物語の主人公のように、この先二度と聞くことのない台詞に心は弾んだ。


「わたくしを無視していますの!?」


 甲高い女性の声が響く中、


「あたしでよければ喜んで」


 熱に浮かされたまま気付けばそう答えてしまっていた。

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