崩壊への序曲
「こんにちは。ようやく逢えましたね」
数日後、受付机についていると突然囁き声が聞こえてきた。
顔をあげると、目の前にはすらっとしていてどことなく気品を感じさせる男性が立っていた。特徴は一致している。もしかするとメイアーが言っていた人と同一人物なのかもしれない。
「あの、どういったご用件でしょうか?」
「すみません、これからお話などできませんか?」
青緑色の澄んだ瞳が覗き込んでくるとあたしは目を離せずにいる。
はずだったのだけれど、唐突に館長のあの視線を思い出すとあえなく我に返った。
「じきに始業時間になりますので……申し訳ございません」
「でしたらお仕事が終わる時間にまたお伺いしますね。そうそう、僕はアルフレッドと申します」
それではと一礼して図書館を出ていくと、入れ替わりになるようにメイアーが隣に座った。
「ねえ、あたし何かおかしい?」
思わず挨拶をするのも忘れてしまうほど、彼女はにやにやとしていて気になる。
「ふふ、アルフレッドさんとすれ違ったからもしかしてと思って~。何かお話できた?」
「ううん。また伺うとは言ってたけど……」
「そっかそっか。それじゃ張り切って頑張りましょう!」
「ちょっと、さっきからなんなの?」
いつもより陽気な彼女はさておき、今日も司書としてお仕事の始まりを迎える。
それは書架整理をしている時だった。
「アリスさん、こちらでしたか」
声に振り返るとルーベルトさんが背後に立っていて、脊髄反射で背筋が少しだけピンとなる。
「か、館長。どうかしましたか?」
「あなたにもそろそろ、重要な役割を覚えていただかなくてはと思いましてね」
「え、あたしにですか?」
「そこまで難しい話ではありませんから。では行きましょう」
あとをついていくと、彼は地下にある小さな一室の前で立ち止まった。
たしかここには鍵がついていて、働き始めた頃ほとんど説明を受けていない場所だった気がする。
そんなことを考えていると、ガチャリと音を立ててひときわ古びたドアが開く。
中に入ると、すぐにかび臭いにおいが立ち込めてきて思わず口を塞いだ。
「アリスさんは禁書というものをご存知でしょうか」
ルーベルトさんは部屋の中の明かりを灯してあたしに尋ねた。
「えっと、噂に聞いたことはあります。たしか貸し出したり、読んではいけないとされているんですよね?」
「そのとおり。禁書には、この世界から失われた魔法についての文献や、あまつさえ存在するだけで世界をも変えてしまうという言い伝えの残っているものまであります」
「ええと、その話はここと何か関係があるのでしょうか?」
「もちろんです。今日から、あなたには禁書が保存されているこの書庫の鍵を保管していただきます」
ルーベルトさんの持つ鍵が振り子のように揺れている。
その動きに夢中になっていると、彼はあたしの名前を呼んだ。
「あっ。ええと、つまりここが禁書の!?」
彼は何も言わずゆっくりと頷いた。
「そんな大事なもの受け取れませんよ。もし落としたりしたらどうするんですか?」
「これは入られた方、皆が行う通過儀礼のようなものです。ですがそこまで心配する必要はありません。この鍵を求めるような人物が現れたことはこれまでありませんでしたからね。ですから、あなたはただなくさないよう大事に持っていてくだされば結構です」
「どうしてもですか?」
「どうしてもですよ」
瞬きをしていないのもあって迫力がすさまじい。
「わ、わかりました。肌身離さず持っていればいいんですね」
あたしは有無を言わさぬ雰囲気に圧され鍵を受け取ってしまった。
*
あれから時は過ぎ、そろそろ終業時刻になる。それでもまだまだすべきことが残っていて、これは残業確定だなと溜息をついてみる。
「アーリス。あとは私がやっておくから先あがっていいよ」
「さすがにそれは悪いよ」
「いいからいいから。この後用事あるんでしょ?」
メイアーは半ば強引にあたしの仕事をひったくってしまう。しょうがないなあと思いつつもあたしは少しだけわくわくしていた。
「あの、アルフレッドさんでしたっけ。お待たせしました」
図書館を出てすぐに、朝見かけた男性が立っているのがわかった。
「アリスさん!」
「あたしの名前ご存知だったんですね」
「ええ、職員の方から聞いていたもので。さて、ここでは何ですから場所を変えましょうか」
彼に連れられたのはいかにも高級そうな料理店。
テーブルの上には、見たことないものばかり並んでいてどれも美味しそうだ。
「あたし、こういうところ初めてなんです」
「そこまで緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
「それでどういったご用件なんでしょう?」
料理とアルフレッドさんを交互に見ていたせいかもしれない。彼はふふっと笑うとメインディッシュの皿に手を差し出した。
「ひとまず食事をいただきながらにしましょうか。そうそう、アリスさんはお酒などは召し上がりますか?」
「少しくらいなら」
「それでは折角ですし、普段滅多にお目にかかれないものをご用意しましょう」
と言って彼はウェイターさんを呼ぶようにして手をあげた。
「いえ、何もそこまでしてもらわなくても!」
「お気にせず。こちらからお誘いしているわけですから、このくらいはさせてくださいね」
運ばれてきたワインを一口、二口飲んだあと食べ始める。
最初は身構えて警戒する気持ちが強かったけれど、意外と気さくな人なのかもしれない。
気付けば家族のことや最近あったことについて話をしていた。
「なるほど。図書館のお仕事もなかなか大変そうですね」
「そうなんですよー。そのうえちょっと怖い上司さんがいて!」
「どこも似たり寄ったりなのかもしれませんね」
「え、アルフレッドさんもですか? よかったら聞かせてください!」
お酒がまわってきたのもあってすごくいい気分になっていると、彼が三人に増えだして周りの景色がぐわんぐわん揺れ始めた。
「アリスさん、大丈夫ですか? アリスさん――」
目が覚めると窓の外はまだ薄暗く、よくよく見ると自宅のベッドの上にいた。
いつ帰ってきたのか覚えていないし、彼の話しただろう内容も頭に残っていない。
だけどすごく楽しかったのだけは覚えている。
何も
あたしはふわふわとした気分のまま再び眠りに落ちていった。
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