フェアリー・フェストゥム

桐原まどか

フェアリー・フェストゥム



事の起こりは一週間前。

レイヤードはいつもの時間に起き、いつも通り、朝食を食べ、ピアノのレッスン(といっても、彼の腕前は既にプロと相対しても遜色ないものだ)を行っていた時だ。

レッスン室には彼以外、誰もいなかった。

少し暑かったので、窓を細く開けていた。風が入ってきて、薄いレースのカーテンを揺らしていた。

一曲目を弾き終えた時の事だ。

パチパチパチ…。

ごく小さな音だが、確かに聞こえた、拍手のような音。

彼は席を立ち、音の出どころ―細く開けている窓―に行った。

果たして、彼はごしごしと目をこすった。瞬きをした。そこには、彼の親指サイズくらいの―けれど、確かに人間に見える、だが背中にごく薄い羽がついている―生き物がいた。

窓辺に腰掛けている。

「うわぁ!?」

ずざっと後ずさりする。レッスン室は防音なので、いまの叫びは恐らく、外には聞こえていない。

生き物が目を丸くした。

「あなた…まさか、わたしが<見えている>の?」

鈴の鳴るような愛らしい声音だった。

彼は無言でこくこくとうなづいた。

生き物は―見た目はこれまた愛らしい少女なのだが―言った。

「わたしの姿が見える―あなたは<本物>だわ…。ミューズに愛されている」続けた。

「不躾なのは承知だけれど、お願いがあるの」


その夜、ややぼうっとした状態でレイヤードは夕餉の席に着いた。

午前中の出来事を反芻していた。

あの背中にごく薄い羽を持つ、親指サイズの少女はマカロ、と名乗った。

「あなたたち、人間の言葉で言うと<フェアリー>ね。わたしたちにも種族があって、わたしの一族は<芸術>―特に<音楽>を愛しているの」

それでね、と、続ける。

「急なんだけど、一週間後に、フェアリーが集う、10年にいっぺんのお祭りが行われるの」

次の言葉に彼は仰天した。

「あなた、そこに来て、ピアノを演奏してくださらない? もちろん、お礼はするわ」

何でも彼女はレイヤードの演奏が前から、とても気に入っていて、毎日聴きに来ていたのだという。

「ぼくはただ、嗜みのひとつとして、やっているだけだよ」とレイヤードはやや上擦った声で答えた。その時、彼は『ぼくは頭がおかしくなったのかな?』と思っていた…。

マカロは鈴が鳴るような声で笑った

「またまた、ご冗談を!嗜みのひとつで、作曲なんかしないわ」レイヤードはギョッとなった。そこまで知ってるのか…。

「それから、あなたの頭はおかしくないわよ」と続けられたので、またまたギョッとなった。

マカロはカラカラと笑う「あなたはわかりやすい人ね、ぜーんぶ、顔に書いてあるわよ」

さて、とマカロは立ち上がった。

「明日もここに来るから、お祭りのこと、考えておいてみてくれる?」

じゃあね!また明日!

そう言い置いて、彼女は去っていった…その薄い羽を羽ばたかせて。


レイヤードはとある貴族の次男だ。母は至極おっとりしたお嬢様気質で、優しく朗らかだ。だが、父は違う。時代錯誤なまでの厳格さで、時に兄弟に(レイヤードには兄がいる、彼が跡継ぎだ)鉄拳を振るう事も厭わない。はっきり言って怖い人だ。

もしも、作曲などしている事がバレた日には、ピアノは燃やされ、レッスン室は釘付けにされるだろう…芸術など、夢想家の戯れ、生きるに不要、と父は思っているのだ。

そんな事を考えながら、食事をしていると、父が不意と声をかけてきた。

「レイヤード、勉学の進み具合はどうだ? ユーフィリア先生に聞いたが、どうも今日は授業に身が入ってないように見えたそうだが?」ギロリと睨んでくる。レイヤードは内心、家庭教師に向かって、恨み言を吐いた。しかし、顔はにこやかに、

「そうですか? おかしいな、最近、ぼくは数学が楽しくて仕方ないんです。それがいけなかったかな…」と誤魔化した。

父は「そうか」とだけ言って、それ以上追及して来なかった。


夜。レイヤードは夢を見た。森の深奥にピアノが置かれている。

そこだけ、スポットライトのように太陽光が降り注いでいる。

そうして、周囲にはマカロをはじめ、フェアリーたちが、瞳をキラキラ輝かせながら、彼の演奏を待ちわびている…。


次の日。彼はレッスン室に入った途端、真っ白な楽譜にペンを走らせた。

衝動が背中を押す。

夢のなかで演奏した曲。

タイトルは何にしようか?

考えながら、彼は夢中で指を動かした。紡がれるメロディー、鼓膜を揺らす、その心地良さ!

―ぼくは音楽が好きだ。と心底思った。

ずっとずっとピアノを弾いていけたら…この感動を人々に分け与えられたら…。

演奏を終え、ふぅ、と息を吐いた時だった。

―パチパチパチ…果たして、細く開けた窓辺に腰掛けた、フェアリーの少女が拍手を送ってくれている。「ブラボー!いつにも増して、素敵だったわ!」

にこっと笑う。

「また作ったの?」

彼は近付きながら言った。

「うん、夢を見たんだ。キミたち、<フェアリー>の夢を。それをヒントに作ったんだ…」

「それは光栄だわ!」

マカロはとても嬉しそうにお辞儀してみせた。

「ありがとう、レイヤード」

この瞬間、彼は決心していた。

「マカロ、昨日の話だけど…ぼくで良ければ、ぜひ、キミたちの前で演奏させてくれないかな」

「もちろんよ!」

マカロはぴょんぴょん窓辺を跳ねた。

「嬉しいわ!楽しみにしてる!」

※※※※

フェアリーのお祭りで、演奏する。そう決めたレイヤードだったが、ひとつ問題があった。父だ。父をどう説得して外出するか…。

特別な用事がない限り、自由な外出―執事を付けずに出歩く事は認められていないからだ。

―友人に頼るか?のちのち露見した時、迷惑がかかる。

急病の振りをして、寝込む。ひとりになった隙に、家から抜け出す…バレたら大目玉だ。

ああでもない、こうでもない、と悩んでいると、兄が声をかけてきた。

「レイヤード、俺の部屋で話さないか?」

二個上の兄・セラムは母に似て、朗らかで優しい気質の持ち主だ。長男だから、と父に、帝王学や馬術やらビリヤードやら習わされている。それでも嫌な顔ひとつせず、勉学に励み、頑張っている。

部屋に入った途端、セラムが言った。

「で、レイヤード、何を困ってるんだ?」

レイヤードは驚いた。

「ふふっ、本当に我が弟ながら、わかりやすいなぁ」

カラカラと笑う。少しマカロに似ている気がした。

レイヤードは経緯を全て兄に話した。

兄は黙って聞いてくれた。

馬鹿にするでも、頭を疑うでもなく、「問題は、確かに父様と執事だな」手帳を取り出し、パラパラと捲る。「OK!俺に任せてくれ!」兄が言うには、レイヤードがお祭りに招待されたその日は、とある貴族が、ビリヤードの会を開くという。「父様に誘われてたんだ」ウインクしてみせる。「俺が上手く引き留めるよ。執事は…母様に頼んでみよう」

※※※※

そうして、やって来たお祭り当日。レイヤードはいつも通り、レッスン室にいた。ピアノを弾いて、指の緊張をほぐしていた。

兄は父とともにビリヤードの会に行った。多分、夕食までいるので、夜遅くまで帰ってこない。

執事は、母が―兄が上手いこと言ってくれたらしい―「たまにはレイヤードと二人きりもいいわ」と一日休暇を与えた。

メイドたちもいるが、気にする必要はない。

「こんにちは!」と鈴の鳴るような声が聞こえた。

「迎えに来たわ」

にっこりと笑って、マカロが言った。そうして、屋敷の窓から抜け出したのだった。


マカロがふわふわと羽ばたくのを幻を見ている気分で眺めながら、後ろをついて行った。

―あの時の夢みたいだな…。と、木々をかき分け、森の奥深くに入りながら、レイヤードは思った。

「みんな!今日のゲスト、レイヤードよ!」

マカロが声をあげた。

パッとこちらを振り返る視線、視線。マカロとほぼ同じサイズのフェアリーたちが一堂に会している。

「ようこそ!フェアリー・フェストゥムへ!」

ふわふわと飛んできたのはひとりのフェアリーだ。「わたしはチェルシー、一応、フェアリーの長です。今日はマカロの―わたしたちの招待に応じてくださってありがとう」

深々とお辞儀する。

「楽しんでいってくださいね!」

フェアリーたちは、レイヤードを警戒するでもなく、歓迎してくれた。

美しい唄声を聞かせてくれたり、変わった花の蜜や紅茶をご馳走してくれたりした。

いよいよ、レイヤードが演奏する番が来た。

先日作った、あの曲だ。

森に置かれたピアノ、周りにはフェアリー。

―なんて、幻想的なんだろう!

指が勝手に動いてメロディーを奏でた。

その旋律にうっとりと聴き惚れる者、ダンスをする者、色々だったが、みな、笑顔で楽しそうだった。

曲が終わると、割れんばかりの拍手。

「さすが、マカロが見込んだ方だわ」とチェルシー。

他にも何曲か演奏し(彼が作曲したものだ)、やがて、夕暮れが近くなると、そろそろお開きね、と、チェルシーが呟いた。

演奏するのが楽しく、時間の経過がわからなかったくらいだった。

マカロがふわふわとやって来て、その小さな手でレイヤードの手に触れた。

「今日は来てくれてありがとう!本当にありがとう!素晴らしい演奏だったわ。約束のお礼をするわね」

待って、とレイヤードは言った。「お礼はいらないよ。ぼくもこんな素敵な場所に呼んでもらえて、光栄だった。」

「そうはいかないわ!約束は守らないと、フェアリーの名折れよ!」

レイヤードは言った。「じゃあ、お願いがあるんだ…また、ぼくの演奏を聴きに来てくれないかい?マカロだけじゃない、キミたち全員…気が向いたらでいいんだけど」

その言葉に、わぁっとなった。いいの? 嬉しい! 明日から通っちゃう!など、声が溢れた。

レイヤードはとても満ち足りた、幸せな気持ちになった。


その夜、レイヤードはこっそりと母に打ち明けた―「自分は作曲の道を志している」と。

母はにこっと笑った。

「知ってましたよ、レイヤード、わたしの息子!心配なのはお父様でしょう?」

母はコロコロと笑った。

「わたしに任せなさい」とウインクしてみせた。


次の日の朝食の席での事だ。

父が「レイヤード」と重々しい声で呼びかけてきた。たちまち身体が緊張する。「はい」

「マーシャから話を聞いた。」母の名だ。つばを飲み込む「はい」

「やるなら、徹底的にやるんだ。」

その言葉に耳を疑った。

「えっ?」ポカンとしてしまう。

「お前が作ったという曲を、今度、私にも聴かせてくれ」それだけ言うと、行ってくる、と言い残し、仕事へ行ってしまった。

母がうふふ、と笑う。

良かったな、と兄が肩を叩いてきた。

レイヤードひとりがポカンとしていた。

※※※※

レイヤード・キルス。

彼がこれから作る数々の曲は後世に長く伝わることになる。

その日、彼は、タイトルを決めかねていたあの曲に題をつけた。

<フェアリー・フェストゥム>

そうして、細く開けられた窓辺には、愛らしいフェアリーの姿があった。

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フェアリー・フェストゥム 桐原まどか @madoka-k10

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