第7話 初めてのキス

元神父の手記より。


9月3日


卑猥だ卑猥!なんだあの前髪、なんの魔法がかかってるんだ?!前髪が濡れて垂れただけ、"だけ"だぞ何だあれは!

男の俺でもこれだけ動揺してるんだ、どれだけの女を泣かせてきたんだあいつ!!!信じられん。卑猥だ、あいつの前髪にはR指定をつけた方がいい。

あと、何だあいつ、素肌にシャツ着てんのなんでだよ。

買い物して帰る途中、派手に降られて二人して濡れ鼠になっちまったから、風邪ひくと悪いと思ってルシオのベストひっぺがしたら白いシャツ透けてて、胸板、俺よりしっかりした体してて、分厚かった。

羨ましいとか、色々思った。とりあえず俺のも脱がなきゃと思って脱いだ自分の体の貧相なこと……。

ルシオは咳払いしてた、あまりに貧相だから笑っちまったのかもしれない。

ともかく、いつもしっかりした服装だから変に禁欲的なイメージがあったのか、裸と卑猥な前髪を見たせいで動悸がやばかった。見てはいけないものを見てしまった、そんな気持ちでいっぱいだった。

タオルを取りに走って、戻ってからルシオの頭に掛けて卑猥な前髪を隠してやった。

ルシオは何かモゴモゴ言っていたけど俺が無理矢理バスルームに押し込んだら「僕は大丈夫なのに!」と大きな声をあげていたが、暫くすると大人しくシャワーを浴びて出てきたので入れ替わるようにして俺もシャワーを浴びた。

俺も(筋骨隆々というわけではなかったが)あれだけ逞しければ、こんなにドギマギせずに済んだんだろうか。


だめだ。

もう何時間も経つのに、濡れた前髪の隙間から見上げてくる切長の目が脳裏に焼き付いてしまっていてルシオの顔を直視できない。

さっさと寝て忘れる事にする。


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吸血鬼の手記より。


9月6日


夢を見た。

目が覚めたら真っ暗で、僕は棺桶の中にいて。

あれ?と思いながら蓋を開けたら、やっぱり僕の家で、リヤンがいない。

探そうとしたけれど、僕の家に彼がいるはずがなくて、どうして僕はここにいるんだろう、そうだ、日記、と思って、いちばん新しい日記のいちばん新しい日付のページを開いたら、まだリーゼロッテが見つかっていなくて。

あれ?リヤンと列車に乗ったのに。あの湖に行って、手を握って、毎日、目を見て「おはよう」って言ってくれて、あれは全部、僕の都合の良い夢だったのか。

鳩尾のあたりに氷でも突っ込まれたような心地がして、ぼたぼたぼたぼた冷や汗が止まらなくて、上手く息ができなかった。

探しに行かないと、と思った。

ドアに手をかけて、ふと、誰を探すんだっけ、と思って、目が覚めた。


目が覚めたら部屋の中が明るくて、混乱した頭で思わず身構えてしまったがただの蛍光灯だった。

リヤンがいた。「ごめん、眩しかったか」と、「魘されてたけど大丈夫か?」と言ってくれた。

「汗がすごいぞ」と笑われて、ベッドルームから彼が出て行ったけどとても寝直す気にはなれなかった。時計を見たらちょうど正午だった。

とりあえずシャワーで汗を流して着替えたけど、もう一度ベッドに入って眠ったら、リヤンがそばにいてくれるこれが夢になってしまいそうで、怖くて、ソファで本を読んでいるリヤンの横でぐずぐずしていた。

テレビを見ていたけど、つまらなくて、頭にも入ってこないし、眠たくて、船を漕ぎ始めてしまった。

「ベッドで寝なよ」とリヤンから声を掛けられたけど、生返事を返してなんとか目を開いて頑張ろうとしていたら、身体を引っ張られてソファに寝かされた。彼の膝を枕にして。


あのシスターがこうしてくれた、とリヤンが話してくれたけど、何て返したか覚えていない。

膝と、背中を叩く手が温かくて、リヤンの血潮が流れる音がずっと聴こえて、自分で驚くくらい寝入ってしまった。


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元神父の手記より。


9月8日


もうそろそろフェリーが来るんじゃないだろうか。

受付に聞いたところ、今夜はまだ来ないとのことだった。

ルシオが買ってくれた酒がまだ残ってるので今晩片付けてしまって、いつフェリーが来てもいいように備えておこうと思う。

あとルシオに食事を摂ってもらう。

なんだかあの日、膝の上でいやにぐっすりと寝ていたので、沢山食ってもらって栄養つけて、またぐっすり休んでもらって、まだまだ長い旅路を元気で過ごしてもらいたい。

ルシオがいなきゃこの旅に意味はない。

そりゃ世界を見て歩くだけで楽しいかもしれない。

だけど今回は俺とルシオが一緒に旅する事に意味があるんだと思ってる。

冗談でハネムーンだとルシオは言った。でも、もしかしたらそれに近い気持ちなのかもしれない。

自分で笑ってしまう、俺、男なのに何考えてるんだ。


でも、そうなのかもしれない。


リーゼロッテの記憶も落ち着いて、今はきちんと俺として、俺の心でルシオに向き合えている。……と思う。

ルシオの気持ち、もっとよく考えてみるべきなのかもしれない。



……血の味って食ったもので変わるのか?

今度訊ねてみよう。


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吸血鬼の手記より。


9月10日


船が来た!

まだ日が沈んでいない時間にリヤンに起こされて、慌てて支度をして日没後すぐにホテルを出た。

昼前にチケット売り場で船が来ると聞いて、チケットを買っておいてくれたらしい。助かった。


港で船に乗り込んで、子供っぽいかなと思ったけどはしゃいでしまって、船が動き出してから甲板に出て暗い海を見た。

夜目がきく身体でよかった、と思ったけど、そんなもの必要が無いくらいに月と星がいっぱいで綺麗だった。

リヤンと初めて行った海と匂いが違う。魚の鱗が光ったのが見えた。こんな時間にも海鳥がいるんだと知った。

カメラを初めて作った人間もこんな気持ちを味わったんだろうか。


船室に戻ってリヤンが夕食を摂るのを眺めて、カードゲームをして遊んだ。

夜中、リヤンの寝顔を見ながら、たぶん僕一人で旅をしたとしても、今この時と比べてこれっぽっちも楽しくないだろうなと思った。

眠っているから、と思って、額にキスをした。


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元神父の手記より。


9月12日


漸くフェリーが来てカザフスタン側に渡れた。

船ではルシオがずっとはしゃいでて微笑ましかった。

横断してしまうまで1日と少しかかるから、客室でカードゲームをしたりして過ごした。ババ抜きで負けまくるルシオが面白くって仕方なかった。引っかかる様に仕組みはしたけど……それにしても、だ。いやあ、笑った。


フェリーは夜中にカザフスタンについたので、それからでもチェックインできる宿を必死に探した。

安宿だったけど、ひとまず二泊取って今後のルートを一度確認しなおそうという事になった。


まだ船の上にいるみたいに、ふわふわしてる。

ルシオは「魚が一緒に泳いでた」「鳥が低いところを飛んでいた」と興奮気味に話してくる。

本当に楽しかったんだろうな、フェリーに乗るの。


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吸血鬼の手記より。


9月13日


ホテルでリヤンとこの先の目的地の話をした。

インドに行こうかと言っていたけれど、道のりが難しいようだから中国を目指すことにした。

……インドに行くのは難しいから、とリヤンから言われた時に、もう旅をやめて帰ると言い出すのかと思って肝が冷えた。


リヤンはいつまでこうして僕といっしょにいてくれるんだろう。

先のことを考えたくない。

とりあえず休むことにする。まだ船で揺られていた感覚が残っている気がする。


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元神父の手記より。


9月20日


ウズベキスタンに入って、折角シルクロードのオアシスを通るんだからと少し観光して行く事にした。

サマルカンドもいいらしいが、ブハラという街もなかなかいいと聞いたので先にブハラに寄った。道順的にサマルカンドには後で行けるし。

ミル・アラブ・メドレセ??舌噛みそうな名前だけど、まあなんとも美しい建造物だった。異国情緒の塊だった。

バザール・タキではオアシス都市らしい活気も味わえるらしいから、明日の日没後に顔を出してみようと言った。


シャシリクという串焼きをテイクアウトしてホテルでかじった。柔らかい、最高。

ウズベキスタンはウォッカをよく飲むらしい。なるほど。


ウォッカか〜。


……そういえば、だいぶ前だがインドは止めて中国にするかと相談した際、ルシオは妙に強張った顔をしてたな。どうしてもインドに行きたかったのか分からないけど、すぐに笑顔で「いいね!」とは言っていたけど。

……夜しか出歩けないことを気にしていた様に、また妙なこと考えてるんじゃなかろうか。

今日もミル・アラブ・メドレセを見た後、帰ろうかと声をかけたらやたらと寂しそうな顔をして頷いた。

なんだ、新婚旅行でブルーになるやつか?空港で離婚する夫婦のやつか?

いや、別にそういうつもりではないけどさ。

……旅に飽きちまったのかな?

気分はハネムーンじゃなかったのか?

やっぱり俺だけ楽しんでしまってる?


後で話をしてみよう。

本音は言わないかもしれないけど、あいつは何を考えてるのかと、俺はこう思ってるんだを、きちんと。


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吸血鬼の手記より。


9月21日


バザールは楽しかった。色とりどりの布があちこちで吊るされているのは壮観だった。

定期的にリヤンの首を噛むから、ストールを一枚買って贈った。……似合うと思って押し付けたけど、使ってくれるといいなと思う。


夕方からバザールをうろついて、リヤンが夕食を摂るのを眺めて。

ホテルに帰ったら、リヤンが急に姿勢を正して何か気になることでもあるのかと訊いてきた。最近時々僕の顔が曇るから、何かあるのかと。

言葉に詰まった。全部言っていいのか?と思った。

だって、同性だし、僕が思ってること全部言ったら重いだろう、と思って。

リヤンに嫌われたくない。


……結局、リヤンが聞き出すのが上手くて、全部吐露してしまった。

全部吐露した挙句、泣いてしまった。だって、嫌気がさして彼がいなくなると思ったんだ。

リヤンは、旅を終えたら、僕と同じところに帰ると言った。

僕の家を見たいと。

あの家を見せていいのか、幻滅されないかと心配にはなるけど。

とりあえず、この旅は終わらないんだと思って、情けないが泣いてしまった。

……好きだと言ってしまった。もっとちゃんとしたシチュエーションで伝えるつもりだったのに。


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元神父の手記より。


9月21日


ルシオときちんと話をした。

やっぱり変な事で悩んでいた。

旅が終わったら、また独りになると思っていたらしい。

俺はもう帰る場所を持たない。ルシオと共に生きると決めたから。そう伝えたら泣き始めてギョッとした。

「僕ね、君の事が好きなんだ」

「同性だってわかってるよ、リーゼロッテだったからじゃないよ。君がいい、君が、好きだ」

と泣きながら言われた。目元は真っ赤だったけど、ひどく真っ直ぐな眼差しだったから茶化さずに聞いた。

重いだろ?嫌になっただろ?と俯きながら言うので、両方のほっぺたをとっ捕まえて、額にキスしてやったら豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をして見上げてきた。

ルシオが素直に話してくれたんだから、俺も素直に話した。

好きだと言われて嫌な気持ちは全く無い事

旅が終わっても一緒に生きていくつもりでいる事

いずれはルシオの家を見てみたい事

まだ恋とか愛とかわからないから、きちんと「好き」に答えてやれない事。

待てるか?と問いかけたら、へにゃりと笑って「200年待った男だよ?何ヶ月でも、何年でも、君が答えを見つけるまで待つのなんて、なんとでも無い」と鼻水を垂らしながら言った。

悪い事をしてると思うが、真剣な問いに半端な気持ちで答えられない。

嫌いでは無いときちんと伝えた。

好意はあるんだ。それが愛とか恋とかか分からない。

恥ずかしいけど俺はまともに恋愛をした事がないから。

それも伝えた。少し驚いた顔をしていた。


ストールを一枚差し出されて受け取った。

派手すぎず、品のある高級そうな布のストール。

君に似合うと思ったんだ、と。不安そうな顔で渡してきた。

明日の移動の時に早速つけて歩こうと思う。


たくさん話せた。よかったと思う。

話せたことによって、ルシオが少しでも笑顔になってくれると良いなと思う。

 

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吸血鬼の手記より。


9月22日


リヤンには悪いけど、今日はホテルでゆっくりさせてもらうことにした。

疲れが溜まって後ろ向きなことを考えてしまうのかなと思ったのと、……目が腫れてどうしようもなかったから。

目がほとんど開いてないと言ってリヤンに笑われた。


サマルカンドという街に行こうとリヤンが言って、スマートフォンで写真を見せてくれた。

青い建物と青空が綺麗な写真だったけど、夜になるとライトアップされるからそれを見に行こう、と。

大きな建物に驚くくらい緻密な模様が描かれているのは本当に凄いと思う。

写真で見るんじゃなくて近くでみたらもっと凄いんだろう。楽しみだ。


リヤンの夕食を買いに散歩がてら少しだけ外に出た時、ストールを巻いてくれた。

……昨日リヤンと話して、旅が終わってからも一緒に生きてくれると言ってくれた。嬉しかった。

毎日リヤンがいて、楽しくて、幸せで。

一人でいた時と差が大き過ぎて、どうしたらいいかわからなくなるけど、リヤンがいる。大丈夫。

ストール以外にも、身につけるものを贈ったら着けてくれるかな。


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元神父の手記より。


9月23日


もしかしてルシオ疲れてるんじゃないのかと思ってもう一泊するかと提案した。でも、とか、なんとか言ってたけど、もう1日だけゆっくりしたいと言われたので今日までのんびりする。

昼間、バザールを一人で見て回って、ストールのお返しになるものを探した。綺麗に磨かれた真紅の石が使ってあるタイピンを見つけた。あいつと初めて出会った時、真っ赤なべっちんのスーツ着てたな。

赤が似合うから、似合うかな、と思って買って帰った。

細工も細かくて、華やかなルシオに似合うと思うんだけど、気にいるかな。

買いたかったものが早めに手に入ってしまったので、昼過ぎにホテルに戻りソファで昼寝をした。

…………夢を、見た。

唇と唇をくっつけるキスして、体を触る夢。

なに俺欲求不満なの?好きって言われてすぐ意識しちゃうの?ティーンなの?はっずかしい……

それは流石に飛躍しすぎだろ!?と思って驚いて飛び起きたら、また具合が悪いんじゃ無いかと俺の顔を覗き込んでいたルシオにおデコがぶつかった。

お互い悶絶した。謝ったら「体調が悪いわけじゃ無いならいいんだ」と微笑まれた。

気不味いなと思ってたが、ポケットに違和感を感じて、そういえば、と。タイピンの入った箱をルシオに渡した。

ストールのお返しだ、と言ったらなんともいえない顔をして「……いいの?」と強張った表情になった。

気に入らなかったか?


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吸血鬼の手記より。


9月24日


リヤンがタイピンをくれた。

金色の台座に柘榴のような石が乗っているタイピン。

首周りの装飾品って、何か意味があったような、でもあれは女性に贈る場合だけか?タイピンはそれに入るのか?いやそもそも、そこまで考えてのプレゼントなのか?

だってリヤン、僕がいろいろ知恵を絞って花を選んでもまったくの無反応だったもんな……これもただのプレゼントだろう。たぶん。

けど、純粋に嬉しい。移動しようと話してたけど、もらったタイピンに合う服に慌てて着替えてタイピンを着けた。

鏡が見られたら、もっと支度に時間がかかっていたと思う。


列車でサマルカンドに移動して、観光は明日からにしようとホテルを取った。

移動中も、ホテルについてからもつい胸元を見てしまうし、タイピンをいじってしまう。

子供みたいだと笑われてしまった。


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元神父の手記より。


9月25日


ストールが案外便利だし肌触りがいい。

今日からサマルカンド観光だ。

全体的に青い!綺麗!細かい!と、視覚への情報が畳み掛けてくる。華やかだ。

ルシオは未だにタイピンを見てはニコニコしてる。気に入ってくれたのなら何よりだが、そこまで?と思って笑ってしまった。母親に物をもらって喜んでいる小さな子供の様だと思った。

建物、すごく綺麗だが、俺は食い意地が張っているから、見た後すぐにセントラルバザールで出来立てのナンを買って齧り付いた。あっつい、うっまい。

どんな食い物も出来立てに敵う調味料はないな。


この辺りにはどうやら天文台もあるらしい、行ってみたい。ルシオに相談してみよう。


建物や食べ物を満喫して宿に帰った。

そろそろルシオに食事をするか聞かなきゃ。

あいつは遠慮して言ってこない時がある。

……食った物で味が変わるのかついでに聞いてみるか。

なんだか、聞いてからシャワー浴びるのも"わざわざ"感があるから、先にシャワー浴びてこよう。


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吸血鬼の手記より。


9月25日


青い建物がライトアップされているのを眺めて回った。

あの模様ひとつひとつを手で描いていくのかと思うと、途方もない労力だろうなと思う。

リヤンは薄く焼いたパンのようなものを食べていた。

齧り付いて食べていると案外口が大きい。リヤンが何か食べているのを見るのが好きだ。

あのストールも巻いてくれている。嬉しい。


ホテルに戻って、シャワーを済ませたリヤンから僕の食事を促された。

「食べ物で血の味は変わるのか?」と訊かれた。

そりゃ、健康状態がいい方が美味しいし、タバコや変な薬をやっている人間は不味い。

あとは好みかな、確か、菜食主義者がいちばん美味しいって言っているのもいたし、若いのがいいとか、女がいいとかいろいろ。

僕は、今まで食べた中でいちばんリヤンが美味しいよ。だから好きなものいっぱい食べてね、と伝えた。

リヤンはあまり好き嫌いがないみたいで、偏りもせずいろいろ食べる。現地の珍しい料理には興味を示すから、例えば羊肉が有名なら多く食べたりはするけど、偏ったとしてもその程度だ。

僕が噛み付くのも、大分慣れたようで怯えなくなった。

食べすぎてしまわないように、リヤンの身体に負担をかけすぎないように注意して、名残惜しいと思いながら顔を上げると、彼の顔とあまりにも近くて、



いや!してない!まだダメだろう!

まだ!!


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元神父の手記より。


9月26日


やばいな。

ストール巻く時に首の咬み傷触って、うっとりしちまった。


昨日、血を吸った後のルシオの顔が、熱に浮かされた様な顔して間近で止まったから……てっきり……キスでもされるのかと思った。

あの時ほっぺたに触ったひんやりした唇の感触を思い出してしまって落ち着かない。

仕方がないよな、噛まれたら気持ちいいんだもん。

思い出しちまっても、おかしくないよな。

……あの時、もしキスされてたら、俺、どうしてたんだろ。ルシオのことは嫌いじゃない。好きかと言われれば好きだけど、ライクかラブかいまいち分からない。けど、体は、噛まれて気持ちいいこと"されてる"感じになってるから、あんまり色々と抵抗がないかもしれない。

やばい、あんまり考えるな。変に意識しちまう。

ルシオはそんなつもりないかもしれない。


……サマルカンドはワインが美味いらしい。

地の酒と食い物は、そこで味わうからこそだよな、と思って天文台を見た後、宿の近場の酒屋(奇跡的に開いてた)でサマルカンドワインのボトルを買って帰った。

宿でルシオと飲む。


……好きって事は、あれだ、あの、キスしたりえっちしたりしたいって気持ちも含むのか?

プラトニック?分からん。わからん!!


とりあえず、ワインだワイン。ソファで映画を見ながらルシオが待ってる。


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吸血鬼の手記より。


9月26日


まだ!って思ったばかりなのに、昨日こそそう思ったのに、我慢できなかった。

リヤンとキスをした。

ちゃんと許可は取った!というか、リヤンからしてくれた。

あれ?これは本当に現実か?僕の都合のいい夢じゃないのか?

だって、あのリヤンが!キス!?

……今はリヤンが眠っているから、起きたらまたしていいか訊いてみよう。


このあたりはワインが有名だと聞いて、リヤンとワインを飲んでいたんだ。

ホテルの部屋に備え付けてあるテレビで、いつもリヤンのスマートフォンで見るのと同じ映画を観られるやつが使えるようだから、ソファに並んで座って映画を観ながらワインを飲んでいた。

……そりゃ、またリヤンが酔っ払って戯れついてきたら、キスくらいはしてもいいかななんて下心はあったけど。

今日はリヤンがそこまで酔っていなくて、映画で主人公がヒロインと結ばれてキスシーンが流れて、思わず「いいな」って口走ってしまって。

うっかり、本当につい口から出てしまったけど、これは絶対に聞かれた!と思って、それにキスしたいと思っていたのは本当だし、下手に誤魔化すより、ええい!と思って改めて「キスしてもいい?」と訊いてみた。

「ちょっと待てる?」と訊かれてわからないながらに頷いて、席を立ったリヤンがなんだか歯を磨いたり口を濯いだりしてくれて、あ、これはリヤンも緊張しているのか、と思って、待っている間に僕もどんどん緊張して……正直吐きそうなくらい緊張した。

だってキスなんてリーゼロッテとだって一度か二度したかどうか……いやでも、ただ唇と唇をくっつけるだけだろう?え?唇と唇をくっつけるのか!?って、もう頭の中がめちゃくちゃだった。

ミントの匂いをさせて戻ってきたリヤンに、心臓が暴れすぎて飛び出してきそうなのを隠して肩を抱いて、顔を寄せようとしたらリヤンの方から押し当ててきた。

驚いて、目を閉じるべきなんじゃ、とか全部吹き飛んで、……唇が離れてから思わず笑ってしまった。

やわらかくて、あったかかった。洗口液のミントの味がした。

彼の顔が耳まで真っ赤で、おそらく僕も同じくらい赤いんだろうと思った。


もう思い残すことはない、もうこの思い出だけ抱いて死んでもいい、って一瞬思ったけど、嫌だ。

まだ死にたくない。もっとキスをして、他のことも、もっと。


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元神父の手記より。


9月27日


なんて書き出したらいいのか。

なんで俺はあんな、俺から、なんで。なんでキスなんてしちまったのか。

そりゃ、映画見てたルシオがキスシーンみて「いいな」「キスしてもいい?」って俺に聞いてきたから、俺も酔ってたし、減るもんじゃないかって、とりあえず了承して、(匂いの強い物を食べていたから)歯を磨きに行ったわけだ。でも、歯を磨いてるうちに、あれ?これは俺が承諾してしまったらそれを受け入れたって事でだよな?と思い始めて戻るに戻れなくなったのでいつもより2往復多く磨いた。宿のアメニティのマウスウォッシュもルシオの分まで使った。

戻って、ばっちこい、なんて言ってみたけど、緊張しまくって手が震えた。いざルシオの顔が近くなって、肩掴まれた時に、一瞬"ルシオはリーゼロッテのものじゃないのか"と思った。俺がキスを受け入れてしまったら、穏やかに進む旅路が、リーゼロッテ"の"ルシオが、この時間が崩れてしまうんじゃないかと思ったと同時に、なんで過去の俺に遠慮しなきゃならんのだ、とも。

なる様になれ!と思った。酒って怖いね。

気がついたら唇、重ね合わせてた。

「僕、君の7倍近く生きてるのにさ、さっきまでキスひとつで世界が終わるんじゃないかってくらいドキドキして、緊張して、不安になってたんだ」

ルシオはキスの後、はにかみながらそう言った。

俺だってそうだよ。世界が変わっちまうと思った。

……実際少し変わったよ。


眠れない。

ベッドからこっそり抜け出して日記を書いてる。



誰かときちんとキスしたの、初めてだ。


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