第5話 初めて手を繋ぐ

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吸血鬼の手記より。


7月8日


リヤンが血を舐めさせてくれた。

美味しい。驚いた、これまで美味しいと思って血を飲んだことがなかったから。


けど、指を切るのも、切った指を私が口に含むのも、どうも痛々しい顔をするのがいただけない。

それに、緊張からか指が冷えてしまってあまり血が出てこなかった。

彼の心の準備ができたら、首筋を噛んでいいとのことだ。

吸いすぎないようにしなければ。


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元神父の手記より。


7月10日


ルシオに食事を提供すると言ってからこっち、気になって落ち着かない。

正直怖い。けど、ルシオにそう言えばまた俺が寝る頃になって出かけて、香水の匂いをさせて帰ってくるんだと思うと、それも嫌だった。

それに、俺を食べるんじゃダメかと聞いた時。「いいの?」と、確かに嬉しそうな顔をしたから。


悩んでいても仕方ない。

心の準備が出来たから、明日の晩俺を食べて良いと伝えた。

ルシオは、急がなくてもいい、無理しなくても大丈夫だよと言いながらも、あの時のように嬉しそうな顔をした。

……美味しくなかったらどうしよう。


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吸血鬼の手記より。


7月10日


リーゼロッテが行きたい、見たいと言っていたものをある程度見て、気がついた。

そうか、私が納得しようとしていただけか。

彼は確かにリーゼロッテの生まれ変わりかも知れないけれど、リーゼロッテ自身ではない。

それはそうだ。……けれど、それを自分に納得させようとしていた気がする。

夕方目が覚めた時にふとそう思って、リヤンにそれをどう話そうかと思っていたら、リヤンからリーゼロッテが最期の時を過ごしたあの湖へ行きたいと言われた。

驚いたけれど、断る理由は無い。


日没後の列車の時間を調べて、移動しようと話した。

そう多くはないけれど、荷物を纏めなければ、と思っていたら、リヤンから心の準備が出来たから明日の晩なら食べていいと申し出があった。


プレゼントを開ける直前?クリスマスの前日?ずっと楽しみにしていた舞台の開幕前?

例える言葉が見つからない。


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元神父の手記より。


7月11日


たいして多くはないが、散らばっていた荷物をまとめて、日が沈んだ後の列車で移動をした。

デカい湖がそばにある大きくて豪華な"昔の貴族の屋敷風"の宿。

ガイドブックで見た時になんだか景色に惹かれたので、ルシオにそこへ寄りたいと言った所、ほんの一瞬不思議な顔をしたがあれは何だったんだろうか。

チェックインの後、宿のレストランで食事を(ルシオはいつも通り俺を見ているだけだが)済ませて、時間が遅かったのですぐにシャワーを浴びた。

……噛みつかれるんだからと思って、念の為いつもより2往復多く洗った。

移動中も、正直、このことで頭がいっぱいだった。

もう悶々としなくていいんだと腹を括ってシャワールームから出たら、ソファでルシオが不自然なほどいい姿勢で待っていた。

ルシオは俺の姿を見るなり立ち上がって、まるでエスコートするかのような仕草で「万が一貧血で倒れたら危ないから」とベッドに俺を連れて行き、のりのよく効いたシーツの上に座らせた。

気を遣われてるなと思った。極力俺の体に触れないように、怯えさせないようにとしてるように感じたから。

いよいよ噛むぞって時に、あんまりにも緊張して変な呼吸をしてしまっていた俺に、ルシオは遠慮しながら俺の肩を抱いて「大丈夫、痛くしないから」なんて言った。実際噛まれても痛くなかった。というより、あいつ、よくも黙ってたな。

痛いどころじゃなかった。そりゃ、一瞬、ほんの一瞬チクッとはした。問題はそこからだ。

最初は痺れたのかと思った、噛みつかれて麻痺したのかと。でも次第にじわっと温かくなって、甘く疼き始めた。噛まれてるところだけじゃない、だんだんと全身に毒が回るみたいに広がって、体がゆっくり沸騰するような感覚に襲われた。痛くはないと聞いていたが、気持ちがいいとは聞いていない。

ルシオが食べ終わった頃には少し息が上がっていたから、ルシオは「ご馳走様、怖くなかった?」と聞いてきたが俺は上手く答えられるはずもなくて、緊張はした、痛くはなかったと適当に答えてさっさとトイレに逃げ込んでしばらく篭った。

あーくそ。


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吸血鬼の手記より。


7月11日


リヤンと話していて気付いた。

リーゼロッテの記憶やなんかであの湖に行きたいと言い出した訳ではなくて、ただガイドブックで見て雰囲気が良かったからか!

……それなら、余計なことは言わない方がいいかも知れない。


列車があの別荘に近づくにつれて記憶の中の景色と重なるところが増えて、鉄塔だとか、自動車が走る道だとか、明らかにあの頃と違う場所ばかりを目で追っていた。

ただ、宿についたらリヤンの首を噛んでいいんだと思うと、落ち着かなくなる。

指先から滲む分だけで美味しかったんだ。あれを口いっぱいに、と思うと期待でどうにかなりそうだが、同時に、彼を食べ物扱いしているのかと思って自己嫌悪に陥る。窓の外の景色と合わせて、嫌な気持ちの方が勝ちそうになってしまう。


リーゼロッテが過ごしていた別荘はそのままホテルになっていた。このあたりは涼しくて空気がいいから、人間の避暑地にでもなっているのだろう。

鞄を持って正面玄関の前に立つとあの頃とそっくりそのままの建物に腹の奥が冷たいもので引き絞られるような心地になる。リヤンの後に続いて中に入ると、内装はほとんど別物だったから、こっそり息を吐いた。

チェックインをして、館内のレストランでリヤンが食事を摂っている間、この部屋は何の部屋だっただろう、と考えていた。応接室?僕はこの屋敷は彼女の寝室以外入っていないからわからない。

地の野菜と川魚の料理にリヤンが舌鼓を打っているのを見ていた。もっとたくさん食べてもいいのに。


部屋に入るとリヤンはすぐにバスルームに向かった。

いつもシャワーが早くて、僕の身支度を時間がかかると笑うリヤンがなかなかバスルームから出てこなかった。

何かあったのかと耳を澄ますとしっかりシャワーを浴びて身体を洗っている音が聞こえて、ほっとすると同時に、もしかして首を噛むと約束したからだろうかと思い至った。

緊張した。嘘だろ?と思った。これまで声を掛けてきた女の首に噛み付いたのは数え切れないくらいだし、それぞれの味も覚えている。

彼女達がシャワーを浴びている間、ベッドルームで待っていた事も何度もある。なのに、今日は何故かこんなに緊張している。

リビングのソファでリヤンを待っている間、他の何をする気にもなれなくてソファに沈み込んでぐずぐずしていたが、バスルームの扉が開く音が聞こえると思わず背筋を伸ばしてしまった。

石鹸の匂いで体臭が薄れてしまったのは惜しいが、清潔なのはいいことだ。それでも温まって香り立つような匂いがして鼻が鳴りそうになるのを誤魔化して、ベッドルームへエスコートした。

まるで、食事ではなくてもっと別のことをするようだなと思ったけれど、口には出せなかった。

幻滅されたくはないな、と思った。彼の思う私がわからないけれど。


女と比べたら筋張って硬い彼の首に牙を突き立てた。

ぶつ、と皮膚を食い破る感触がして、僅かに肉に牙が食い込む感触がして。そのまま食い千切りたいのを堪えて牙を引き抜くとどっと血が口の中に溢れて、思わず喉が鳴った。

甘い。甘いだけではなくて、……ああ、比較するものが思い浮かばない。

噛み付く前に、痛みに怯えてか彼がすくみ上がっていたから、理性を総動員させて口を離してから、無粋だとはわかっていながら怖くなかったか聞いてみた。

いつもより眉間に皺の寄った仏頂面で、緊張はしたが痛くはなかったと言われたが、すぐにバスルームに駆け込んでしまった。


……彼が思うよりいろいろと聞き取れるこの耳のことはしばらく黙っておこうと思う。


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元神父の手記より。


7月12日


昨晩はよく寝た。

首の噛み跡を隠すために襟を閉じて外に出た。少し窮屈だが仕方がない。

昼間ルシオが寝ている間に、ガイドブックで見た景色が見たくて宿の周囲を見て回った。広い湖は太陽の光を反射してキラキラして綺麗だった。どこか懐かしい感じもした。

宿の中に、この屋敷に貴族が住んでいた当時の美術品を飾ってある部屋があったので覗いてみた。

既視感、というか。実はガイドブックを見た時から感じていた感覚がぶわっと、こう、襲ってきた。

日向で、誰かと歩いていて、そのうちベッドで寝たきりになって、誰かがそばで泣いていて……そんな事を急に思い出して(この表現であっているかは分からないが)しまい、ひどく目眩がして、どうにかこうにか部屋に戻って、まだルシオが寝てる時間だったのでソファに沈んだ。体のあちこちがズキズキと痛んで、動悸がした。

こんな思いをするくらいなら殺してくれ。

どこかでこの気持ちを抱いたな。俺はこの気持ちが誰のものなのか知っているぞ。そうか、リーゼロッテ。書いてて気付いた、お前、俺の中にまだいたのか。

ルシオが起きてくるまでソファで気を失っていた。

脂汗でびっしょりの俺を見つけて慌てた様子でルシオが起こしてくれた。目を覚ました頃には痛みも動悸も治まっていた。

起きてもあまり食欲が出なかったので、今日はサンドウィッチで済ませた。ルシオがやたらと心配していたので、昼間に見た湖が綺麗だったから夜の姿も見たいと伝えたら、苦い顔をして「君の体調が良くなったらね」と言った。


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吸血鬼の手記より。


7月12日


夕方目が覚めたら、ソファでリヤンがうんうん唸って脂汗をびっしょりかいていて驚いた。

食欲が無いと言うから厨房に頼んで軽食を用意させて、なんとかそれだけは腹に収めさせた。

まさかな、と思う。彼は知らないのだし。


汗で濡れた服を着替えさせてベッドに押し込んで、リヤンが寝入ってから部屋を出た。

館内を歩き回る。記憶と重なる部分が多い。

歩いているうちに、「200年前のこの屋敷の当主に敬意を表して当時の美術品を集めました」と書かれた部屋を見つけた。

中に入れる時間はとうに過ぎていたから、フロントの青年に、「興味があるから明日にでも見てみようと思うが、どんなものを展示してある?」と訊いてみた。いちばんの目玉は200年前の当主の一人娘の肖像画だそうだ。他のものは、当時のものであることは確かだが作者が無名だったりといまいちぱっとしないと。


場所は覚えた。そこには近付かないことにする。……絵は絵だから。そこに彼女はいない。

リヤンの体調が良くなったら、湖畔を散歩でもしようか。


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元神父の手記より。


7月13日


夢を見た。教会で一度見た、真っ暗闇の中で溶けてしまったかのような、あの夢。

目が覚めたらひどい寝汗だったのでシャワーを浴びた。

まだ具合が悪いのか、食欲はあるのか、薬は必要かと矢継ぎ早に訊ねてくるルシオに、問題ないからお前は寝ろと言ってベッドに押し込んだ。

昨日見てる途中だった美術品の部屋のことを思い出した。

途端、また動悸がし始めた。

どこも悪くないのに、身体中が痛い。

寂しい、つらい、助けて。

そばにいてくれ、ルシオ。

ずっとそんな事を考えながらソファから動けなかった。

これは、俺の気持ちだよな?

もしかして、リーゼロッテの気持ちなのか?

いや、でも、俺はリーゼロッテじゃないし

いや、俺はリーゼロッテだったんだから、あれ?

駄目だ。頭が痛くて熱っぽい。

フロントに頼んで体温計を借りたら38.5度あった。

まだ14時だが、ソファで休む


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吸血鬼の手記より。


7月14日


起きたらリヤンがまたソファで魘されていて、触れたらやけに熱かったから訊いたら熱があると言っていた。

リヤンをベッドに押し込んで、フロントまで走って医者を呼んでくれと頼んだら手配はしてくれたが、午前中に来ると告げられた。……仕方がない。


朝一番に来てくれた白髪頭の医者が言うには、「疲れが溜まったんでしょう」とのことだ。

解熱剤を置いて行ったが、何も食べずに飲むのは身体に悪いだろう。厨房に頼んだらりんごをひとつ貰えた。

部屋に戻って、「果物なら食べられる?」と訊いて、……ふと、そういえばあの時も、ベッドの横でりんごを剥いたなと思い出して、「うさぎにしてあげようか?」と付け足した。


熱に浮かされた掠れた声で「うさぎ」と答えながら、リヤンが布団の隙間から手を伸ばして、指先で私の膝を弱々しく引っ掻いた。

ああ、リーゼロッテだ。上手く声が出せなくなったリーゼロッテが、私の気を引くためにやっていた仕草だ。

思わずその手を握って、彼女のものとは似ても似つかない骨ばった指の長い手を布団に押し込んだ。


うさぎにしたりんごはリヤンを抱き起こして口に運んだけれど、結局食べられなくてすりおろしてもらった。


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元神父の手記より。


7月16日


夢を見た。

日向で、湖畔をルシオと歩いた。キラキラ光る湖面を、宝石を散りばめたようだとルシオが笑った。

笑った口元に、いつもの牙がなかった。

なんだかとっても、満たされた幸せな時間だった。

ルシオに触れてみたくて、そっと手を伸ばして頬に触れて……顔を近づけて、

目が覚めた。

熱が引いたようで、比較的スッキリした気分だった。

青ざめた顔でこちらを覗き込むルシオに「おはよ」なんて目覚めの挨拶をすると少し脱力したようで、へにゃりと笑った。感極まった声でおはようと返してくれたルシオは俺の額に口付けをしてから、安心したので少し休むと言いながら俺の世話を一通りした後、ソファで横になった。

ルシオには悪いが、ルシオが寝入った頃、部屋を抜け出してあの美術品の部屋に行った。

ぐるりと見渡す。どれもこれも、あの時この別荘にあったものじゃなかったが、ひとつだけ、あった。

肖像画。

当主の娘の肖像画 と、説明書きしてある絵。

リーゼロッテだった。

あの時、姿見に映った、まっちろい女。

ああ、お前はここでルシオと生きたんだな。

そう思ったら何かがストンと落ち着いた。

俺は俺で、お前はお前。

旅に出てから、時々思い出していたリーゼロッテの激しい感情や、しばらく続いた痛みや動悸もこれ以降は次第と穏やかになり、部屋に帰って起きていたルシオからしこたま怒られる頃には完全に落ち着いていた。

柄にもない事を言うと、リーゼロッテが俺を呼んだのかもしれない。


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吸血鬼の手記より。


7月17日


リヤンの熱が下がった。

よかった。……彼が熱を出して肝を潰すのは二度目だ。もしかして熱を出しやすいんだろうか。

リヤンが伏せっている間は気になってよく眠れなかったから、熱は下がったけど大事をとって大人しくしているようにと言ってソファで寝た。

返事をくれないベッドにずっと話しかける夢を見て飛び起きたらベッドルームにリヤンがいなくて、やきもきしていたらやけにすっきりした顔のリヤンが戻ってきた時にはついお説教をしてしまった。


食事もしっかり摂れるようだったから、彼の夕食を終えてから少しだけ湖畔を歩いた。

遊歩道や街灯なんかで整備されてはいるが、湖面は昔と変わらない。

夜空はよく晴れて、静かに凪いでいる湖面に月が映って美しかった。

「ここはリーゼロッテが最後に過ごした場所だよ」と、歩きながら話した。

あの頃はこんなに道が歩きやすいものではなかったし、街灯もなかったけど。確かにここで、彼女と日向を歩いた。


湖のそば、歩道から少し外れて木々に囲まれたところに、小さな墓石がある。

刻まれた文字は雨風に晒されて読み取りづらくなっているけれど、そこに刻まれた名前も、聖書の一節も覚えている。

リヤンを連れて行った。リヤンといっしょに、リーゼロッテの墓に行った。

「リーゼロッテをずっと探してたけど、君がリーゼロッテにならなくてもいいよ」

「僕は、リヤンはリヤンのままがいい」

彼が熱を出して寝込んでいた時から思っていたことを、ちゃんと言えた。

僕は、リヤンがいい。


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元神父の手記より。


7月17日


熱が下がり容態も落ち着いたので、漸くお許しが出て夜の湖畔をルシオと散歩した。

この辺りは涼しくて過ごしやすい。別荘地なのも納得がいく。

キラキラしてる水面を見ながら歩いていたら、ルシオが少し緊張した口調でここがリーゼロッテが最後にいた場所だと説明してくれた。

偶然か、必然か。

大袈裟に言うなら、必然なんだろう。

ルシオの少し後ろを歩いていたら、スッと脇道に入っていったので後を追うと小さな墓石があるところに出た。

墓石に刻まれた文字は所々読めなくなるほどに雨風で削れていたが、朧げに読めたリーゼロッテの名前。

墓の前で跪いて、祈りを捧げた。

もう俺は神父なんかじゃないから、意味はないかもしれないけれど。祈りを終えた後心の中で、やっときちんと会えたな、なんて呟いた。

ルシオが俺の後ろで、俺がいいと言った。

探してたのはリーゼロッテだが、俺は俺のままがいいと。

タイミングよく穏やかな風が吹いた。まるでドラマか何かのようだと思った。

ルシオの言葉が照れ臭くてたまらなかったから、俺はルシオに、俺は俺でしか生きられないから有難いよ、と、おざなりに答えた。

ホテルに戻るまでの遊歩道を、誰もいないからと手を繋いで帰った。


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吸血鬼の手記より。


7月18日


まさか手を握るだけでこれほど胸が高鳴るとは思わなかった。

温かかった。生きている。それだけで嬉しい。

リヤンがベッドに入ってから、一人でずっと、彼の手の感触を握り締めていた。


朝になってリヤンが朝食を摂るのを眺めて、久々にベッドで寝た。

棺桶とは比べるべくもないが、やはりソファよりはベッドの方が寝心地がいい。

夕方起きたらリヤンがあのスマートフォンを見せてくれた。

朝日にキラキラ光る湖面を背景に、いつもの仏頂面よりいくらかやわらかい顔をしたリヤンが手を振っている映像を見せてくれた。

驚いた。僕も朝日が見れる!リヤンといっしょに!

「画期的だろ?」と得意げに笑っていたが、道具がすごいんじゃない。

彼が僕にそれを見せてくれることが嬉しい。


あまりに久々過ぎて、この感覚を忘れていた。

そうか、と気付いて、すとんと納得がいった。


僕は、彼に恋をしている。


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元神父の手記より。


7月19日


偶然とはいえリーゼロッテの墓参りができたので、そろそろ移動をしようと提案をした。

と言うか、今書いていて気付いたんだがルシオの奴、ここがリーゼロッテの別荘だと最初から知っていたんだな。だからあの時妙な表情をした訳か。

……ともかく。

次の場所へ移動しようと提案をする途中でルシオの腹の虫が鳴いたのを聞いてしまった。この数日俺が寝込んでいた間何も食べていなかったらしい、そりゃ腹も減る。

……前回の勃起してしまった件、あれはもしかするとルシオは知らなかったのかもしれない。なにせ、噛む側だから。それに俺が変態ってだけで他の奴らはそんな事にならないのかもしれない。隠さなければまずい、気持ち悪がられるかもしれない。……が、食事を提供すると断言したんだ、腹が減ってる奴にちゃんと飯を出してやらなきゃならない。

移動先は明日考えようと伝えた後、飯を食うかと問いかけたらルシオは遠慮がちに頷いた。シャワーを浴びてこよう。

明日は最後に、ルシオと美術品の部屋を見て回りたいと言った。あまり気乗りはしてない様子だったが頷いてくれた。


追記

実は昼間にこっそり部屋を出て、リーゼロッテの肖像画の所に行っていた。明日も見るつもりだったけど、もう一度一人で会っておきたかったから。

「よぉ、会いに来たぜ」「俺は俺、お前はお前。でもお前の気持ち、引き継いだから安心しろ」と、リーゼロッテの絵に向かって伝えた。

暗闇で独りにさせるな、だったな。

これからの俺ならできる気がする。

あとは任せてゆっくり休んでくれ。

そう思って絵画を後にしたら、ふわりと風に乗って甘い香水のような、女の香りがした。


懐かしいような、不思議な香りだった。


忘れない様にメモしておく。


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吸血鬼の手記より。


7月20日


食事をした。怯えていたリヤンが前回よりは変な息遣いをしなくなっていたが、かわりに別のことが気になり始めたようで眉間に皺を寄せていたし、またバスルームに篭ってしまった。

貧血にならないかと心配になる。


チェックアウトの前に美術品を集めた部屋をいっしょに見たいと、バスルームから出てきたリヤンから提案があった。

吹っ切れた、というには彼女のことだけを考え続けていた時間があまりにも長いからなかなか切り替えられないが、ここを発つ前に、改めて彼女の顔を見るのも悪くないかもしれないと思った。

彼女の肖像画があることは知っていたが、ここは辛い思い出が多すぎるから、ずっと訪れていなかった。……だから、何十年も、下手をすれば100年以上、本当に久しぶりにきちんとリーゼロッテの顔を見た。

これまで私が声をかけてきた女と、どこも似ていないと思った。髪や、瞳や、鈴を転がすような声や、それぞれに彼女の面影を重ねて求めてきたはずなのに。

目を閉じて、やわらかい日差しの中で微笑む姿を脳裏に焼き付けて。

あの別荘を後にした。リヤンといっしょに。


ガイドブックを何冊か買って、リヤンのスマートフォンと合わせて情報を調べながら、とりあえず陸伝いに東へ向かうかとこれまでより長い距離を走る列車に乗った。

この国を出る。

今まで、これほど晴れやかな気持ちだったことがあっただろうか!


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