第4話 初めての食事
婚約者を探して200年彷徨った吸血鬼が、婚約者の生まれ変わりを見つけたのでいっしょに旅行に出かける話。
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吸血鬼の手記より。
5月11日
リヤンを連れて列車に乗った。
この日を一年待った。リーゼロッテの生まれ変わりが彼だとわかってから、一年。
200年探し歩いたんだ、一年くらいどうと言うことはない。そう思っていたのに、この一年は長かった。
それも仕方のないことだ。あの年寄りばかりの村で、神父が辞めるというのだから、引き継ぎに一年かかるというのも納得がいく。
何十人の年寄りとリヤンを納得させるためだ、私一人くらい。我慢できる。
神父を辞めた。そう。神父を辞めて、私と共に来てくれるとリヤンが言った。
にわかに信じられなくて、何度も聞き返して小突かれたくらいだ。今日、このコンパートメントで目の前に座るリヤンを目の前にしても、まだ現実感がない程に。
彼が暮らした村まで迎えに行って(教会までは来るなと言われた)、リュックサックを背負ったリヤンが現れた時は、思わず目を見張ってしまった。信じていないわけではなかったが、あまりにも現実感が無くて。
長かった200年が終わったんだ。これからは、一人で暗いところでもがくこともないと、安堵しかけたが、座席でリュックサックを開いたリヤンがそのポケットから細々したものを次々取り出すのに驚いた。
飴(トローチや手作りらしいヌガーも)に焼き菓子、小さなナイフ、栓抜きに缶切り、小さなケースのワセリンやら絆創膏やら……。
ひとつひとつ取り出しては、「これはどこそこの婆さんだな」だとか、「あの爺さん、いらないって言ったのに押し込みやがった」だとかいちいち呟いてはじっと見つめて、宝物みたいに丁寧にリュックサックに戻していた。
あの村の老人達は、リヤンのことを本当に大切にしていたんだろう。先の短い者達から、息子や孫のような存在を取り上げてしまったようで、少しだけ胸が痛い。
しかし、そんな私の胸中を察してか、老人達からの贈り物を全てリュックサックに仕舞い直したリヤンが口を開いた。
「俺、この先、楽しみだよ」
目頭が熱くなってしまって、僕も、と言い損ねた。
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元神父の手記より。
5月11日
ルシオと村を出た。列車に乗るのはここに来た時以来だなと思った。そんなに長い間、俺はここにずっといたんだなと、どこか他人事みたいに思った。
列車の席に腰を落ち着けて、どうにもリュックが荷造りした時より重い気がして、蓋を開けたら入れた覚えのないものが山ほど出てきた。
挨拶をしたいからと言う爺さん婆さんに囲まれて、リュックから離れたあの隙にやられたな、と思う。
ルシオは、俺の教会じゃあれだけ喋り倒していた癖に、「君、大切にされてたんだねえ」と呟いたきり神妙な面持ちで黙りこくっていた。
おおかた、年寄り連中に悪いことをしたとでも思っているんだろう。やっぱりバカだ。吸血鬼だと言うならもっとそれらしく、生贄を攫ってきたとでも思ってふんぞり返っていればいいのに。
これから先のことが楽しみだ、と言った。ほとんど嘘はない。
おそらくダフ爺さんが入れたんだろうミニアルバムが入っていた。初めてカソックに袖を通した俺と年寄り連中の写真が一枚と、酒場で飲んだ時の俺とルシオの写真が一枚だけ貼られて、あとは空白のアルバム。これはまだこいつに見せないでおこうと思う。
どこかでカメラを買わなければ。
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吸血鬼の手記より。
5月12日
行き先は特に決めずに出てきたから、とりあえずすぐにチェックインできるホテルに部屋を取った。
リヤンの夕食を済ませて、改めて部屋で膝を突き合わせる。
「これは、僕のエゴというか、自己満足だけど……君が、んん……リーゼロッテがやりたいと言っていたことを、埋めていきたい」
彼女が病床に伏せる前でも、あの真っ白な部屋でも、彼女の唇から語られて叶えられなかった望みがいくつもある。
あの頃は想像も出来なかったくらいに世界が変わっている今なら、きっと全て、叶えられるんじゃないだろうか。
ただ、書き留めていた訳ではない。私の記憶にあるだけだ。……もしかしたら、200年の間に風化して、擦り切れて、私の望みで上書きしてしまっているかも知れないが。
もし拒まれたら、と思って、膝の上で組んだ手のひらがじっとりと湿った。
固唾を飲んでリヤンの返答を待っていると、リュックサックからあの手のひらくらいの電話を取り出してこちらに向けてきた。
「とりあえず、近場から周るか」「どこに行きたい?」と言って彼の長い指が画面を滑ると、写真やら映像やら、いろいろと私に見せながら調べてくれた。
彼がリーゼロッテなんだから、緊張することもないはずなのに。
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元神父の手記より。
5月12日
ホテルについてすぐ、頭を抱えた。いやそんな気持ちになっただけで、顔は普段通りだったと思うが。
婚約者の生まれ変わり、と言われて納得はしたものの、いまいちピンと来ていない。……が、このキザったらしい男がそんな相手と宿を取って別室にするわけがない。
その上、同室なら当然ベッドは一つだ。ベッドルームの真ん中にでんと置かれた大きなベッドを見て、思わず立ち尽くしてしまった。
けど、そんな俺の気持ちを察しているのかどうかわからないが、ルシオは上機嫌に「僕ら、寝る時間真逆だからよかったかもね。思い切り足伸ばしていいから、ゆっくり休んでね」とのたまった。
まさか初日から同衾を迫られるのかと思った……どんな距離感で接したらいいのかわからない。
夕飯を終えて(食べたのは俺だけでルシオは向かいでえらく嬉しそうに眺めていた) 部屋に戻ると、相談があると言ってきた。
行き先は決めていなかったが、リーゼロッテが行きたい、見たいと言っていたものをなぞって行きたいらしい。
そもそも行き先を決めていなかったんだ、反論するはずもない。
ルシオが言うのをスマホで検索して見せたら、不思議そうに覗き込んでいた。
メモ:
・オーロラ……時期と日程を確認。
・パンダやライオン……動物園か?イルカとかシャチはどうだろう。水族館も候補に入れるか。
・珍しいものを食べる……俺が飯食ってるのをやけに嬉しそうに眺めてるのはそれか?ただ食ってればいいんだろうか。
・海を見る
・馬に乗る
・マグマを見てみたい……要検討。基本的に山奥だろうし、日没後に行って日の出までに帰れるのか?
・オペラハウスでオペラ……ロッシーニ?がいいらしい。公演日に合わせて移動すればいけるか。
・庶民の踊り、祭り……俺が庶民でしかないからよくわからん。とりあえず行けそうな祭りをピックアップしとくか。
・二人だけの肖像画が欲しい……写真でいいか確認。
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吸血鬼の手記より。
5月13日
朝起きてきたリヤンが朝食を摂るのを眺めて、食後のコーヒーをいっしょに飲んでいたら、焼き菓子の類が入れられているなら食べてしまおうとリュックサックの整理をしていたリヤンが不意に動きを止めて、「信じらんねえ……」と呟きながらカメラを取り出した。
彼が言うには村の老人からの餞別だそうだが、高価な物らしい。街中で若い人間が使っているより大きな、立派なカメラだった。
部屋のテレビでは天気予報が流れていて、昼も夜もしばらく快晴が続くと言っていた。
それを見て、カメラを見て、「行くか、海」と。
私がリヤンの写真を撮ればいいのかな?と思った。
事前に示し合わせていた訳ではないが、まず第一の宿泊先を決める時に「こういう時は海に向かうもんじゃないか?」と話した気がする。ホテル自体はオーシャンビューを売りにするような海辺のものではなかったが、バスに少し乗ったらビーチに行けた。
海水浴にはまだ少し早い上に、とっくに陽も落ちた時間だ。誰もいなかった。
眺めているだけでもしょうがないから、靴を放り出して水の中に入ってみた。冷たい。けど、どうせこの身は冷えたからと言ってどうということはない。
見上げると月が大きくて、白い光が波に反射して一面ダイヤモンドか真珠をばら撒いたようだった。
リーゼロッテ、来たよ。君が来たがっていたところに、君を連れてきた。
君は、彼女は、何がしたかったんだろう。人間のような、ごく普通の海水浴は、僕はもう出来なくなってしまったけれど。
膝まで水に浸かって、きらきら輝く水平線を見つめていたら、後ろからぱしゃ、と間の抜けた音がした。
振り向いたら、あのリュックサックから出てきたカメラを目の高さに構えたリヤンがいて、どうもそのカメラのシャッター音らしい。
「踊って?」と言われた。
ダンスは好きだ。昔、社交界でしていたようなものから、機会があれば最近の人間のダンスも見る。あれはなかなか面白い。
彼の手を取ってワルツでも踊ったらいいのかと思ったが、どうもこっちに来るつもりは無いらしい。
一人で踊れと言うのなら、従う他あるまい。やるだけのことはやった。
ここで踊れと言われたから、水を活かした方がいいのだろうと思って、なるたけ水飛沫を上げた。
飛沫が立つように大きくステップを踏んで、ターンは水飛沫が冠になるように。足を思い切り振り上げたら弧を描いて水が舞った。
しばらくやっていたら、この身になっても息が上がるんだなと改めて実感した。
生きてるんだ、と実感した。
OKとハンドサインを出されてリヤンのそばに寄ったら、あのカメラの裏側の画面を見せられた。映像も撮れるものだったらしい。
私の姿はひとつも映っていないが、足元の水飛沫だけが、ステップを踏んで、ターンを決めて。その映像だけ見ていたら、こんな草臥れたどうしようもない吸血鬼じゃなくて、妖精かなにかが喜びを抑え切れずに踊っているようだった。
綺麗だった。こんな方法があるのかと驚いた。
リヤンの見る世界を、もっと見たいと思った。
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元神父の手記より。
5月14日
5日後に祭りがあるらしいと聞いた。若い連中が花冠を被って踊るらしい。
それもやりたいことリストに入ってるから、それじゃあ5日後までここに滞在するか、と、村を出て一箇所目でいきなり留まることになった。
まあ別に、急ぐこともない。行きたいときに、行きたいところに行ければいいらしいから。
その間に他にできることはないかと考えた。
珍しい食べ物、というのは、とりあえずルシオが人間だった頃に食ったことがないものなんだろうと思ったが、そもそも200年前と食生活が違いすぎてそこら辺で売ってるもののほとんどがルシオの食ったことないものだった。ベルギーでチョコレート食べたい、なんてのはまだ理解できるが。
ホテルの周りは観光客狙いの店がぱらぱらあって、海辺だから水揚げされたばかりの海鮮を焼いただけのやつや、ブイヤベースみたいなものもあった。昼間はルシオがベッドルームを占拠しているから適当なものを食べたが、いくつかリストアップして持って帰って、夕方ルシオが起きた時に聞いてみた。
曰く、「何が珍しいのかわからない。全部見たことない。……もう、君がご飯食べてたら僕は嬉しい」だと。
気を遣って損した。これからは好きなものを食う。
そういえば、ルシオは何を食べるんだろう。
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吸血鬼の手記より。
5月15日
4日後に祭りがあるらしい。
これから来る夏に感謝して、若い人間が花冠を被って輪になって踊るらしい。
リーゼロッテはそういう祭りに憧れていたな、と思い出す。名家の令嬢なのに、楽しそう、面白そうと思えばどこへでも駆け出して行ってしまう。身分なんて彼女の前では塵ほどの価値も無かった。
リヤンが食事を摂るのを眺めるのが日課になってきた。
楽しい。嬉しい。ああ、生きているんだ、と思う。
叶うならもっと食べて欲しいのに、彼は少食なんだろうか。こっちが少し物足りないくらいで満腹だと言われてしまう。私は人間の食事を食べなくなって久しいから、彼くらいの年齢でどれくらい食べるのが普通かわからなくなってしまった。
そういえば、腹が減ってきた気がする。
どれくらい"食事"をしていなかったか。2週間?
リヤンが海老の殻を割るのに集中している間、ナフキンを持ってきたウエイトレスの首筋に目が向いて腹の虫が鳴いた。
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元神父の手記より。
5月19日
祭りを見物した。
メインは昼間だが、日が暮れてからもロータリーが解放されて若い男女が手を取り合って踊っていた。
出店も多いし、酒を出す店も多いからあちこちでさまざまな人間が上機嫌にうろうろしていた。
俺もルシオも、明らかに余所者だったが構わないようだった。日に焼けた手に引かれて踊りの輪に招かれた。俺はそういうのは慣れていないから、たたらを踏んですぐに輪から出たが、踊るのは好きだと言っていただけあってルシオは流石というかなんというか、あっという間にテンポを掴んで踊りの輪に紛れていた。
戸惑うように笑いながら頭に花冠を乗せられたルシオと、日焼けした肌の少女がルシオの真っ白い肌に見惚れているのが見えた。
ひと段落した頃にその輪から出てきたが、少し息が上がって顔が赤くなっていた。こいつ、顔が赤くなることがあるんだ、と知った。
「楽しかったか?」と聞いたら、肩を竦めながら俺の頭に花冠を乗せて「君と踊れないんじゃあんまり意味が無いな」と返された。
通行人が、若いのも年取ったのも酔っ払いだけになった頃にホテルに戻った。
俺が寝支度をする間に、「食事に行ってくる」と言ってルシオは出て行った。
ルシオが何を食べるのか、出会ってすぐから言っていたのに今の今まで忘れていた。
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吸血鬼の手記より。
5月19日
酒も煙草もやらない女は美味い。
けれど、この"食事"を美味いと思ったことは無い。
若くて張りのある肌に牙を突き立てるのは気持ちいい。けど、どうして食べたくもない知らない女に噛み付いているんだろう、と少しだけ思った。
そういえば、男は噛んだことが無いなと思って、首を振ってその考えを追い払った。
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元神父の手記より。
5月20日
結局1週間以上滞在していたホテルを後にした。
オーロラっていつなら見られるんだろうと思って調べたが、春から夏にかけては白夜になると聞いてやめた。
かわりに、ルシオが観たいと言っていたオペラのチケットが取れた。
1ヶ月先だ。それまでは、オペラハウスの近くのホテルに移る。……オペラなんて見たことが無い。ど素人が見てわかるもんなんだろうか。
バスのチケットを取ろうとしたが、午前中の時間を伝えて、取るぞ、と何の気無しにルシオに声をかけたら「悪いけど、日が沈んでからじゃないと外に出られないんだ」と言われた。
そうだった。忘れそうになる。
本当に無理なのか?
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吸血鬼の手記より。
5月23日
リヤンがあの薄っぺらい機械で取ってくれたチケットの公演日はしばらく先だけど、オペラハウスを先に見物することにした。
大きい!!そういえば、オペラなんて何年ぶりだろう。何十年ぶりか?わからない。
暗い中でも電灯が灯ってあちこち照らされて、美しかった。
昨日まで泊まっていたホテルより大きい部屋に移った。ベッドルームとリビング(応接室か?)が分かれている。ソファもある。
夜はリヤンが、昼間は私がベッドを使うから、部屋が分かれている方が便利だろう。
観光も移動も、日が落ちてからしか動けない。不便をかけているなと思う。
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元神父の手記より。
5月27日
バスで少し走るがナイトサファリを見つけた。時間を調べたら、最終のバスでホテルまで帰れそうだと思って行ってみた。
サファリバスの窓に生肉がくくりつけてあって、ライオンが目の前まで来て肉を食うやつ。
あいつらは夜行性らしいから、昼間に見るより活発な姿を見られるらしい。バスの中のアナウンスで言っていた。
お前も夜行性なんだから仲良くできるんじゃないか?と揶揄ったら、僕は生肉は食べない、と膨れていた。
……ルシオの餌を用意するのはライオンより大変そうだ。
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吸血鬼の手記より。
6月18日
リーゼロッテの夢を見た。
明るい湖畔でころころ笑いながら跳ねるように歩く彼女に追いつけなくて、手を伸ばしたら伸ばした手が音を立てて焦げた。
痛い。
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元神父の手記より。
6月19日
やらかした。
とんでもないことをしてしまった。
オペラハウスのすぐそばのホテルを取ったからベッドルームの窓からオペラハウスが見下ろせるんだが、その前で学生の楽隊が何かやると聞いて覗こうと思った。
朝だったから、ルシオはもう寝ていたから俺一人で見ようと。
ベッドルームに入ったらもうルシオは枕に半分顔を埋めて耳のあたりまで布団を被って寝息を立てていて、一応起こさないよう気を払いながら窓の側まで行った。
良く晴れていた。細くカーテンを開けたら、それだけで強い日差しが差し込んで部屋の中がぱっと明るくなったほど。
窓の外を見ようとしたが、悲鳴のような、聞いたことのないルシオの声が短く響いて動きを止めた。
驚いて振り向いたら、布団から僅かに出ていた左目を手で覆っていて、窓から差し込む日に照らされたその手が見る見る赤くなって、じゅぶ、と音を立てて爛れた。
何が起きたのかわからなかった。荒い息の下から「リヤン、カーテン、閉めて」と途切れ途切れに呻くような声が聞こえて、慌ててカーテンを閉めた。
分厚い遮光カーテンを閉めてしまうと部屋の中が真っ暗で何も見えず、蛍光灯を点けるとベッドの上でルシオが左目を押さえて蹲っていた。
何事かと思ってさっき見た爛れた手を掴んだら、ルシオの指の間からどろりと赤黒い汁が垂れて、瞬きの間に赤黒い花びらに変わってぱさぱさと音を立ててシーツに落ちた。
何を握っていたのかと思った。タチの悪いドッキリかと思ったが、左目の周りが酷く爛れていて言葉を失った。
日光か。日の光が当たると、こいつの身体はこんなことになるのか。
忘れていた。……こいつは、人間じゃないんだ。医者には見せられない。けど、薬、消毒をしないといけないんじゃないか。
ルシオに断りを入れて、ホテルから一番近いドラッグストアまで走った。
消毒液とガーゼと、火傷用の軟膏をいくつか買って戻ったら花びらがばらばら散ったベッドの上でルシオが伸びていた。気を失っていたらしい。
肩を叩いて起こして、「自分でやるから」と言うのを遮って消毒をして軟膏を塗った。
額から頬まで、布団から出ていた部分が派手に爛れていた。もともと目が細いのに赤黒く爛れて、どこが目なのかわからない有様だったが、ふと薄く開いたのを見たら目玉が酷い色になっていた。
大きなガーゼを貼ると顔の半分近くが白いガーゼに覆われてしまった。
爛れた手にも消毒をし薬を塗って包帯を巻いたが、それまで神妙な面持ちで黙っていたルシオが不意によくわからないポーズをキメて、「見て!オペラ座の怪人」とか言い出した。
俺の気を紛らわせようとしてくれたんだとは思う。
適当に頷いたが、たぶん顔が引き攣っていてまともに笑えていなかったと思う。
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吸血鬼の手記より。
6月21日
左目が潰れていても右目があるからと思ったが、なかなか思うようにいかないものだ。
日の光で潰れた目は回復に時間がかかるが、必ず治る。大丈夫。
そう言っているのに、リヤンがものすごく心配そうに手当てをしてくれる。
こっちが申し訳なくなるくらいに。
私が吸血鬼だと忘れてカーテンを開けてしまったらしい。……まあ、あまりそれらしくない自覚はある。
真っ青な顔で、震える手で手当てをしてくれた。
鏡が見られないから傷の具合はわからないが、痛みと、手の様子から察するにかなり酷いんだろう。
「気持ち悪いもの見せてごめんね」と言ったら、「いや、俺が、悪い」と俯いて、震えた声で謝ってきた。
2日経ってかなり傷は薄くなっては来たが、人前に出るにはまだ目立つからガーゼは貼らないとまずいな、とリヤンの手を借りた。
マメな男だ。朝と夕に一回ずつガーゼを替えて薬を塗ってくれた。その度に傷の具合を見ては治る速度が早いと驚いていた。
とは言え、せっかくオペラを観に行く予定の日に片目が潰れているのは残念だ……と、思ったが、そうでもなかった。
席に着いて、幕が上がって。
ああ、そうだ。こんな感じだった。リーゼロッテが好んでいた舞台。
ふと、そういえば彼がリーゼロッテなんだった、と思い出して、隣の席に座る彼を見るといつもとなんら変わらない顔でじっと舞台を見ていた。
楽しんでくれているだろうか。
リーゼロッテが行きたいと言っていたところを周る、なんて言いながら、私ばかりが遊んでいる気がする。
そう思っていると、リヤンからそうっと肩を叩かれた。
舞台の左端から役者が出てきたのを私が気付いていなかったからと、顎で指して教えてくれた。
驚いて彼の顔を見たら、照れ臭そうに目を逸らされた。
帰りがけに感謝を込めてワインを一本買って帰った。彼に出会ってすぐの頃、手土産にしたワイン。やっぱり手に入りやすいのはいいことだ。
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元神父の手記より。
6月30日
ルシオの目が完治した。
まるでホラー映画か何かで、皮膚を焼く拷問だとか、狂った殺人犯から強酸でもぶっかけられたシーンのように赤黒くなって爛れていたのに数日のうちにどんどん傷が薄くなって、今朝ガーゼを剥がしたらもう跡形もなかった。
始めは目玉も酷い色をして黒目も白く濁っていたのに。「ほら!もう大丈夫!」と言って見せてきた目は黒々としてきょろきょろ動き、しっかりと俺を見ていた。
人間じゃないんだ、と改めて思った。
急に怖くなった。
夢でみたあの親父のようにルシオを化け物だと思って怖がっているんじゃない。
人間じゃないから、俺が予想だにしないことで死ぬかもしれないんだ、と思った。
あの時、もし思い切りカーテンを全開にしていたら。もしルシオが布団を深く被っていなかったら。
ルシオの手から溢れたあの花びらが、全身があれになって散っていくのかと思うと、冗談かと思うくらいに似合ってしまって、震えがきた。
もう必要がなくなったガーゼと軟膏を、もしかしたらまた使うかも知れないから(二度と使いたくないが)リュックにしまいこんでいると、自分で思うより酷い顔をしていたんだろう、嫌に穏やかな声でルシオが笑いかけてきた。
「もし君が、僕といっしょにいるのが嫌になったら。その時は、カーテン開けるだけだからさ」
引き鉄引くより簡単でしょ?と、なんでもないことのように笑いながら言われた。
何を言ってるんだこいつは。
俺は、
「そんなに薄情に見えるのか?」
「どうして、そんなに簡単に、殺せなんて言える?」
「なんで教会を出てお前と来たか、考えてみろ」
ルシオは目を丸くしていた。……普段は笑うとなくなるくらい細い癖に、見開くと案外目が大きい。
何か言おうとして唇を開いたり閉じたりしてから、俯いて「……ごめん」と小さく呟いた。
分厚い遮光カーテンを締め切っていて外の様子はわからないが、時計を見たらもう日が高い時間だったから、「さっさと寝ろ」と言ったら肩を落としてすごすごとベッドに入って行った。
気不味いから外に出ようと思ったのに、こんな時に限って雨が降っていた。
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吸血鬼の手記より。
6月30日
リヤンに叱られた。
どうしてあんなことを言ったんだろう。
正直、怖かった。
傷の手当てをしてくれるリヤンが、ずっと強張った顔をして、手を震わせていたから。
人間じゃないと本当に理解して、嫌気が差して、帰る、と言われてしまったら。
彼がリーゼロッテなんだ。……またいなくなるのは、耐えられない。
それなら、いっそのこと、終わらせて欲しい。
……けど、彼が言った通り、教会を出て僕と来てくれたのは確かだ。
そして、彼はまだ、ここにいる。
寝付けなくて、雨音と、隣の部屋で本を読んでいるらしいリヤンがページを繰る音をずっと聞いていた。
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元神父の手記より。
7月1日
ルシオの夢を見た。
日差しが降り注ぐ水辺を歩いていた。笑うといつも口元に覗く牙がなくて、あれ?と思った。
あの人はあれで寂しがりだから、暗いところで一人にさせてはダメ、と頭の内側から声がした。
……いろいろと納得ずくでここにいなければ、病院に駆け込んでいたところだ。
夕方ルシオが起きてきたが、昨日の件を気にしてるんだろう、まだどこかばつの悪そうな顔をして小さくなっていた。最近はこの時間には身支度をしながら、やれ今日はどこに行くのか何を食べるのかと喋り倒していたのに。
なんだか叱られて尻尾を巻いている犬みたいに見えておかしかった。
膝の上で本を開いて目をそこに向けたまま、一杯飲みたいな、と呟いてみたら、それこそ飼い主が「散歩」と口にした犬みたいに飛び上がって、「買ってくる!」と機嫌よく飛び出して行った。
戻ってきたルシオの手にはいつもあいつが買ってくるワインより少しいいやつがぶら下がっていて、チーズとクラッカーとハムまで揃えられていた。
ホテルの部屋で広げて、グラスは2つ並べたがやっぱりほとんど俺が食べた。
200年生きてる吸血鬼、と言うには現代の知識があるな、と思っていたが、ホテルの部屋で映画の配信サービスが見られるなら見ていたし、時々は映画館にも行っていたらしい。ずっとうろついていただけじゃなくてあいつ自身の楽しみの時間も取っていたんだと思うと、少し安心した。
ワインとつまみを口にしながら今日もそうやって映画を観ていたら、男同士でハグをして頬をくっつけて挨拶するシーンがあって、思わずどちらともなく顔を見合わせた。
それまで足を組んでソファにもたれていたルシオが急に真剣な顔で居住まいを正して腕を広げてくるから、笑ってしまった。
……少しひんやりしていて、やわらかかった。
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吸血鬼の手記より。
7月1日
大発見をした。これは、紛れもない大発見だ!
あの薄っぺらい機械で何やら調べ物をしていたリヤンがふと、「眼レフ以外のカメラって鏡入ってないんじゃないか?」と呟いた。
あの薄っぺらい機械は写真も撮れるらしい。便利なものだ。
試しに、とあのスマートフォンとかいう機械を私に向けたリヤンが目を大きく見張った。
写った!スマートフォンなら、私の写真が撮れるらしい。
驚いた。写真は無縁なものだと思っていたから。
ひとしきりはしゃいでいたら、リヤンがリュックサックから小さなアルバムを取り出して見せてくれた。
痩せっぽちで今よりずっと若いリヤンとそれを取り囲む老人達の写真と、先日村の酒場で酒を酌み交わした時のリヤンと私の写真が貼られていた。20枚くらいは貼れそうなアルバムなのに、貼ってあるのはその2枚だけだった。
自分の顔を200年ぶりに見た。私はこんな顔をして笑うのか。
リヤンから提案があった。リーゼロッテが言っていた、肖像画が欲しいという話。あれを、写真じゃダメか?とのことだった。
ダメなんて言う筈がない。
リヤンと写真が撮れるんだ。嬉しい。
そう思っていたのに、腹の虫が鳴いてせっかくのいい気分が少し萎んだ。
出かけたくない。
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元神父の手記より。
7月3日
ルシオが少しぼうっとしている。
腹が鳴る音を聞いてしまった。吸血鬼も腹が鳴るんだと驚いた。
昨日までは雨が降っていたから、「飯に行かないのか?」と聞いても「雨が降ってるから」とぐずぐずしていたが、流石に重い腰を上げたようで俺の夕飯が済んでから出かけて行った。
あいつの食事するところを見たことがない。
俺と同じ食べ物は進めれば食べるし、ワインやコーヒーも飲むがあくまで付き合っていっしょに飲んでるという感じがする。
吸血鬼というくらいだから、映画やなんかみたいにやっぱり女がいいんだろう。
華奢な女を抱いて、その首筋に牙を立てるルシオを想像する。絵になるなと思った。
なんだか無性に鳩尾のあたりがもやもやして、嫌だなと思った。これが200年前の感覚なのかもしれない。
ルシオは夜中に帰って来て、真っ直ぐにシャワーを浴びに行った。
水を飲みにリビングに出たら香水の匂いがした。
あいつは香水は付けない。
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吸血鬼の手記より。
7月5日
リヤンから、イルカを見たことがあるかと聞かれた。映画でしか見たことがない。
スマートフォンで写真が撮れるから、せっかくだから座って澄まして写真を撮るより出かけた先で写真を撮ろう、と。
肖像画とはちょっと違うかも知れないけど、と控えめに提案されて、首を振った。
リーゼロッテがやりたいと言っていたから、僕もそれがしたいんだ。リヤンから提案されれば、断る理由が無い。
バスで少し走ったところに水族館があるから、と案内してもらった。
話は聞いたことがあるし、テレビや映画なんかでは見たことがあるが自分で足を踏み入れるのは初めてだ。
私や彼の背丈の何倍もある大きな水槽に圧倒されて見上げていたら、子供のように口を開けて魚を見る間抜け面をリヤンに撮られた。
イルカも初めて見た。思っていたより大きい。昼間に来られれば、あれが飛んだりボールを投げたり芸をするショーが見られるらしい。残念だ。
一通り見て、リヤンが「魚が食べたくなった」と言うのでホテルの近くのレストランで夕食にした。
いつものようにリヤンが食事を摂るのを眺めていると、リヤンから私の食事について聞かれた。
どれくらいおきにどれくらいの量がいるのか、とか。女じゃないとダメなのか、とか。
期間については考えたことがなかった。腹具合をみてなんとなくで食事をしていたから。
量については、これまで吸い殺したことは無いと前置きをしてから、だいたいそれくらい、と彼の飲みかけのグラスを指した。
空になった皿を前にしばらく難しい顔をして考え込んでいたが、ウエイトレスが皿を下げて立ち去ってから、「それ、俺じゃダメか?」と聞かれた。
驚いて少しの間固まってしまった。私の都合の良い幻覚か?と思った。
どうも幻覚ではないようだったから、彼の申し出は嬉しいけれど、お弁当として連れて歩いているようで抵抗がある、と言うと、いちいち出歩かなくていいから効率的だろ、とか、何食ってるかわかった方が安心だろ、とか言い訳を(おそらく彼自身に)したあとに、ものすごい仏頂面で小さく、「女の匂いがして面白くない」と呟いた。
はっとした。それは悪いことをした!
もう外に食事に行かないことにする。
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元神父の手記より。
7月8日
今日はホテルでゆっくりしていた。
ルシオの食事について考えていた。
あいつはよく喋るから、向かいで機嫌よく喋っている時にその口元から覗く牙を思い出した。
首筋に牙を突き立てられるのを想像する。……痛そうだ。犬に噛まれたことがあるから、それを思い出してしまった。
俺は痛いのがどうにも苦手だから、噛まれるよりこういうのはどうだろう、と思って、爺さんが持たせてくれたナイフで指先を切ってルシオに差し出してみた。
けっこう痛かったのに思ったほど血が出なくて、ルシオが指を口に含んで傷口を舐めた。
……舐められたら滲みて痛いんじゃないかと思ったが、それほど痛くなかった。
なにやら目をぱちくりさせて指から口を離したルシオは少し考えてから、「たぶん、噛んだ方が痛くないと思うんだけど……蚊みたいに、噛まれても痛くないようにできてるらしいから」と言った。
それから、申し訳なさそうに「あと、これじゃちょっと、足りないかな」と呟いた。
それはそうだ……。
とりあえず、俺の心の準備ができたら、ということになった。
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