第2話 別の5月
TRUE
やり直せたなら、
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教会に残された手記より。
5月6日
夢を見た。
身体中が痛くて、胸の中に針を詰め込まれたみたいに苦しくて、息をする度に血を吐く気分だった。
指先ひとつ動かすだけでも叫びそうなくらいに痛くて苦しくて、そんな身体が酷く重くて柔らかいベッドに沈み込んでいた。
叫んでのたうって、痛い、苦しい、なんとかしてくれ、出来ないのなら誰か殺してくれと泣き叫んでいた。
年老いたのから若いのまで、色んな医者が代わる代わる現れて、この身体の異常を調べて、首を振って去っていった。
呼吸や瞬きすら辛いのに、食事が摂れる訳もなくて、日に日に身体が痩せていった。
肌が乾いて、髪が抜けて、ぼろぼろになった姿で、ルシオに会いたいのにこの姿を見せたくなくて、泣いた。
ある日年若い医者が持ってきた薬を飲んだら、痛みが消えた。ふわふわして、夢に片足突っ込んだような心地だった。
今が昼なのか夜なのかもわからない。うとうと微睡んでいる時間が増えて、どれだけ経っただろう。いつかの夢でみたあの親父が、あれだけ嫌っていたルシオを呼んで来た。
ひどい顔色をしたルシオは、部屋に入るなりベッドの側に膝をついて、カラカラに乾いた俺の手を握り締めて、「結婚しよう」と言ってきた。
「いいわ」
自然と口が動いた。
「この病気が、治ったら」
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吸血鬼の手記より。
73040日目。5月7日。
レイチェルと会った。
今日こそ告げると意気込んでいた。
彼女と、リーゼロッテとまた過ごせるんだと浮かれていた。
旅に出よう。地図なんていらない。行ったことのない場所へ行って、見たことのないものを見て、食べたことのないものを食べる。二人で。
そう言うと、レイチェルは少し寂しそうに笑った。
「あなたは私に誰を見ているの?」
は、と。
驚いた。
愕然とした。
レイチェルの言葉で、初めて理解した。
馬鹿だった。
私は、この200年、何をしていた?
レイチェルはレイチェルで、リーゼロッテでは無い。
もし例えリーゼロッテの生まれ変わりだったとしても、レイチェルの両親がいて、レイチェル自身の二十数年の人生があって、……それは、リーゼロッテのものではない。まして、私がどうこうできるものでは、決して、ない。
こんなことに200年経って初めて気付いた。
リーゼロッテの生まれ変わりなら、それと分かった瞬間から昔の彼女に立ち戻り、あの時の続きを私と生きてくれるものとばかり。
呆然としている私に、レイチェルは言った。
「私は、あなたの心が欲しかったのよ、ルシオ」
そう言い残して、去っていった。
しばらくはその場から動けなかった。
レイチェルだけではない。
フェリシアも、ミアも、レイラも、その前に声をかけた女も、その前に声をかけた女も、その前に声をかけた女も、その前に声をかけた女も、
私は彼女達の何を見てきたのだろう。
記憶の中のリーゼロッテを重ねて、独りよがりな感傷に浸っていただけじゃないか。
生まれ変わったら、リーゼロッテとは違う両親から産まれて、リーゼロッテとは違う名前を授けられて、リーゼロッテとは違う人生を歩む。リーゼロッテでは無い。
……こんな簡単なことに、200年気付かなかった。
彼女達にも、リーゼロッテにも、なんて酷いことをしていたんだろう。
リーゼロッテが死んだということを、初めて理解した
あれとこれとそれと、いろんな感情が押し寄せて止まらなかった。
涙が後から後から溢れて止まらなくて、一人でずっと嗚咽を殺していた。
困り顔の店主から肩を叩かれて、初めてそこが夜遅くまで開いているカフェのテラスだったと思い出した。
自分の馬鹿さ加減に反吐が出る。
悔しい。なんだって私は、こんな
寂しい
疲れた
私は、どうしたらいい?
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教会に残された手記より。
5月8日
夢を見た。
いつもの教会だった。俺の教会。
ベッドから出て、服を着替える。
身支度をするために鏡を覗き込むと、知らない女が映っていた。
細くて、髪の長い女。
知らないはずなのに、知っている、と思った。
リーゼロッテ。
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吸血鬼の手記より。
73043日目。5月10日。
リーゼロッテだと信じた女性から別れを告げられ、その悲しみから立ち上がった時、私は気付いた。
リーゼロッテのことは忘れられない。この後何年、何百年経とうとも、決して忘れることはないだろう。
道端で揺れる花に、風に流れる雲に、雪の日の月に、私は彼女を思い出すだろう。
しかし、果たして、思い出せるのか?
会えないまま200年が経って、記憶は遥かに遠い。
それに、リーゼロッテは死んだ。
次に生まれてくるとしても、それは彼女とは別人だ。
顔も違う。名前も違う。リーゼロッテとは違う人生を歩んでいる。
生まれ変わったとしても、それはもう、リーゼロッテでは無い。
それならば、もう少し、ゆっくり探してもいいんじゃないか。
もし、生まれ変わったリーゼロッテが、リーゼロッテではない人生を歩むうちに、これという相手と出会い、恋に落ちたなら。
それを祝福するのも、もしかしたら、いいんじゃないか。
少しだけ、考え方と、生き方を変えても、いいんじゃないか。
200年だ。200年。
ずっとリーゼロッテのことだけを考えて生きてきた。
そのリーゼロッテのことを頭から追い出すのは至難の業だ。
けれど、追い出す訳ではなくて、少しだけ眠っていてもらうことは出来るだろうか。
彼女は、許してくれるだろうか。
幸い、リヤンは神父だ。まずは、彼の教会を訪ねてリーゼロッテへ懺悔しようと思う。棺で眠るリーゼロッテではなく、私の頭の中の彼女に。
200年頑張ったんだ。少しだけ、待っていて。
罪悪感と共に、少しだけ肩の荷が降りたような心地がする。
ああ、新たな門出だ。今は、この月に祈ろう。
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教会に残された手記より。
5月11日
久しぶりにルシオが来たと思ったら、耳を疑うようなことを言い出した。
婚約者を探すのを諦めるという。
よくよく聞けば、諦めるとは少し違うのか。
生まれ変わっている以上、婚約者本人とは違う人格だということを初めて理解したと。
それを無理強いして自分と一緒にさせるのは気が引けると、要はそんなことをぐちぐちぐちぐちとのたまっていた。
話しながらだんだんと鼻を啜り始めて、気付けばぼろぼろぼろぼろ泣きながらなもんだから最後の方は何を言っているのかわからなかった。
それでも聞き辛い声を聞いていたら、要は、こっぴどくフラれて落ち込んでいるらしかった。
ルシオがこの教会に来るようになってから、なんだかんだそれなりの月日が経っていた。
そのそれなりの月日の中で、初めて。ずびずび鼻を鳴らしながら、初めてルシオが弱音を吐いた。
あれだけ、会えば彼女だとわかるんだと。
彼女に会うまでならどれだけでも待てる、探せるんだと息巻いておいて。
「ずっと、会えば彼女だとわかって、彼女も僕に気付いて、そのまま、あの時の続きになるんだと思っていたんだ。
けど、彼女は死んだんだ。生まれ変わったとしても、それはもう、彼女じゃない。
本当のところを言うと、もう自信が無い。彼女の顔も、声も、もうはっきりと思い出せない。
そもそも、生まれ変わっているんだ。顔も声も違うだろう。別人だ。
だって、200年だ。まっとうな人間なら何世代重ねている?
彼女だけど彼女じゃない相手を、何を目印に探したらいい?彼女は僕のことをわかるのか?……わからない。
……けど、諦められない。だって、僕にはこれしか残ってない。
諦めたら、何をよすがにして生きていけばいいか、わからない。
けど、
もう、疲れた。
寂しい」
……。
バカかこいつは。
バカだ。
たぶん、200年前から、もしかしたらバカなんじゃないかと思っていた。
目の前でめそめそ、ずびずび、泣き続ける吸血鬼に向かって、ひとつ息を吸い込む。
おおよそ、死に際に旅に出たいって言ったから、そればっかり気にしてたんだろう。
けどな、旅に出るなんて唐突に言われて行けるかバカ。
現代人は、男だろうが女だろうが仕事があるんだ。女は嫁ぐ以外無かった時代といっしょにするな。誰だって、急に仕事に穴を開けられる訳がない。
しかも目的も無くだと。ふざけるな。200年探したとか泣いてるが、200年待たせたのはお前だろうが。デートプランくらいしっかり立てて来い。
そもそもあれは、病気持ちでバサバサのガサガサの女にお前を縛り付けたくなかったからの方便だ。本気にするなよバカ。
大体旅に出たいっつったってお前は金はあるのか?旅費はどう工面するつもりだ。どこへでも行けるとか徒歩かよふざけるなちゃちなポップソングにしてもダサい。
出来っこないことを言うのは、こっちの専売特許だ。お前が使うなよ、バーカ。
そう捲し立てたら、それまでの泣きっ面のまま、細い目を見開いて面白いくらいに固まっていた。
ルシオが硬直している間、初めてルシオと会った日に銃を向けた鏡を見る。相変わらずルシオは映していなくて、俺のかわりに髪の長い女が鏡の中でころころと笑っていた。
これでいいのかと目で問いかけてみたら、満足そうに頷いて、それっきり。女の姿はふわりと掻き消えて、草臥れた三十路すぎの信仰心の薄い神父しか映らなかった。
ずび、と鼻を啜る音のあとに名前を呼ばれて、その声が、俺の名前と、夢の中で呼ばれた女の名前と重なった気がした。
「リヤン」
「ん。」
「なに、え?なん」
「訊くならちゃんと言え」
「僕は、君に、そんなことを話した?」
「そんなこと?」
「旅に、」
「聞いてないな」
「なら、どうして?」
「……夢で見た。湖が側にあるデカい家で、そんな話しをしただろ。死ぬ前に。」
「嘘だ」
「嘘だと思うなら、それでもいいけど」
「……それじゃあ、……名前を、」
「リーゼロッテ、……違う、リヤンだ」
「ああ、……ああ、そうか」
このバカ。
どうせ、男だなんて思っていなかったんだろう。俺も、前世だとかそんなものは全く信じちゃいなかったが。
もともと目が細いのに、笑ってるんだか泣いているんだか。
あとからあとから溢れる涙を拭ってばかりだった手が震えながら伸ばされて、何を求められているのかわからなかったがそうっと触れたら手を握られて、ぐしゃぐしゃの顔を指に押し付けられた。
冷たい両手で俺の手を握りしめて、指に額を擦り付けるようにして嗚咽を噛み殺していた。手にぼたぼた落ちてくる雫が酷く熱かった。
「ここに、いたんだね」
嗚咽でぐしゃぐしゃの声でも、それは聞き取れた。
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教会に残された手記より。
5月11日
新しい神父に引き継ぎを終えた。
ロバート爺さんの咳は何日か続くなら医者を呼べ。本人は自分じゃ行かない。
グレーテ婆さんのパイは食べてくれる奴がいないならすぐ冷凍しろ。
ブライアン爺さんはテレビを叩けば直ると思っているから、調子が悪いと言われたらまず叩かないように言ってアンテナを見ろ。
ダフ爺さんは口は悪いが根は悪くない。腹は立てなくていい。
参考になるかはわからないが、細々したものは全部置いて行く。
後は任せた。
(旅券の申請書類が挟まっている)
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