journey without a map.

清透

第1話

__________________________


リーゼロッテ・イッテンバッハ

1790.5.26.

1813.3.27.

信心深いひとりの娘がここに眠る。

"イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでいても生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」"





穏やかな日だった。こんな晴天の下で人が死ぬなどとはとても思えない、暖かな日だった。


「旅に出たいわ」


リネンも壁紙もカーテンも白く、緩く組まれた彼女の指もまた白かった。

開いた窓から吹き込む風が、彼女の髪を揺らす。

暖かい、やわらかい風に外では花や木々が色付いているのに、彼女は、リーゼロッテは白いばっかりだった。


「どうして?」

「行ったことのない場所に行って、見たことのないものを見て、食べたことのないものを食べるの。どうかしら」

「そうだね。それは素敵だと思うよ」

「そうでしょう?貴方も一緒よ」


微笑む彼女の頬。昨日よりも、いくらか白い。

声だけが、甘く、やわらかい。


「僕も?」

「そう。私が素敵なものを見たら、貴方にもきっと見せたくなるもの。貴方も来てくれないと困るわ」

「それは、……嬉しいよ」


彼女の中に残された命を少しずつ吸い上げていく神は、とうとう命と共に彼女から色彩を奪い始めたんだろうか。

彼女を形作る全てが、この部屋の中のもの全てが白くて、それらが反射して目を刺すようだった。

刺された両目から雫が溢れる。

いや、あんまりにも彼女が白いから、眩しいから、ではなくて。

彼女の声が、あんまりにも穏やかだから。

できっこないことを、駄々をこねるでもなく静かに微笑んで口にする。叶わないと、彼女自身が誰よりわかっているのに。

それが、ただただ悲しかった。



「私、死んだらすぐにまた生まれてくるわ。次は貴方と旅に出られる身体に生まれかわって、必ず貴方に会いに行く」



「だから、それまで少しだけ待っていて。生まれ変わった私を探し出して」



「約束。ね、ルシオ」





絡めた指が冷たい。

こんなにも陽は暖かいのに。





「わかった、約束だ」




彼女の願い。何としてでも、叶えなければならない。


彼女の眠る棺を埋めて、その日からずっと、彼女を探している。



___________________________


教会に残された手記より。


3月29日


ブライアン爺さんの家の雨樋を直す。

グレーテ婆さんの家に仔牛が生まれた。

ロバート爺さんの咳がいつもより重い。


就寝前、来客あり。

いや、来客じゃない、侵入者か。

古めかしい真っ赤なベルベットのコート。黒髪の、整った顔立ちだがそれを台無しにするくらい間が抜けていて、嫌にキザったらしい芝居がかった男。

それも、玄関からでなく窓から入って来た。施錠はした筈だったのに。

驚いて硬直していると、向こうも同じように固まっていた。そりゃそうだ。誰もいないと思って入り込もうとしたんだろうから。


「君は?ここはお婆さんが一人で切り盛りしてるんじゃなかった?」


きょとん顔で言われた。

お婆さんというのは俺の前任のシスターのことだろう。

婆さん一人ならなんとかできると踏んで、物盗りにでも来たのか。

この村に来て初めて、枕の下に銃を隠していてよかったと思った。


「シスターなら一年前に死んだ。残念だがここには金目のモンなんてないぞ。……他の家にはまだ入っていないだろうな?」

「失礼な。僕は盗みなんて……ただあのシスターに会いたかっただけだ」


枕の下から銃を引っ張り出して、銃口を向ける。

目の前の男は、ちらと銃をみて怪訝そうに顔を顰めて、それだけだった。

怯えもしない。なんだこいつ。

玩具だと思われているのなら、威嚇に一発撃ってやろうと思い、部屋の中のどこなら撃っても惜しくないかと目の前の男から目を外さないまま少しだけ視線を巡らせる。


男の肩越しに、壁にかけた鏡が見えた。俺が朝の身支度をする時だけ使う鏡。

その鏡には、まるで鏡に向かって銃を構えているような、俺一人だけが映っていた。


「……あ?」

「うん?ああ、鏡に映らないんだよ僕。……それより、シスターのことだけ、ど」


咄嗟に側に置いていた瓶の聖水をぶっ掛けていた。

いやいやいや、鏡に映らないって?

普通の人間は鏡に映るんだよ。

鏡に映らないなんてのは、御伽噺に出て来る吸血鬼とかそんなのだろう。


「うわ何!?あ痛ってぇビリビリする!なんかビリビリするよこれ!?何!?」

「聖水」

「聖水!?……ん?聖水?君、神父か何かじゃないの?」


「神父から聖水なんてかけられたら、僕みたいな弱い吸血鬼、普通なら一瞬で灰になる筈だけど……」




「君、もしかして、神サマ信じてないの?」




……。

イラッとした。引鉄を引いた。

ぱん、と乾いた音。

クラッカーの音に似ていた。ハッピーバースデー!どうだ、驚いたか?ホームビデオの中から聞こえてくるみたいな。

目の前の男は驚いた顔をしていた。クラッカーの紙テープが頭に乗っている幻覚すら見えそうだった。

だが現実は違う。男の胸に小さな穴が開いて、……それだけだった。紙テープなんてあるはずもない。


俺はさっきより唖然としていた。目の前の男もきょとんとしていた。

確かに撃ったはずの手の中の銃と、目の前の男を見比べる。撃たれたにも関わらず平然として血の一滴も溢さない男に唖然としていると、目の前の男が俺より先に我に帰り、ひとつ咳払いをしてから、やにわにやけに芝居がかった高笑いを上げた。


「ふははは、ようやく気付いたようだな……そう、我こそが!!闇を統べる一族、ヴァンパイアなのだ!!!」





……。


書くのが面倒になった。今日はもう寝る。


____________________________


吸血鬼の手記より。


72643日目。3月29日


こんどこそ、と思った女性は、リーゼロッテではなかった。

いつもそうだ。

リーゼロッテが今際の際に言った言葉を投げかけて、返事がなければ彼女では無いとみなす。

私は何度、これを繰り返しているだろうか。

もう慣れた。そう思い込もうとしているだけかも知れないが。


しかし、今日は時間が悪かった。

これと思っていた女性と別れた時間は、人間がまだ夕食を摂っている時間。

あの月のような目指すものを無くし、途方に暮れるには夜が長すぎた。たとえ、これまで200年、一人で彷徨ってきたとしても。明日と、明後日と、その後何日も何年もを一人で過ごさなければならないとしても。期待していただけ、今日のこの夜が長かった。

行き交う人々。伴侶と、恋人と、友と、肩を抱いて、その中で私だけが一人。

ふと、先日(そう思っているのは私だけで、実際には丸一年経っていたようだが)立ち寄った教会を思い出した。


暖かい部屋で、年老いたシスターが一人、小さなストーブでスープを煮ていた。

その時も、行き詰まったような感覚を抱えていた私は窓を叩き、老いたシスターに言葉を投げかけた。

所謂、"ダメモト"というやつだ。

シスターは、暖かく迎えてくれた。

しかし、私はこの建物の中には入れなかった。このシスターはよほど信仰心が篤いのだろう。窓を叩いて彼女に窓を開けてもらう他なかったし、建物の中には入られなかったから、窓枠越しに話をする他なかった。

自分が吸血鬼であること、死んだ婚約者の生まれ変わりを探していること、全て話した。

シスターは、ただ黙って話を聞いてくれた。


かのシスターがリーゼロッテの生まれ変わりではないとはハナからわかっていたから、それからしばらくは件の教会へは近寄らなかった。

この街だけでも、妙齢の女性は数えきれないほどいる。この街の外であれば、更に何倍、何十倍も。

そうして、出会い、別れ。私一人が勝手に傷つき、何の罪もない女性を傷つけなくてよかったと安堵し、また次の女性を探しに。

そんな日々を送る中で、件の教会のことを思い出したのだ。

安らげる場所が欲しかった。


だが、訪れた教会には、シスターはいなかった。

私が初めて会った時には既に背中も曲がって、しわしわの小さな老女だったから、致し方ないのだろう。

シスターの代わりに、神父が一人いた。

背が高い、どこか疲れたような目をした仏頂面の男だ。

私を物盗りの類と勘違いし、鏡に映らないこの身に驚き聖水をぶち撒け銃まで持ち出してきた。


驚いたのは、彼にかけられた聖水も、胸の真ん中を撃ち抜いた銃も、この身にひとつも傷を負わせなかったことだ。

銀の弾丸でなくとも、信仰心の篤い者であれば私を滅ぼすことなど容易い筈だ。さほど力のある吸血鬼では無いから。

シスターがいた頃、教会の中に足を踏み入れることすら叶わなかったのがいい例だろう。

神父でありながら、彼は聖水をもってしてもこの身を焼くことは出来なかった。


驚いた。変な奴。

吸血鬼だと正体を明かしても、怯えるでも馬鹿にするでもなく、呆れと驚きが混じった顔でまた銃をぶっ放してきた。



歓迎されていないようだから今日のところは立ち去ったが、興味が湧いた。次は手土産でも持参してやろう。



____________________________


教会に残された手記より。


4月5日


グレーテ婆さんの畜舎に修繕が必要かも知れない。街から業者を呼ばなければ。

ロバート爺さんの咳がなかなか治まらない。


吸血鬼だと名乗る男がまた来た。

窓から入ってきたので吊るして乾かしていたニンニクを投げつけてやると、「これ苦手なんだよね」と平然と受け取って元の場所に吊るしやがった。

嫌にデカい花束とワインを一本持っていたから、誰ぞにプロポーズでもしに行くのかと思ったが、シスターの墓参りをしたいとのたまった。

この夜中に、と思ったが、まあ花束に罪は無い。

教会の裏の小さな墓に案内してやると、花束を供えて膝をつき随分と長く祈っていた。


ワインもシスターの墓に供えるのかと思っていたが、グラスを二つ出せと要求してきた。……まあ、ワインに罪は無い。


「新しい出会いに!」


吸血鬼の手で、嫌に仰々しく掲げられたグラス。

変なモンでも入っていやしまいかと嗅いでみたが、普通にワインだった。少なくとも何かの血が混ざっているとか、そんなこともなさそうだ。舐めても普通。味は……まあ変な味はしなかった。ワインの良し悪しはわからない。

つまみが欲しくなって、固いチーズの切れっ端とカビが生えかけたクラッカーを出したら吸血鬼はやけに嬉しそうにしていた。


なんだって俺はこの頭のおかしい吸血鬼と差し向かいでワインを飲んでいるんだろう。

吸血鬼はルシオと名乗った。死んだ婚約者の生まれ変わりを探して200年彷徨っているらしい。

……生まれ変わりなんてものは、会ってそれとわかるものなんだろうか。

俺は話し好きな方では無いから、ああ、とか、うん、とか、相槌とも言えない声を時々上げるだけで、ルシオと名乗る吸血鬼がほとんど一人で喋っていた。


つまみとワインはほとんど俺が一人で平らげた。

美味かった。



____________________________


吸血鬼の手記より。


72650日目。4月5日


件の教会を訪れた。

あのシスターは既に永遠の眠りについたと聞いたから、彼女に花を手向けようと思って。


例の神父は怪訝な顔はしたが、特に追い払うでもなく案内してくれた。

小さな墓だった。あのシスターらしい。謙虚で、質素な。

彼女がどんな花を好むのか知らなかったから、バラを中心に、華やかに、けれど派手すぎず、穏やかな彼女の人柄に合うよう選んでいたら少々大きな花束になってしまった。

花を捧げて祈る。

どうか安らかに。


さて、この信仰心の薄い神父へも手土産を持参した。

大衆向けだが飲みやすいワイン。手に入りやすいというのは良いことだ。

グラスを求めれば渋々用意してくれた。なんとチーズとクラッカーまで!

神父は、名をリヤンと言うそうだ。

私が持参したワインを警戒して、テイスティングをするふりで嗅いだり舐めたりしていたが、すぐに普通に飲み始めた。

寡黙な男だ。始めは、私を煙たがって相手にしないよう振る舞っているのかと思ったが、そうではないらしい。

気のない風の相槌を打ちながら、目はしっかりとこちらを見ている。

その視線が、どうにも、私が何かしでかすのではないかと警戒するようなものとは違う。

まるで、ちゃんと聞いているよと言うような、そんな視線が嬉しくて少々喋りすぎてしまった。

おそらく、真面目で、純粋な男なんだろう。この世の中には、そうではない聖職者なぞ掃いて捨てる程いると言うのに。


ワインが空になって、教会を後にして見上げた月の美しさと言ったら!

これはきっと、酔いのせいだけではない筈だ。


____________________________


教会に残された手記より。


4月15日


まだ寒い。もう暖かくなっていい頃かと思うんだが。

今日はほとんど一日中薪割りをしていた。

グレーテ婆さんが豆を持ってきた。

トマトを入れた豆のスープにして、ロバート爺さんに半分やった。


今日は吸血鬼は来なかった。

妙な夢を見た気がするが、内容が思い出せない。



____________________________


吸血鬼の手記より。


72771日目。8月4日


ミアという女性と会った。

彼女は素晴らしかった。

純粋で、無垢で、美しい。

栗色の長い髪を揺らして歩く姿がすらりとした鹿のようだ。

彼女こそ、と思うが、違った。

呼びかけてみたが、首を傾げられてしまった。

仕方がない。

安全な場所で、深く眠らせて、少しだけ"食事"をさせて貰う。どうか、全て夢だったと思って生きていって欲しい。


腹は膨れても、この食事を美味いと思ったことは無い。



____________________________


教会に残された手記より。


8月5日


あの吸血鬼がまた来た。

えらくしょげた様子で、タイミングよく飯時に来るから困った。

声をかけた女が婚約者の生まれ変わりじゃなかったと言って、ぐちぐち溢していた。

大人しく聞いてやっていたが、話しが終わりそうも無いし聞きながら食事にすることにした。

吸血鬼と言っているくらいだから人間の食べ物は食べないのかと思っていたが、聞けば食べると言う。

ますます吸血鬼らしくない。本当はただの夜行性のおっさんじゃないのか。


トマトのパスタにするつもりだったが二人分になるとトマト缶が足りなくてケチャップで代用した。

ニンニクは苦手だと言っていたから代わりに玉ねぎと、そこら辺で余っていた野菜の切れっ端とソーセージを刻んで放り込んで適当に作って出したら、えらく感動した様子で細い目を丸くしていた。


随分と久しぶりに、誰かと食事をした気がする。



____________________________


教会に残された手記より。


10月7日


朝から雨が降っていた。

今日は畑仕事は無し。


ダフ爺さんから、近頃夜遅くまで教会に灯りが点いている、話し声もする、誰か来ているのか、と聞かれた。

答えに詰まる。

俺に身寄りが無いことは皆知っているし、真実をありのままに話したところで吸血鬼が訪ねて来るなんて誰も信じないだろう。

何より、この年寄りしかいない村に不必要な混乱は招きたくない。

考えた末に、"街から友人が訪ねてきている。忙しい男だから夜に来て、夜が明けない内に帰っている" と言った。

ダフ爺さんは納得したようだ。



その話を吸血鬼にしたら、「友達!君と僕が!!」と、やけに嬉しそうににやにやしていた。

腹が立ったのでギターを引っ張り出して讃美歌(ロックアレンジ)のリサイタルをしてやったら、手を叩いて喜んでいた。俺の歌う讃美歌が効くとははなから思っていなかったが、ここまで平然としていられると、もしかして俺が音痴なのかと思ってしまう。

そんなことはない筈だ。


もっと歌って欲しいと請われた。

変な奴。



____________________________


吸血鬼の手記より。


72862日目。11月10日


フェリシアという女性と会った。

そのか細い身体のどこにそんなエネルギーが、と思うほどで、よく笑い、快活だった。

彼女と共に過ごせたらと思い、呼びかけたが、違った。

宿を取って、彼女を眠らせて"食事"をし、一人でそこを後にする。


近頃は夜が更けても開いている店が多い。

あちこち眺めながら歩いていると、握りこぶし程の大きさの棘の生えた鉢植えを見つけた。バラとは比べ物にならないくらい、細い棘がびっしりと生えたずんぐりした植物。

異国の植物らしい。大切に育てれば花が咲くとか。棘だらけの植物だから、棘の生えた花が咲くのだろうか。

私は日当たりの管理ができないから、あの教会に持って行ってやろう。

生活感はあっても飾り気がなかったから、これくらいはいいだろう。


リーゼロッテの夢は見なかったが、ひとりきりでもがく夢を見た。

……幸せな夢をみて起きて泣くのと、怖い夢をみて飛び起きるのと、どちらがいいのだろう。

わからない。


____________________________


教会に残された手記より。


11月15日


ブライアン爺さんの畑を手伝って、そのまま食事をご馳走になった。

いつも一人でテレビと会話しながら食事を摂っているらしい。テレビの調子が悪いと言っていたから、近いうちに屋根に上がってアンテナを見なければ。


俺も爺さんも口下手だから、二人してなんとなくテレビを見ていた。

産業革命だかなんだか、歴史をわかりやすく説明するような番組だったと思う。

ナレーターが、今からおよそ200年前の、と説明していて、ふと、あの吸血鬼は200年彷徨っていると言っていたなと思い出した。


どうにも吸血鬼らしくない男だから、今度来たら聞いてみようと思う。



____________________________


吸血鬼の手記より。


72875日目。11月23日


リーゼロッテの夢を見た。


よく晴れた日で、髪とドレスがやわらかい風に踊っていた。


大丈夫、忘れていない。


目が覚めて、日の落ちかけた部屋に一人でいると理解した時の落胆と言ったら。



____________________________


教会に残された手記より。


12月3日


変わったことは特になかった。

素晴らしい日だ。ずっとこんな日ならいいのに。


夜、ルシオがまた来た。

テレビで見た内容を、あれは本当なのか?と話したら、首を傾げていた。

「歴史書でも書くつもりなら協力するけど、君、僕から聞いて信頼できると思ってるんだ?」

……ごもっとも。


テレビなんてものは視聴者を喜ばせるための嘘が山ほど含まれているから、どうでもよくなって、結局やっぱりルシオがどうでもいいことを一人で喋るばかりになった。

婚約者とやらのことを少しだけ聞いた。若くして、病で亡くなったらしい。

言いたくなさそうにしていたから名前は聞かなかった。


他の家族のことを聞いたら、なんとも表現しづらい顔で笑っていた。

「昔は、いたよ。執事と、使用人もたくさん。家族もいた。吸血鬼になったのは僕だけだから、もう誰もいないけど。」


夢の中まで、ルシオがどうでもいいことを延々と喋っている夢を見た。


____________________________


吸血鬼の手記より。


72929日目。1月16日


歩き回ったが収穫は無し。


あの棘だらけの植物はサボテンというらしい。

テキーラは舐めたことがある。あれの原料とのことだ。

ワインもウイスキーもそうだが、原料は知っていてもその原料をどうしたらあれになるのかがわからない。200年生きていても世の中は知らないことの方が多い。

私はこれを初めて見た訳だが、リーゼロッテは知っていただろうか。これの花は土産話になるだろうか。

彼女に会ったら話そう。頭の片隅に置いておく。

頭の片隅でいい。忘れるくらいでいい。

どうせ、会えたら二人でどこまででも行ける。なんでも見れるし話せるのだから。


サボテンという植物は、リヤンに渡した。

押し付けたら渋々窓辺に置いていた。


この年寄りばかりの村で、この男は何を楽しみに生きているのだろう?

女も、煙草も賭け事もやらないらしい。酒はたまに嗜む程度だそうだ。

趣味は無いのかと聞いたら、ギターをやると言っていた。

先日の讃美歌はよかった。今まで聴いてきたものとは違う、独特の感じがあった。

讃美歌は一緒になって歌うことはできないが、リヤンと共通して知っている曲は無い。残念だ。


今日はせがんでも歌ってくれなかった。



____________________________


教会に残された手記より。


1月16日


グレーテ婆さんがパイを持ってきた。どうして食べきれないサイズのパイを思いつきでいくつも焼くのか何年経ってもわからない。食べ切れるサイズではないが、美味いことは美味い。


夜、ルシオがサボテンの鉢植えを持ってきた。なんでサボテン。

どうして皆んな自分の手に負えないものを俺のところに持ってくるのかわからない。

ルシオは、花が咲くのを見たいと言っていた。

サボテンなんざ育てたことがない。本屋が来たら載っているものがあるか聞いてみることにする。


パイを出したら喜んで食べた。


____________________________


吸血鬼の手記より。


72946日目。2月2日


今日はこれと言う女性と出会わなかった。

というか、リーゼロッテを探さなかった。今日は。……今日だけだ。


それというのも、リヤンに頼みたいことがあったのだ。

リヤンが暮らすあの村は、どうやら年老いた者しかいないらしい。

それでも、酒場くらいはあるだろう。それに、年寄りしかいないのなら、この村ではリーゼロッテを探す必要がない。

あくまで、私が、リーゼロッテは妙齢の女性として私の前に現れると思い込んでいるだけだが。今はそれに蓋をしておくことにする。


友人だと紹介してくれたのなら、村人の前に姿を表してもいいだろうと、リヤンに頼み込んだ。

僕だって、たまには気の置けない間柄の者と賑やかなところで酒を酌み交わしたい、と。

たっぷり1時間は粘っただろうか。頭を下げて、媚びて拗ねて宥めて見せて、ようやくリヤンが首を縦に振った。


結果は……楽しかった!

快活な主人ときっぷのいい女将だった。

店に来る者達は、リヤンを慕っているようだ。誰も彼も、子供か孫のように、やれあれを食べろこれを飲めと、戯れついていた。

そして、驚いたことに、私までもがリヤンと同じように扱われた!

これは本当に驚くべきことだ。年寄り連中は、リヤンを可愛がるのと同じく、リヤンの"友人"である私をも可愛がろうと言うつもりらしい。

見てくれだけなら、私もリヤンも同じくらいの歳の頃であるから、それも仕方のないことか。


杯を重ねて、皆赤ら顔で笑っている。

ひとりの老人から肩を抱かれて照れ臭そうにしているリヤンが、酒場の主人からギターを渡されて一曲弾いてくれた。

知らない曲だ。けれど、明るくて、スローテンポだが陽気なその曲に合わせて、しわくちゃの手に引かれて踊るのは気分がよかった。


年寄り連中から代わる代わる酒を注がれて潰れたリヤンを担いで教会に戻った。

しばらくは、今日のことを思い出せば孤独に耐えられそうだと思う。



____________________________



教会に残された手記より。


2月2日


二日酔いで死にそう



____________________________



教会に残された手記より。



3月9日


雨が続いて、グレーテ婆さんのところの畜舎の屋根が落ちた。


春めいてきたとは言えまだ冷える。

生まれたばかりの仔牛に障っては悪いからと、雨の中屋根の修繕をしたのがいけなかった。

雨で進まない作業は日が暮れても終わらず、とりあえず牛が寝られる程度に板を張り終えた頃にはすっかり夜になっていた。

婆さんは泊まっていけと行ったが、断って教会まで雨の中を歩いた。


灯りがついていて、「まさかこの僕が"おかえり"を言うなんて!」とバカみたいな声がしてから、記憶が無い。


____________________________


吸血鬼の手記より。


(殴り書きの電話番号。書き損じたのか二重線が引かれている)


(殴り書きの住所。書き損じたのか二重線が引かれている)


あんなのは

もう二度と



(ページを引きちぎられている)


____________________________



教会に残された手記より。


3月10日


夢を見た。

明るい湖畔を歩いていた。

隣にはルシオがいて、俺の手を握っていた。

どうして野郎と手を繋いで歩かなければならないんだと振り解こうとしたが、ルシオがいやに穏やかに笑うから、やめた。

太陽の下にいて平気なのかこいつ、と思うと、場面が変わった。


瞬きをすると映画のセットのような、やけにデカいテーブルの前に座っていた。

テーブルがデカくて、向かいに座る相手までが遠い。顔も見えないのに、あれはどうやら俺の親父らしいと何故かすとんと理解した。

親父は延々と、がなり立てるようにこの場にいないルシオを罵っていた。化け物だとか、怪物だとか言っていた。ちがう、と言いたいのに、口が動かなかった。

最後には親父は泣き出した。おまえまであんな怪物になってしまう、と、親父が嗚咽混じりに俺を呼んだが、知らない名前だ、と思うと、場面が変わった。


瞬きをするといやに白い部屋のベッドに寝ていた。ベッドは清潔でやわらかくて、沈み込むようで身体が重くてひとつも動きやしない。

隣にはルシオがいて、俺の手を握っていた。

両手で俺の手を握りしめて、指に額を擦り付けるようにして嗚咽を噛み殺していた。手にぼたぼた落ちてくる雫が酷く熱かった。

まるで俺が死んだみたいじゃないか、と思って、そうか、俺が悲しませたのか、と変に合点がいった。


瞬きをすると目を開いているのか閉じているのかわからない暗い狭いところにいた。端からぐずぐずに崩れていく感覚があった。

ここは時間の感覚が無い。ぐずぐず、ぐずぐず、"俺"が崩れて無くなっていく感覚があるだけだ。ふと、ルシオはどこにいるんだろう、と思うと、場面が変わった。


次に瞬きをするといつもの寝室で、隣街の医者がいた。

俺の友人を名乗る男が夜中に血相を変えて呼びに来たと言って、苦い薬をやたらと飲まされた。雨の中で無理をするなと説教をされた。

医者が教会についてすぐ、友人を名乗る男は去ったらしい。

熱が引かなくて2日ほど寝込んだ。もう夢は見なかった。

夢の中で、女の名前で呼ばれた気がする。意味がわからない。風邪の酷いやつは恐ろしいなと思った。


どこかで聞いた名前だった。おそらくテレビか映画だろう。



____________________________


吸血鬼の手記より。


72987日目。3月15日


教会にリヤンの様子を見に行った。

真っ青な顔で扉を潜るなりあの長身が倒れたのは本当に肝が冷えたが、無事に回復したらしい。よかった。


リーゼロッテはどうしているだろう。

今生では健康だろうか。

ここ数十年は、女性も外に出て働く者が多いらしい。

彼女なら、どんな職業を選ぶだろう。


会いたい。


……会いたい。


____________________________


吸血鬼の手記より。


72999日目。3月27日


レイチェルという女性と会った。

髪が長くて、すらりとした脚で、踊るように歩く女性だ。


健やかで、美しい。甘い香りがする。

鈴を転がすような声もまた愛らしい。

食事をして、川辺を少し歩いた。


また会う約束をした。

7日後。今日と同じ時間に、同じ場所で。

持ち歩ける電話を持っていないと言うと、ころころと笑った。

笑うと八重歯が覗く。見惚れていると、お揃いね、とまた笑っていた。


彼女と別れてからも、落ち着かない。嫌に浮き足立っている。こんなに心に響いているのだから、やっぱり、そうなんじゃないだろうか。

リヤンに話したら笑うだろうか。迷惑がるだろうか。

少し考えて、こんな夜更けに惚気話を聞かされても迷惑だろうと、リヤンの元へ行くのはやめにした。


7日!!たかだか1週間がこれほど長いとは!!

200年と比べたら瞬きの間のことだろうに!!



____________________________



教会に残された手記より。


4月1日


今日はロバート爺さんの咳がいい加減治らないから医者を呼んだ。

医者から、あの友人は来ていないのかと言われた。

ここ一週間は来ていない。


午後、ダフ爺さんが写真を持ってきた。

酒場で飲んだ時の、俺とルシオの写真だった。いつの間に撮ったのか。

鏡に映らない吸血鬼が写真には写るのかと思って恐々覗いたら、ちゃんと写っていた。


俺はこんな顔をして笑うのか。



____________________________


吸血鬼の手記より。


73006日目。4月3日


レイチェルは素晴らしい。


良家の出らしいが、どこかに嫁ぐでもなく働いている。

生真面目で、思いやりがあって、


嗚呼

彼女だったら、どんなにか。


根城にしている廃墟で、彼女のことを考える。

長い髪も、白い肌も、思い出そうとしているものが全てレイチェルに重なった。


リーゼロッテ。

彼女だろうか。

期待ばかりが胸に満ちる。


吸血鬼になってから、初めてと言える友へ助言を求めに行くには、夜が深すぎる。



____________________________


吸血鬼の手記より。


73032日目。4月30日。


レイチェルとまた会う約束をした。

7日後、同じ場所で、同じ時間に。


彼女だろうか。彼女だろう。

もし、間違っているなら、誰か教えてくれ。



____________________________



教会に残された手記より。


5月7日


サボテンが枯れた。

花は咲かなかった。

ルシオはしばらく来ていない。



____________________________


吸血鬼の手記より。


73040日目。5月7日。


リーゼロッテ



____________________________


吸血鬼の手記より。


73041日目。5月8日


(日付以外書かれていない)



____________________________



教会に残された手記より。



5月11日


セピア色の暖かい部屋で、彼女がスープを煮ていた。

西へと傾き始めた日差しの差し込む部屋。ゆっくりと鍋を搔きまわす仕草。やわらかい湯気の中に、スープの匂いと、年老いた女特有の匂い。


「近頃、若い吸血鬼が来るのよ」


俺はそれに何と答えたんだったか。


「いい男なんだけれど、どこか間が抜けていて、憎めなくってねぇ。私のこと、婚約者の生まれ変わりじゃないかって言うのよ?もうね、おかしくって」


「危なくはないわよ?彼、教会の中へは入れないんですって。夜中にね、窓をコツコツ叩きに来るの。それで、窓越しに少し話をするだけ」


「そうねぇ。けれど、私は彼を追い払おうとは思わないの。だって、ただ婚約者を探しているだけなのよ?彼が本当に吸血鬼だったとしても、迷って、救いを求めて教会に来たことは確かでしょう。よそ者だと言うのなら、貴方もよそ者だったじゃない」


「私達の神は、ちょっとばかり人と違うからって手を差し伸べないような、了見の狭い男ではないわよ」


「だから、もしまたあの吸血鬼が来たら、どうか拒まないでやって」


「少しだけ、心を開けばいいだけよ。私にはできたんだから、きっとできるわ」


「怖がりで、さみしがりで天邪鬼な、私のかわいい子」


「約束よ、リヤン」



確か、そんなようなことを言っていたと思う。

暖かくておせっかいで、母親のような女だった。

婚約者を探すことを諦めると言う吸血鬼の顔を見て、あの年老いたシスターのことを思い出していた。

彼女が死んだ時は、その時が来たんだ、と、それ以上は思わなかった。ただ眠る彼女を見送って、埋めた。

それからニ年経ったが、今日程彼女に教えを請いたいと思ったことはない。


教えてくれ。俺はどうすべきだった?


彼女は言っていた。神はそんなに了見の狭い男ではないと。

それなら、どうしてこの吸血鬼は200年も彷徨っているんだ。

これが神の試練だと言うのなら、ルシオの200年の先には何がある?

想像する。己の唯一の支えである婚約者探しを諦めた、その先を。

傍にいたいと200年待ち続けた相手は現れない。今日も明日も明後日も、その後何日も。何年も。何百年も。老いることなく、一人で。


神なんて信じていなかった。

彼女から教わった通りに仕事をして、村の老人から神父様と慕われて、いい気になっていたのかも知れない。


ルシオは、面白い男だった。

キザったらしくて間の抜けた、吸血鬼らしくない奴。


神よ。

貴方の言う、試練とは何だ。

慈悲とは何だ。

試練の先には救いがあるんじゃないのか。そう思うことすら甘えなのか。

それとも、あれが救いだと言うのか。


考えがまとまらない。俺は何を書いていたんだった?

ああ、これだけは書いておかなければ。


婚約者探しを諦める、と笑ったルシオを、撃った。

もう何年も使っていなかった銃、いや、ルシオと会った時に、一度撃ったことはあった。

ぱん、と乾いた音。人を殺せる道具のくせに、こんなに間の抜けた音がするものだったか。

クラッカーの音に似ていた。ハッピーバースデー!どうだ、驚いたか?ホームビデオの中から聞こえてくるみたいな。

ルシオは驚いた顔をしていた。クラッカーの紙テープが頭に乗っている幻覚すら見えそうだった。

だが現実は違う。ルシオの胸に小さな穴が開いて、服にどす黒いシミがゆっくり広がっていった。

驚いた顔のままのルシオが胸を見下ろす。広がったシミは雫になる代わりに赤黒い花びらになって床に落ちる。

ぱさぱさと、軽い音を立てて床に落ちていく花びらが増えて、その真ん中にゆっくりとルシオが膝をついた。


いつかルシオを撃った時は、まったく何ともない顔をしていた。

信仰心がないと殺せないんだと、笑っていた。


俺も、ルシオも呆然としていた。

膝をついてばらばらと散る花びらの中に倒れ込むルシオが、俺を見上げて笑った。


「ああ、そうか……」


諦めだとか、なんだろう、負の感情とは違う。合点がいった、という感じか。


笑って、それだけ呟く声を最後に、吸血鬼の全身が溶けるように花びらに変わって、その花びらの山が灰になって、それきり。


これが神の慈悲なら、俺は、






____________________________



吸血鬼の手記より。



73043日目。5月10日。


リーゼロッテだと信じた女性から別れを告げられ、その悲しみから立ち上がった時、私は気付いた。


これまで私は、彼女を探すことのみに躍起になってきた。

どれだけ探しても見つからない。それはとても悲しい、辛いことだ。

だが、彼女が見つからないかわりに、私は得難いものを得た。


友だ。


リーゼロッテのことは忘れられない。この後何年、何十年、何百年経とうとも、決して忘れることはないだろう。

道端で揺れる花に、風に流れる雲に、雪の日の月に、私は彼女を思い出すだろう。

それを私は彼に話す。彼は茶化しながらも真摯に耳を傾けてくれるだろう。

愛想がいいとは言えない不器用な相槌と、ちゃんと聞いているよと言うような、まっすぐな目で。


それを思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、今この時を楽しんでもいいんじゃないかと思えてきたんだ。

リーゼロッテを忘れた訳じゃない。いつか再び出会うことができたら、このことも、リーゼロッテへ話すことだろう。

君が見つからない間、友達がいたから、頑張ってこれたんだよ、と。



そういえば、リヤンのことは知らないことばかりだ。

神父になる前は何をしていたのか。どんな人生だったのか。

知りたい。何せ、リヤンは口下手なのだ。いつも私ばかりが喋っていた。


彼が許すなら、彼の故郷を訪ねてみるのもいい。年寄りばかりが暮らすこの村を離れるのはリヤンは難しいかも知れないが、たとえ私一人であったとしても、リーゼロッテとは違い、探さずとも、ここに帰ればリヤンがいる。

それに、私は未だ海を渡ったことはないのだ。私も彼も知らない地を目指してみるのもいい。私には時間の縛りは無いのだから。


リーゼロッテ、すまない。

リヤン、ありがとう。


彼女への謝罪と、これから先の日々への期待で、胸がいっぱいだ。

幸い、リヤンは神父だ。まずは、彼の教会を訪ねてリーゼロッテへ懺悔しようと思う。



ああ、新たな門出に相応しい!美しい月!






__________________________

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る