第45話 ホテルスタッフとパンドラの箱

 舞台袖へとはけた九条弁護士たちを追って私も舞台裏へと急いだ。


 舞台裏では、飛び入り演奏には参加せずそのまま待機していたピアニストを含めた演奏家の4人と九条弁護士、礼桜さんが楽しく談笑している。


 皆さんの側に着くと、ほどよく距離を取り、少し後方で佇むことにした。輪になって談笑している6人の会話が自然と聞こえてくる。私の正面に礼桜さんと九条弁護士が立っているので、二人の表情がよく見えた。



「一緒に演奏してくださって本当にありがとうございました」


 満面の笑みで礼桜さんはお礼を伝えると、ペコっとお辞儀をした。


「いえいえ、私たちもとても楽しかったです。こちらこそ楽しい一時ひとときをありがとう」

「私も楽しかったです!」


 演奏家は皆口々に「上手だったよ」と礼桜さんに賛辞を送っている。

 賛辞があらかた終わると、飛び入り参加しなかったピアニストが礼桜さんに質問をし始めた。


「ピアノはもう長いの?」

「幼稚園の年少さんから習っています」

「そんなに小さな頃から?」

「はい。だけど、小学生の頃は父の転勤で転校ばかりだったので、ピアノの先生がそのたびに変わってて……。今の先生はプロなのでとても厳しくて、私が練習せずにレッスンを受けるから、いつも怒られます」

「ははは、ピアノは日々の練習が大切だからね」

「それはどの楽器においてもだけどね」


 チェロ奏者も話に入っていく。


「どうして『愛の挨拶』を選んだの?」

「実は、私が譜面を見ずに弾けるのが『愛の挨拶』と『悲愴』だけなんです」

「え? それってベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番『悲愴』のこと?」

「はい。さすがにお祝いの席で『悲愴』はないなと思い『愛の挨拶』にしました」


 一同爆笑し始めた。


「たしかに『悲愴』はないな!」

「いや、でも『悲愴』でもよかったんちゃう?」

「どうせあのお嬢様は分からへんやろ」


 何気に毒舌だが、私もお祝いの席で弾く『悲愴』を聞いてみたかった。


「暗譜できるくらいこの2曲が好きなんだね。確かにいい曲だよね」

「あ、いえ、そういうわけじゃなくて……。私が家で全くピアノの練習をしないので、先生がそれを見越して、発表会で演奏する曲は大体1年前から練習を始めるんです。『愛の挨拶』も1年以上怒られながら弾いたので、もう指が覚えているというか……」

「……それでも家で練習しないの?」

「はい。先生からは毎日1回でいいから必ずピアノを弾きなさいっていつも言われるんですけど、週1回のレッスン前に1週間分の練習を1時間程するくらいで。付け焼き刃の練習しかしないので、家で練習しないのならピアノをやめなさい!って定期的にブチ切れられます」

「なのに、やめないんだ」

「はい。ピアノを弾くのは好きなので。練習は嫌いではないんですけど、なぜかいつの間にか1日が終わってて、ピアノに触る時間がないんですよね~」


 のほほ~んと、しかも堂々と練習嫌いを公言している。これには、演奏家の皆さんも九条弁護士も苦笑で返していた。

 ピアノの先生が礼桜さんを怒っている姿が容易に想像できる。

 そりゃあ先生もブチ切れるだろう。時間はつくろうと思えば、一定時間は捻出できるのだから。



「もしかして『悲愴』が弾けるのも同じ理由?」

「はい。『悲愴』は数か月前に合格をもらいました。これも1年ぐらい弾いたんじゃないかな。どちらかというと『悲愴』のほうが最近までやっていたので上手く弾けるんですが。なので、途中から皆さんが入ってきてくださってホッとしました。本当にありがとうございました!」

「でも、すごいよ! 『愛の挨拶』を弾き終わって1年以上経ってるのに、よく忘れずに暗譜できてたね」

「いえ、半年くらい弾いてなかったので途中うろ覚えで……、最初と最後は問題なく弾けるので、そのうろ覚えの部分はどうしようかなって思ってたんです」

「「「「「……………………………」」」」」


 九条弁護士は笑いを堪えているが、私たちは絶句してしまった。誰一人言葉を発しない。

 あっけらんかんと話しているが、もし彼らが飛び入り参加しなければどうしていたのだろう。


 堂々と弾いていた裏で、そんな事情があったとは!


 普通だったら、あれだけ多くの人前で弾くのだ。覚えていない箇所があると不安で仕方がないはずだ。それなのに、そんなことを微塵も悟らせずに平然と弾く胆力というか、豪胆さに、礼桜さんのすごさを見た気がした。


「え? じゃあ、もし私たちが入らなかったらどうしてたの?」

「そのときは、テキトーに『悲愴』の一部分でも弾いて、また最後に戻ろうかと思っていました」

「え? 『愛の挨拶』の途中に『悲愴』を入れ込むつもりだったの?」

「はい。とても収まりが悪く気持ち悪い曲になると思いますけど、人生には深い悲しみもつきものなので、いけるかなって」


 頭の後ろに片手を置いて「あはは」と笑って誤魔化している。


 私たちは再び絶句した。


 確かに人生には悲しみがつきものだ。悲しみを知らない人などいない。


 だけど、それを何でもないことのように話す礼桜さんが可笑しくて……、気づけば誰もが笑いを堪えていた。


「ふふふ……、それ、は、聞きたかった、かも」


 これが礼桜さんの普通なのか、九条弁護士だけが可笑しそうに声を出さずに笑っている。


 4人の演奏家も私も私たちの近くにいて話を聞いているスタッフも、もはやその場にいる者は皆笑いを堪えることさえ難しくなってきた。

 互いに目を合わせると、一斉に吹き出し、ひと笑いした。


 礼桜さんと九条弁護士は、私たちが笑っているのを楽しそうに見ている。


「あの、でも、理人ぉ…さんが大丈夫だから思いっきりやっておいでって教えてくれたので」


 もしかしたら九条弁護士は私たちのジェスチャーでのやり取りを見ていたのかもしれない。

 九条弁護士を見ると、バレたかと言わんばかりの悪戯っ子のような顔をした。



 ……九条弁護士のレア表情よりも気になることが。

 今の礼桜さんの「理人ぉさん」と言う発音が、なぜか引っかかる。


 理人ぉさん、りひとぉさん、りひとおさん、りひとうさん、りひ父さん!?

 父さん!?!?

 九条弁護士はお父さんなのか!?

 いやいや、そんなわけない!

 想像が過ぎるぞ、俺!


 だけど、妄想はどんどん膨らみ、そう思って全てを思い返すと、礼桜さんに対するアレコレが娘を溺愛する父親のそれに見えなくもない。むしろそうとしか見えない!

 九条弁護士と礼桜さんはとても仲がいいのだが、何というか、男女の情欲みたいなものが見えないのだ。イチャイチャしているが爽やかというか、そこにいやらしさがないのだ。頬などにキスを落とす姿も、デザートを食べさせ合っていた姿も、さっき抱き上げた姿も、二人のやり取りはなぜか温かい気持ちで見ることができた。


 そんなことを考えていたからだろう。

 ハッと何かが下りてきたような感覚がして、とんでもない事実に気づいてしまった!


 九条弁護士は礼桜さんのことを「婚約者」とは一言も言っていない!!

 「近い将来、家族になれたら」、「次に公の場に出てくるときは「九条」になっています」と言っていたので、誰もが礼桜さんは九条弁護士の婚約者だと思い込んでしまったのではないか?

 婚約者じゃないとすると、礼桜さんは九条弁護士の何なのだろう。もしかして、近い将来、九条弁護士の養子になるとか?

 ……いやいや、それはない。

 だが、二人を見ていると、婚約者というより、九条弁護士の溺愛は親子愛や兄妹愛に近い気がする。

 ……いやいやいや、妄想が過ぎるだろ、俺!



 九条弁護士をそうっと窺うと、バチっと目が合った。どうやら九条弁護士は私を見ていたようだ。

 変なことを考えていたのでドキッとしたが、九条弁護士は意味深に笑うだけで、また礼桜さんへと視線を戻した後、演奏家の皆さんとの和気あいあいとした雑談に戻った。



 4人の演奏家は礼桜さんの年齢が気になるようで時々探るような眼差しを向けているが、今のご時世、相手に年齢を聞くことはあまりないため、誰も聞くことなく、一時ひとときの会話を楽しんでいる。


 絶対に開けてはならないパンドラの箱は、開けられることなく終わるだろう。



 私も一人妄想をやめ、とても温かい穏やかな時間が流れるこの一時を見守り享受させてもらうことにした。











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