第44話 ◆ホテルスタッフの感嘆

「あの端にあるピアノを真ん中に持ってきてくださる?」


 出たよ、璃麗衣りりいお嬢様のご要望。


 婚約発表が上手くいったら生演奏を入れる予定だったため、壇上右手にはグランドピアノが既に設置されてある。グランドピアノを置いてはいるが、断じて特定の人物を嘲るために使用するものではない。

 私がスタッフへの指示を渋っていると、璃麗衣お嬢様が壇上周辺にいるスタッフへ高圧的に命令し始めた。こうなったら手が付けられない。従うしかないのだが、どうしても嘲笑の的となる礼桜様のことが気がかりだった。

 そっと礼桜様を窺うと、私の意図を理解したのだろう。ぎこちなくだが、私に「大丈夫ですよ」と微笑んでくださった。

 璃麗衣お嬢様に命令されたスタッフも私の指示ではないためその場にとどまっている。


 一方の璃麗衣お嬢様は、苛立ちを隠そうともせず、早く動かすようスタッフに当たり始めた。この苛立ちが礼桜様に向かうのだけは阻止しなければ! 怒った璃麗衣お嬢様は何をしでかすか分からない。

 礼桜様に申し訳なく思いながらも、私はピアノを動かすようスタッフに指示を出した。


 ふと壇上の舞台袖のほうから視線を感じた。

 そちらのほうを見ると、手配はしたもののいまだ出番がない演奏家の方々が悲憤の表情で私を見ていた。今から行われる公開処刑のような嫌がらせに対し、憤っているのが見て取れる。

 バイオリン奏者がジェスチャーで私に何か伝えようとしている。璃麗衣お嬢様に気付かれないようによく見える位置に移動し、ジェスチャーを確認したあと首肯した。




 グランドピアノが壇上中央に向かって少しずつだが確実に近づいてきている。


 九条弁護士は礼桜様の腰に手を回し、礼桜様が少しでも安心するようにしっかりと抱きとめ寄り添っている。二人は既に壇上に上がり、グランドピアノの動きを見守っていた。九条弁護士の横顔は見えるのだが、礼桜様の表情は九条弁護士に隠れて見えない。礼桜様は大丈夫だろうか。


 そして、寄り添い立つ二人の後方から悔しそうに睨みつけている璃麗衣お嬢様。

 さりげなく会場内を見渡しながら招待客の様子を確認した。心配そうに見ている方もいれば、既にニヤニヤしている方、嘲笑するのを今から楽しみにされている方、この余興を楽しんでいる方など、様々な表情が見て取れた。




◇◇




「礼桜様、準備が整いました」

「ありがとうございます」

「あの、大丈夫ですか。もしお嫌でしたら……」

「ありがとうございます。私は大丈夫です」


 本当は不安で仕方がないだろうに、私の目を見てはきはきと優しく答えてくださるので、聞いたこちらが余計辛い。


「私どもにお手伝いできることはありませんか」

「ありがとうございます。でも大丈夫です。

 あっ! あの……」

「はい、何でも仰ってください」

「あの、その礼桜様っていうの、言われ慣れていないので……」

「申し訳ございません。でしたら、礼桜さん、とお呼びさせていただいてもよろしいでしょうか」

「はい。ありがとうございます」


 ホッとしたような笑顔でお礼を言われた。

 嗚呼、礼桜さんの美しさは、外見もさることながら、内面から溢れ出る輝きによるものなんですね……。



 長年ホテル業界で働いていると、様々なお客様と出会う。

 当ホテルは梅田周辺にあり高級ホテルに位置付けられているため、お客様の中にはもちろん有名な方も数多く含まれている。

 そして、これは私の勝手な所感だが、その道の〝一流〟と言われている人たちは共通の雰囲気やオーラをお持ちの方が多いように感じる。

 何と言えば的確に伝わるだろう。

 〝一流〟と呼ばれる方々は、常に謙虚さをまとい、静かに佇んでいらっしゃる方が多い。だからといって暗いわけでは決してなく、ユーモアがあり機知に富んでいて、場を和ませる。フラットで芯が一本通っていて自然体。所作が美しく、エチケットも熟知され、生き生きと楽しく仕事に向き合っていらっしゃる。そして、なんといっても、内から滲み出る圧倒的なオーラがある。

 オラオラ感を出したり、自己顕示欲が強かったり、尊大で高飛車など、もちろん論外、二流以下がすることだ。

 ……やはり言語化するのは難しいな。

 芸能界で言えば、これまで数多くの芸能人の方々を拝見してきたが、その域まで達している方は片手ほどしかいらっしゃらない。

 この会場にも多くの社長がいらっしゃるが、一流のオーラを持つ方はほんの数人だ。

 まだ粗削りだが、九条弁護士は一流と呼ばれる方々と同じオーラをお持ちだ。そして、九条弁護士の隣にいる〝磨けばどこまでも光る原石〟のようなこの女性も……。



 今気がついたが、礼桜さんはものすごくお若いのではないだろうか。九条弁護士は27歳と聞いたことがあるが、礼桜さんはもっと、もしかしたら大学生、さすがに高校生は九条弁護士の年からいってないか? いや歳の差が10歳程ならあり得るかもしれない。まだ公に出すつもりはなかったと仰っていたし……。

 いやいや、これ以上勘繰るのはやめよう。お互いが想い合って婚約されているのなら問題はない。誰が見ても、お二人の心は互いへの思いやりと優しさで溢れている。

 だが、私の娘とさほど年が変わらないのではと思うと、どうしても親の目線で見てしまう。

 なので、どうしたら嘲笑の的になる礼桜さんが傷つかなくて済むか、私は必死に考え続けた。




◇◇




 礼桜さんがピアノの椅子の横に立ち、正面を向いたときだった。


 司会が礼桜さんに向かって歩いて行く。

 どうやら璃麗衣お嬢様の命令で礼桜さんに一言喋らせるようだ。

 ポーカーフェイスを貫いている九条弁護士の双眸に静かな怒りが孕んだ。

 司会もそのことに気づいたのだろう。少し震える手でマイクを礼桜さんに渡している。


 礼桜さんは司会が委縮しないようにこやかにマイクを受け取ると、九条弁護士に目配せして一つ頷き、璃麗衣お嬢様を見据えて凛と立った。


「本日はおめでとうございます。

この場でピアノを演奏するとは思っていませんでしたので、練習もできておらず、お聞き苦しいかとは思いますが、心を込めて弾かせていただきます」


 礼桜さんは再度正面を向くと、会場内を見渡し一礼した。その礼は、思わず感嘆の声が出るほど、とても美しい所作だった。



 凛とした立ち居振る舞いに、柔らかい口調での端的な挨拶、緊張しているはずなのにそれを見せない胆力、本当に凄いな。

 この子はどんな大人へと成長していくのだろう。九条弁護士の側で開花していく礼桜さんの将来が楽しみでならない。願わくば、定期的にお二人の姿を見たい。ご利用の際はぜひとも当ホテルへ!!



 九条弁護士がピアノの椅子を引き、礼桜さんを座らせた後、何か耳打ちした。

 何を話しているのか聞き取ることはできないが、二人でふふふと笑い合っている。お二人は本当に仲が良く、そのふれあいも決して見苦しいものではないため、いつの間にか目で追ってまで見てしまう。

 カップルがイチャイチャしているのを見るたびに嫌悪感から目を背けていたが、なぜかお二人のやり取りはとても爽やかに感じるから不思議だ。



 九条弁護士がピアノから離れた。

 それでも礼桜さんがよく見える位置にいる。





 ついにピアノの演奏が始まった。



 最初の4小節を聞いただけで鳥肌が立った。



 会場内からも息をのむ音が聞こえる。

 きっとこの会場の誰もが、璃麗衣お嬢様の嫌がらせで礼桜さんを公開処刑にしたと思ったはずだ。


 九条弁護士を見ると、泰然と微笑んでいる。だけど、礼桜さんを見つめる眼差しはどこまでも優しく、慈愛に溢れていた。



 スポットライトの光が柔らかい光へと変わった。

音響などを管理している部屋を見上げると、スタッフが調整しているのが見えた。


 どうやら上も片付いたようだ。





 礼桜さんが弾いているこの曲は、『愛の挨拶』。



 流れるような美しい旋律。誰もが一度は耳にしたことがあるだろう愛の曲。

 たしか、彼が最愛の妻にプロポーズする際に贈った曲だったと思うのだが……。


 イギリスの作曲家、エドワード・エルガーによって作られた『愛の挨拶』の非常に美しい旋律が、会場内を包み込んでいく。


 礼桜さんの人柄が表れているのか、とても優しい音色で『愛の挨拶』が奏でられていく。



 柔らかなスポットライトの中、黒光りしているグランドピアノと、澄んだ水色のワンピースを纏う礼桜さんの横顔、そして滑らかに動く指、奏でられる美しい旋律。


 ただただ誰もが聴き入っている。




 と、そのとき、演奏家の人たちが飛び入りで参加してきた。

 バイオリンやフルート、チェロの音色がピアノの旋律に重なっていく。


 礼桜さんは最初驚いたようだが、バイオリン奏者が演奏しながら耳打ちしたことで笑顔に変わった。嬉しそうに頷いている。


 次の瞬間、バイオリンのソロパートになり、その後、フルートのソロパート、チェロのソロパートと続く。


 楽器が違うと同じ旋律でも感じ方が異なる。それぞれの楽器で奏でられる『愛の挨拶』は、さすがプロの演奏家と言わんばかりのレベルで、とても素晴らしかった。やはりプロの演奏家だけあり、パフォーマンスが上手い。


 再びピアノのソロに戻り、最後はカルテット(四重奏)で終わった。



 3分ぐらいの演奏だっただろうか。

 会場内は演奏前と違い大きな拍手に包まれている。スタッフも全員惜しみない拍手を送っていた。私も例に漏れず、あえて大きな音を出して拍手を送った。


 璃麗衣お嬢様やそのお友達の皆様は、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

 ざまぁみろと心の中だけで思うのは自由なはずだ。




 いつの間に移動したのだろうか。

 九条弁護士は礼桜さんを立ち上がらせると演奏家の方たちへ託し、ご自身は司会のところへ向かって歩き出した。


 壇上で一礼する演奏家3名と礼桜さん。


 会場からは再び大きな拍手が沸き上がった。




「皆様、お祝いの演奏はいかがでしたでしょうか」


 礼桜さん達のところへ戻り、マイクを持ち話し始める九条弁護士。


「皆様ご承知のとおり、烏丸璃麗衣さんからのご指名は寝耳に水で、ぶっつけ本番の演奏となりましたが、素晴らしい演奏だったと思います。

 手前味噌で恐縮ですが、私の彼女は世界で一番可愛くて、そのうえ最高なんです。彼女の代わりなんて存在しません。なので、これ以上彼女を貶めるような下品な行いはどうぞお控えください。

 演奏家の皆さんも飛び入りで参加してくださってありがとうございます。より素晴らしい、深みのある演奏となりました。

 皆様、ここにいる4人に改めて盛大な拍手をお願いします」


 大きな拍手が沸き起こる中、九条弁護士はマイクをグランドピアノの上にそっと置くと、礼桜さんを縦抱きで抱き上げた。

 いきなり抱き上げられたので「きゃあっ」と驚きの声が礼桜さんから出たが、すんなりと肩に手を置いて二人で笑い合っている。


 九条弁護士に気がある女性の皆様は苦い顔をしているが、私からすると何とも微笑ましい、心が温かくなるような光景だった。


 そして、抱き上げたまま演奏家の方たちと舞台袖へとはけていった。



 



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