第29話 パーティー当日—スパルタレッスン開幕—

—7月30日(土)午後1時—


 どこぞの社長ご息女の誕生日パーティーは、本日17時、午後5時から、梅田にある有名高級ホテルで始まるそうだ。


 当初遅れていくと言っていた理人お兄ちゃんだったが、ご息女(お嬢サマ)が既に周りの人たちに婚約を匂わせており、パーティー開始早々よからぬことを企んでいるという情報が入ったため、初めから参加して牽制し、18時頃に帰るというスケジュールに変更した。


 1時間頑張れば……と思っていたが、これは少々どころか、かなり延びそうな予感しかしない。

 時間が延びるのはまだいい。一番厄介なのは、お嬢サマの悪意が一気に私へと向くことだ。


 どうかお嬢サマからの攻撃が悪意ある口撃だけで終わりますように。


 さすがに物理攻撃になると面倒くさいので、すこぶる避けたい。

 口撃だと受け流せるので、ノーダメージで終わる。何とぞ何とぞ穏便に終わりますように。




◇◇




 パーティーが始まる前に付け焼き刃で叩き込むと蹴兄ちゃんに言われ、指定されたのは理人お兄ちゃんのマンション。



 指定された階でエレベーターを降りた九条さんと私と晴冬さんと琴ちゃん。

 私と琴ちゃんは、これからしばらく戸惑いを隠せない現実が次から次へと襲ってくることになるなんて、知る由もない。



 まず、このフロアには玄関が一つしかない。


 マンションって集合住宅だよね?

 何でこの階には玄関が一つしかないんだ?


 あらかた想像はつくが、大阪市内の一等地、考えただけで恐ろしすぎる。

 戸惑う琴ちゃんと目が合ったが、とりあえず私たちはスルーすることにした。



 その後、玄関で靴を脱いだ私たちはリビングダイニングへと案内された。


 開いた口が塞がらなかった。


 リビングダイニングだけで4LDKのマンション一軒分が余裕で入りそうなほどの広さがある。そして、上へと続く緩やかな螺旋階段が目に飛び込んできた。


 え? 2階??


 理人お兄ちゃんの家は、戸建てではなく、間違いなくマンションだった。


 大阪市の中心部を南北に走る上町台地うえまちだいちの上にそびえ立つ高級マンション。

 高台で地盤が強固な上町台地は、昔から洪水や浸水、土砂崩れなどの自然災害が少ない場所であり、地震に強いエリアである。


 私たちは、マンションのフロントにいるコンシェルジュに軽く挨拶をしてエレベーターに乗ってここまで来たんだから間違いない。ここはマンションの一室だ。



 なのに、なぜ2階があるのだろう?



 マンションの間取りは平面だと思い込んでいた私は、2階建仕様に何とも言えない奇妙な違和感を感じ、混乱してしまった。


 結論から言えば、理人お兄ちゃんの家は、最上階フロアとその階下フロア全てだった。


 もう一度言おう。

 ここは大阪市内でも地価の高い場所だ。



「……琴ちゃん、私が知ってる分譲マンションって、もっと狭くて、平面空間なんだけど」

「奇遇やね。私もそれしか知らんわ」

「……思い込みってよくないよね」

「ほんま固定観念はアカンな」


 家さえも豪快というか、ぶっ飛んでるというか、凄いの一言に尽きる。


 そんな理人お兄ちゃんの無駄に広い家の1階(最上階の真下の階)にあるダイニングには10人座れるテーブルと椅子が置いてあり、リビングには何インチかよう分からんくらい大きなテレビが壁にかけられている。

 余計な物はなく、男性が好む機能的ですっきりとした空間が広がっていた。

 これまた無駄に広いキッチンには大きな冷蔵庫があり、お酒がいっぱい入ってるセラーも置いてある。

 トイレ、洗面台、浴室のほかに4部屋あり、扉が閉まってるのでどんな部屋なのか分からないが、みんなの話を総合すると、どうやら1階部分は法律事務所の分室という形で使っているみたいだった。


 分室といってもクライアントが来ることは一切なく、この家には理人お兄ちゃん、蹴兄ちゃん、樹兄ちゃんの他、あきらさん、善さん、九条さん、そして晴冬さんしか入ったことがないらしい。機密性の高い案件を話し合ったり、計画を立てたり、法律事務所で話すのが憚られる内容はこちらで処理していると教えてもらった。

 そして、樹兄ちゃんが引きこもって仕事をしている大阪市内某所は、まさしくここだった。


 確かにここなら引きこもるわな。


 1階にある4部屋のうち3部屋は仕事部屋で使用しており、残りの1部屋はゲストルーム——晴冬さんがご厄介になってたとき使用していた部屋だそうだ。


 螺旋階段を上がった2階は完全プライベートルームで、理人お兄ちゃんの広い寝室のほかゲストルームが4部屋、あと和室が1部屋、そして2階にも浴室やトイレなどがある。全ての部屋には広いウォークインクローゼットが備え付けられており、4部屋中2部屋はよく泊まり込む蹴兄ちゃんと樹兄ちゃんの私室となっているらしい。


 あとで理人お兄ちゃんの許可を取って探検しよう。




◇◇




「さあ礼桜ちゃん、レッスン始めるよ! とりあえずパーティーに履いていく靴を履いて。練習あるのみやで!」


 新品だから問題ないと言われ、パーティーで履く予定のヒールがある靴を履くと、付け焼き刃のレッスンが始まった。

 スカートで来てねと言われたのは、このためだったのか。



 「エスコート役は俺がする」と言い張っていた九条さんの姿がどこにも見当たらない。

 どこに行ったのだろう。さっきまで隣にいたのに……。


 キョロキョロして九条さんを探していたら、樹兄ちゃんが私の側まで来て、

「湊じゃなくてごめんね。エスコート役、俺でもいいかな?」

と言いながら手を差し出してくれた。


「あの、九条さんは?」

「湊? 部屋にこもって最終調整をしてる」


 樹兄ちゃんがネジを締めるような仕草をしながら教えてくれた。それだけで九条さんが何をしているのか理解したので、頷くだけにとどめた。


 「礼桜ちゃん、樹からエスコートしてもらって。時間がもったいない」と蹴兄ちゃんの声が飛ぶ。


 樹兄ちゃんを見ると、黒髪のさらさらマッシュルームカットで隠れている黒縁メガネのテンプル(つる)を一度上にあげ、先生よろしく可笑しそうに微笑んでいる。

 理知的な樹兄ちゃんのお茶目な部分を垣間見たからか、自然と笑みがこぼれる。


 「お願いします」と言いながら、私は樹兄ちゃんの掌の上に手を置いた。



 私のマナーレッスンが始まった。



◇◇



 まずは歩き方。

 人生初ヒールの私は、樹兄ちゃんにエスコートされ、玄関そとの長い通路を歩く。

 玄関を出てエレベーターまでの長い共用部通路は、吹きさらしではなく屋内にあり、理人お兄ちゃん達以外の他人は使用しないため全く汚れておらず、家の中と同じくらい綺麗だ。


 蹴兄ちゃんからは、足の運び方が汚いだの、動きが固いだの、ヒールに気を取られて下ばかり向くなだの、容赦ないダメ出しが飛んでくる。そのたびに樹兄ちゃんと洸さんが優しく教えてくれ、修正しながら私たちはひたすら歩いた。



「はい、お疲れ〜。45点」


 甘いマスクで微笑みながら容赦ないダメ出しをしてくる蹴兄ちゃんは、さすが腹黒魔王の右腕だ。



「礼桜ちゃん、ヒールを履き慣れてなくて怖いのは分かるけど、ちゃんと膝の裏を伸ばして。立ち方は綺麗だから、あとは歩き方だけだよ。はい、もう一回」


 はいもう一回?

 ひたすら歩くのをもう一回……。


 蹴兄ちゃんを見ると、有無を言わさない笑顔で私を見ている。


 靴は、ヒールを履き慣れていない私でも履きやすいようにアンクルストラップが付いている。

 アンクルストラップが付いていることで、足首と靴がストラップで固定され、高めのヒールでも安定感があり歩きやすい。また中敷もクッション性があり、これだけ歩いても足に痛みは感じなかった。その上、アンクルストラップがポイントとなり足首を華奢でほっそりとした印象に見せ、とても上品に見える。


 ……きっとこの靴もお高いのだろう。

 値段を聞くのは恐ろしすぎるから、お礼だけしっかり伝えよう。



 確かにアンクルストラップの助けによって何とか歩けているが、ヒール初心者の私に7センチのピンヒールを履かせるか? もっと安定感のある太いヒールの靴があったのでは?


 それを蹴兄ちゃんにやんわり伝えると、「野暮ったい」の一言で終わった。


 ピンヒールで綺麗に歩くためには努力と技術が要ることを私は知った。



 理人お兄ちゃんに恥をかかせるわけにいかないから、頑張りますよーーーだ!!



 15分も歩けばダメ出しは減ってくる。

 ピンヒールを履いたときの足の運び、歩き方もだんだん分かってきた。


 体幹がブレると体もふらつくから、お尻を締めお腹に力を入れて仙骨から足を出す感じで歩くよう心がけた。


 体幹を意識するだけでフラフラせず真っ直ぐ綺麗に歩ける。



 自称引きこもりの樹兄ちゃんのエスコートはとてもスマートで、洗練された大人の男の人だと感じた。そんな樹兄ちゃんにエスコートされ、蹴兄ちゃんから合格をもらうまでひたすら歩き続けた。




◇◇




「じゃあ次は応用編。階段を歩くよー」


 家の中に戻り、リビングダイニングから2階に伸びる螺旋階段の前に移動した。

 もちろん部屋に入る際、靴の裏は除菌シートで拭かせていただいた。


 歩き方のコツを掴んでいたため、階段の上り下りは2往復で終わった。



「うん、階段は問題ないね。付け焼き刃にしてはええんちゃう。ね、洸?」

「せやな。ここまでできれば上出来なんじゃない。礼桜ちゃん、がんばったね」

「ありがとうございます!」


 蹴兄ちゃんの横で最初から見守っていた洸さんが優しく微笑んでくれた。


 蹴兄ちゃんの容赦ないダメ出しが飛ぶたび、洸さんと樹兄ちゃんがフォローしながら優しく教えてくれ、できたら褒めてくれた。


 これぞ〝飴と鞭〟。


 〝飴と鞭〟はドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクの政策を評価した言葉が定着したものだと学校で習った。


 私は身をもって体験することで、この言葉の意味を知った。




◇◇




「はい、じゃあ次は立食マナーを叩き込みまーす」


 ダイニングテーブルには、善さんお手製の料理がたくさん並んでいる。


 歩いてるときからいい匂いが漂っていたので、この匂いを励みに頑張ったといっても過言ではない。

 ようやく食べれる。



 立食マナーは晴冬さんと琴ちゃんも加わって3人で習った。

 実際にやりながら細かいところの説明を受ける。樹兄ちゃんと洸さん、そして善さんも立食マナーで食べているので、大人4人の真似をしながら食べようとするが……。


 ダメだ、難しすぎる。

 既に心が折れそうだ。


 隣を見ると、琴ちゃんは既にできていたが、晴冬さんは苦戦していた。



 よし! もう一度頑張ろう!

 晴冬さんよりも先にモノにしてみせる!!


 私は自分を奮い立たせた。


 要は、左手で皿とグラス、カトラリーを持ち、利き手を空けておけばいいんだから!!

 

 善さんの料理が食べたいので、練習あるのみだ!


 まずは、お皿の外側、縁あたりにグラスを乗せ、お皿とグラスの脚部分を親指と人差し指で挟む。

 よし! これはクリア。


 次に、残りの指でお皿の底を支え、お箸やフォークはお皿の下で先を自分に向けて中指と薬指で挟む。

 ……ダメだ。ぎこちなくなる。指が硬いのか、うまく挟めない。


 とりあえず次に行こう。

 料理は右から左へ順に、少しずつ取って盛りつける。

 これは余裕だな。


 やっと食べられる。


 左手に力を入れ、グラスが落ちないように持ちながら、料理を口に運ぶ。


 一つ一つの行動を疎かにできないので、緊張して味がしない……。


 しかも、夏だから飲み物は冷えている。当然グラスには水滴がつく。

「グラスの水滴は紙ナプキンで対策するんやで」って……片手でそんなにいろいろできるか!!!


 無理だ! スマートにできない。


 これはあれだな。諦めるしかない。



「蹴兄ちゃん、私パーティーでは何も食べない」

「え……」

「グラスだけなら何とかなるので、飲み物だけにします。人間諦めも肝心ですから」

「……あー、それがええかもね」


 みんな苦笑しながら頷いてる。


「その代わり、今、善さんの料理をお腹いっぱい食べてもいいですか」

「その前に実践編といこうか」

「……まだあるんですか?」

「うん。今からが本番だから。体に叩き込むよ」




◇◇




 最後に教えられたのは、悪意ある攻撃の避け方。


女性からの攻撃は、無駄のない動きで避けること、手は出さないこと、大事おおごとにしないこと。これが鉄則らしい。

 ただし、相手が男性の場合は、思いっきりやっていいと言われた。



 自分に近づいてくる参加者の目線、足捌き、手の動き、行動や言動、それら全てを微笑みながら気付かれないように観察する。


 樹兄ちゃんと洸さん、善さんからコツを習い、いざ実践。


面白そうだから参加すると言った琴ちゃんは、ノリノリで「目障りなのよぅ。オーホホホホホホ」と言いながら、手に持ってるシャンパングラスの中身をかけるふりをしてくる。

 液体が飛ぶ軌道を予測して反対側にける。


「ごめんあそばせ〜オーホホホホホホ」と言いながら樹兄ちゃんが足をかけようとしている。


「早く別れなさいよ、オーホホホホホホ」と言いながらゴリラ女、もとい善さんが私の肩を押そうとしてくる。



 攻撃役のみんなが繰り出してくる様々な嫌がらせを躱しては蹴兄ちゃんにダメ出しされる。

 動きが美しくないと。

 ピンヒールでの立ち回りは、歩いているときの比ではないくらい難しい。










  

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