第21話 ◆理人のお願い
―7月23日(土)—
夏休みは土曜授業がないため、今日は朝からバイトに入ることにした。
家まで迎えに来ると言い張る九条さんをなだめるのは大変だったが、父が送るということで納得してもらった。九条さんは私に甘いと思う。
父に店の近くまで送ってもらい車を降りた。
手を振り父が発車するのを見送る。
そして、空を見上げた。
最近気づいたが、私はよく空を見上げて雲の状態や流れなどを確認している。
日課というにはレベルが低く、どちらかというと癖のようなものかもしれない。
空には雲一つない青空が広がっている。
10時半前の太陽は既に上っており、今日も今日とてギラギラと照り付けてくる。
今日も暑くなりそうだ。
カランコロンカラン
「おはようございます」
涼やかなドアベルが鳴り終わった後、事務所まで聞こえるように挨拶をした。
店内は既にエアコンが効いており、快適な空間が広がっている。
私は扉を開けて店内に入るこの瞬間が大好きだ。明るく静かな店内が私を包み込んでくれる。息を吸い込むと、革製品特有の匂いが鼻腔をくすぐる。
いつの頃からか、開店前からバイトに入るときは必ず「おはよう」と心の中で革製品たちにも声をかけるようになった。霊感なんて1ミリもないが、なんとなく自然と挨拶してしまう。挨拶をすると、挨拶し返してくれているような空気を感じるのだ。気のせいだと思うけど。
「礼桜ちゃん、おはよう」
レジ横の在庫を置いている小部屋から九条さんが出てきた。
事務所にいると思ったので少し驚いた。もしかして注文の商品を籠に入れていたのだろうか。
「湊君、おはようございます」
今日は晴冬さんはお休みだ。
私はそのことを知っていたので、「湊君」と名前で呼ぶことにした。
「商品の籠入れですか?」
「うん。もう終わったけどね」
「そうなんですね」
カウンターの中に入り、九条さんがいる小部屋へと入った。この部屋は外からも店の中からも死角なので誰にも見られない。
部屋の奥にいた九条さんがそっと私を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめてきた。
九条さんの温もりが浸透してくる。
私も九条さんの背中に手を回し、抱きしめ返した。
どうして好きな人に抱きしめられるとこんなに心休まるのだろう。九条さんの体温が気持ちよく感じる。
でも、ここは仕事場! けじめはつけなければ!
「……湊君、どうしたんですか?」
背中に回す手を緩めて、九条さんを見上げた。
下から見る九条さんの顔も最高に格好いい。
「ん~、別に。ただこうして礼桜を抱きしめたかっただけ」
「開店準備しなきゃですよ?」
「そうだね~。でも、もう少し」
九条さんは私の前髪を横に流すと、唇を落とした。その後は、両瞼、両頬へとキスが降ってくる。口にもしてほしいと思い始めたのはいつからだろう。最近は何だか物足りなく感じてしまう。
耳に唇を寄せながら、心地よい柔らかな低音で「礼桜、大好きだよ」と囁いてくれた。
これだけはいまだに慣れない。
恥ずかしさのあまり、もにゅもにゅしてしまう。
いつもなら「もう!やめてください!!」と怒ってはぐらかすのだが、今日の九条さんは甘えたさんのようで、私は恥ずかしい気持ちを抑えつけ、「私も大好きです」と目を見て伝えることにした。
「~~~~~~っ!!?」
すかさず九条さんは私の首筋に顔をうずめた。
よく見えなかったけど、顔が赤かったような……。
「礼桜、大好きだよ。あー、ほんと大好き。めっちゃ好き」と囁きながら、ぎゅ~っと抱きしめる手に力が入っていく。最初のほうは力強く抱き締められて、その締め付けが嬉しくて心地よく感じたが、徐々に力が強まっていく。
息もしづらく、「ぐえっ」と変な声が出た。
ちょっ、ちょっ、苦し……。
私は持てる力をすべて出し、九条さんの背中をバシバシ叩いた。
「礼桜ちゃん、ごめん」
「はぁ、はぁ、……苦しかった」
「大丈夫?」
「大、丈夫……」
息も絶え絶えの私を見て九条さんは一応慌てるふりをしたが、とても可笑しそうに笑っている。
……めっちゃ楽しそうだな!
九条さんは時々意地悪だ。
チベットスナギツネが双眸に降臨した私の顔を見て、九条さんはまた可笑しそうに笑った。
ほんといい性格してるな。
その後、ごめんねの意味だろうか。頭と瞼にキスを落とされた。
「開店準備しよっか」
「はい」
九条さんから差し出された手を握り、私たちは事務所の中へと入っていった。
◇◇
今日は忙しすぎず暇すぎない、ちょうどいい感じでお客様が来店された。
時刻は午後4時を過ぎ、そろそろ店を閉めようかと二人で話しているときだった。
カランコロンカラン
「いらっしゃいませ」
扉のほうに顔を向けると、理人お兄ちゃんと蹴兄ちゃんだった。
二人で来るなんて珍しいと思いつつ挨拶をすると、いつもにこやかな二人の表情がどこか固い。ぎこちないというべきか。何かあったのだろうか。
九条さんも二人の異変を感じたようだ。私に表の札を「CLOSE」に変えて事務所に来るよう促した。
理人お兄ちゃんと蹴兄ちゃんは九条さんと一緒に事務所へと入っていく。私も急いで表の札を裏返し、事務所へと急いだ。
◇
「で? 何があったん?」
九条さんは二人の前にコーヒーを、私の前にカフェオレを置くと、私の横に座り口火を切った。
「それが……」
理人お兄ちゃん達の話はこうだ。
来週、顧問弁護士をしている会社社長のご息女の誕生日会が梅田のホテルで開かれ、そこに招待されていること。それ自体何も問題はないのだが、そのご息女が理人お兄ちゃんに熱を上げていること。蹴兄ちゃんが仕入れた情報によると、招待客の前で理人お兄ちゃんとの婚約を無断で発表し、大々的にすることで断れない状況をつくろうと画策していること。そして、あろうことか、その計画を社長が黙認しているということ。
「何ですか、それ。ひどい……」
「礼桜ちゃんもそう思うでしょ? マジ勘弁だよね。理人なんか食事も喉を通らないくらい参ってるっていうのにさー」
「理人お兄ちゃん、大丈夫ですか?」
「……ありがと、礼桜ちゃん」
いつものにこやかな笑顔じゃなく、どこかぎこちない。
「で? ここに来たってことは俺らに何か頼みがあるんやろ?」
「へ? そうなんですか?」
二人を見ると、よく気づいてくれたと言わんばかりにニコニコ笑顔になった。反対に、九条さんはそのお願いが分かったようで、ものすごく苦々しい顔をしている。
「礼桜ちゃんにお願いがあって来た。礼桜ちゃん、俺と一緒にパーティーに行ってくれへん?」
「断る」
私より先に九条さんがお断りをした。
「パーティーですか?」
「そう。今回は誕生日パーティーだから堅苦しいものじゃないし、パートナーがいる人はパートナー同伴での参加になってて。だから、俺のパートナーとして一緒に行ってほしい」
「え、でも、私パーティーマナーとか知りませんよ?」
「それは大丈夫。俺らが教えるから。礼桜ちゃん、お願いだから理人の力になってくれへん? 礼桜ちゃんに断られたら、俺が女装して行かなアカンくなる」
それはそれでちょっと見てみたい気もする。
「お願い」と両手を合わせて懇願する蹴兄ちゃんに、首を縦に振りそうになったときだった。
「断る」
私の行動もお見通しの九条さんが一刀両断した。
理人お兄ちゃんと蹴兄ちゃんは九条さんをチラリと見ることもなく、私だけに視線を向けている。
「もちろんお礼はする。一緒に行ってくれるなら、これを……」
そういって理人お兄ちゃんが内ポケットから出してテーブルに置いたのは、私が行きたかった公演のチケットだった。
9月下旬に、私が好きなアニメが舞台化される。演じる俳優さん達は、アニメの世界からそのまま出てきたのではと思うほどクオリティーが高く、演技力も申し分ない人たちばかりが揃っている。
どうしても舞台化された公演が見たくて、推しアニメ仲間の友人と二人で、チケットゲットに向けて挑んだ。
しかし、抽選申込みは何度も外れ、一縷の望みをかけて発売日当日朝10時に予約画面に入るも、サーバーに繋がらない状態のまま4分が過ぎ、ようやく繋がったと思ったら、完売。
友達と泣きながら諦めたチケットが目の前にある。
私はおもむろに手を伸ばし、若干震える手でチケットを確認した。
行きたかったアニメ舞台化の公演。しかもS席が2枚。友達と行ける!
私は食い入るようにそのチケットを見ながら、理人お兄ちゃんに尋ねた。
「パーティーにはどのくらいいるんですか」
「2時間ほどのパーティーだと思うけど、1時間くらいで帰ろうと思ってる」
「途中で帰れるんですか?」
「もともと遅れて行くつもりだから。別に最初から参加する必要もないし。最後までいる必要もないから、お祝いの言葉を述べたらキリがいいところで帰ろうと思ってる」
「そうですか」
理人お兄ちゃんや蹴兄ちゃん、九条さんと目も合わさず、ただ一心にチケットと向き合った。
S席12,000円。
手数料を入れると13,000円弱。
それが2枚。
対してパーティーの参加時間は1時間。
私が頑張れば友達と舞台を見に行ける。
「……理人お兄ちゃんと一緒にパーティーに行って、私は何をしたらいいんですか」
「俺の隣にいてくれるだけでいい」
「理人、礼桜ちゃんのこと何て紹介するつもり?」
「ん? 俺の大事な人ですって紹介するつもりだけど?」
「は? ダメに決まってんだろ!」
「どうして? 後でバレても、弟の婚約者ですって言えるように、うまいこと言うから大丈夫。俺、言葉の言い回し得意だから」
重々承知している。
その点は大丈夫だろう。
「とりあえずパーティーでの婚約発表さえ阻止できれば、あとは何とかなるから」
「…………理人お兄ちゃん、本当に私でいいんですか?」
「礼桜っ!?」
「むしろ礼桜ちゃんがいい」
「私、マナー知りませんよ?」
「大丈夫。さっきも言ったけど、俺らが教える」
「パーティーに着ていく服とか持ってませんよ?」
「それも一式用意するから問題ない」
「私が何かやらかしたらフォローしてくれますか?」
「もちろん」
「……危険な目に遭いそうな感じですか?」
「それはないと思うけど、もし危険な目に遭っても必ず俺が守る」
念のため一応尋ねたが、何かあれば理人お兄ちゃんが守ってくれると分かっている。
それよりも……。
「理人お兄ちゃんに恥をかかせるかもしれませんよ?」
「別にいいよ」
「ダメに決まってるじゃないですか! 私が嫌です」
私のせいで恥をかいてもいいと平然と言う理人お兄ちゃんに腹が立ち、私はようやくチケットから目を離し、理人お兄ちゃんを見た。
「本当にどうなっても知りませんよ?」
「俺の側にいる限りどうもならない」
「……分かりました。私でいいなら行きます」
「礼桜っ!」
さっきから名前を呼んで私を止めようとする九条さんを説得するため、私は九条さんのほうを向き視線を合わせた。
「将来、九条さんは私と結婚しようと思ってますか?」
「ああ」と言いながら、真剣な眼差しで力強く頷かれた。
心に温かい光が灯る。
「もし九条さんと結婚したときに、その女の人が理人お兄ちゃんの奥さんだったら、私イヤです。九条さんはイヤじゃないんですか?」
「それはイヤだけど、でも……」
「それに、騙すような手を使って理人お兄ちゃんと結婚しようとか許せない」
「……チケットのためじゃなくて?」
「もちろんチケットも欲しいです。どうしても行きたかったアニメの舞台化ですし。でも、私が行くことで理人お兄ちゃんが嵌められるのを防げるのなら、私は行きます。行かなくて一生後悔するくらいなら、一緒に行って恥をかいてきたほうがまだマシですから」
「恥かくつもり満々かよ!」
満面の笑みの蹴兄ちゃんからツッコまれた。
「当たり前じゃないですか! 私が失敗しないとでも? ないですね! 理人お兄ちゃん、私を連れて行ったこと後悔するかもしれませんよ?」
「後悔なんてしないよ」
「え? 後悔しないんですか? 恥をかいても? それはそれでちょっと……」
「礼桜ちゃん、ありがとう」
ホッとしたように微笑む理人お兄ちゃんは、目がチカチカするくらい眩しかった。
色気を垂れ流している洗練された大人の男の人の隣に1時間いるとか、ある意味拷問だな。
月とすっぽん、提灯に釣鐘、天と地……あと何だっけ?
あ、雲泥の差か。
自分で言ってて悲しくなるな。
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