第6話 晴冬さんと初恋
—7月17日(日)午後3時50分—
「しまった」
九条さんが珍しく慌てた声を出している。
どうしたのだろうと思って、九条さんの隣に行き、レジカウンターの後ろにある作業台の引出しの中を覗き見ると、プレゼント用に包むリボンの在庫があと僅かになっていた。
「リボンですか?」
「うん。今発注してるんやけど、今度の木曜日にしか来ないんだよね。それまでもつと思う?」
「……ちょっと厳しいと思います」
「やんな。……仕方ないから買いに行くか」
「どこに買いに行くんですか?」
「キューズモールの中にある手芸屋さん」
「え? あそこにあるんですか?」
「うん、それがあんねん。だから、こういうときめっちゃ助かってる。もう今日の分の配送は終わったから、お店閉めて一緒に行こ?」
二人で話していると、2階から晴冬さんが下りてきた。
「どうしたん?」
「リボンの在庫があと少しなので、キューズモールの中にある手芸屋さんに買いに行こうって話してたんです」
「そうなん?」
「はい」
「俺が行こか?」
「店閉めて俺と礼桜ちゃんで行ってくるから、晴冬は留守番お願い」
「それは別にええけど、湊、地区の会長さんが4時に来るって言うてへんかった?」
「あ……」
そういえば、開店準備のとき九条さんがそんな話をしていた気がする。私もすっかり忘れていた。
「じゃあ、私と晴冬さんで行ってきますね」
「え、でも……」
「せやな。俺と礼桜ちゃんで行こか。間違わんように一応リボンを1本持っていこ」
「あ! それいい考えですね!」
私は引出しの中からリボンを1本取り出して丁寧に畳むと、そのまま手のひらサイズの透明の袋に入れた。これでリボンが汚れる心配もない。
「九条さん、いってきます!」
「湊、いってくるねー。何か欲しいもんがあれば、後で連絡して」
「……………………いってらっしゃい」
九条さんはなぜか気落ちしたような覇気がない笑顔で送り出してくれた。
……もしかして一緒に行きたかったのかな?
◇
「九条さん、なんか元気なかったですね。一緒に行きたかったのかな?」
「自分だけ行けなかったのが嫌なんちゃう? ああ見えて寂しがり屋やし」
晴冬さんが可笑しそうに笑っている。
九条さんと晴冬さんは同い年で、九条さんは認めていないが、晴冬さんは九条さんの相棒なのだ。
「え? でも、ただのお遣いですよ?」
「うん。それに会長さんとの約束もあるしな。帰りに何か湊の好きなものでも買って帰ろ」
「そうですね」
二人で天王寺まで一駅歩くことにした。
梅雨も明け本格的な夏シーズンが始まったが、今日の予想最高気温は31度のため、まだ歩きやすい。
これが35度を超える猛暑日なら、一駅でも絶対に歩かない。お店から天王寺駅まで、歩いても地下鉄で行ってもさほど時間は変わらないが、お金を払ってでも地下鉄に乗る。
「そういえば、晴冬さんと二人でお遣いに行くの初めてですね」
「そう言われてみれば……そうやね」
二人でのんびり歩いていると、左手に四天王寺が見えてきた。顔を向けて四天王寺を見ると、石鳥居から見える極楽門や西重門、五重塔の双輪が目に映った。夏の空に五重塔の双輪がよく映えている。
また、九条さんと二人で来たいな……。
隣を歩く晴冬さんを見ると、晴冬さんも私を見返してきた。
二人で話すのも久しぶりなので、最近気になっていることを聞いてみることにした。
「晴冬さん、法律事務所での仕事はどうですか?」
「……気になる?」
私が質問したのに質問で返してきやがりました。晴冬さんは私のほうに顔を向けてニヤニヤしている。何とも小憎たらしい顔である。
「……まあ、少し」
私が素直に答えるとは思っていなかったようで、少し瞠目した後、法律事務所での仕事を思い出したのだろうか。遠くを見ながら疲れた顔になった。その表情から容易に想像できる。
「覚えることがいっぱいあって、マジで大変」
晴冬さんは、理人お兄ちゃんの法律事務所で平日の昼間にバイトをしていたが、正式に採用され事務員になった。今は蹴兄ちゃんについて仕事を覚えているが、バイトのときよりもはるかに覚える量が増え、毎日毎日一生懸命勉強していると教えてくれた。
「でも、理人さんや蹴君、樹さんが分かりやすく丁寧に教えてくれるから、なんとか頑張ってくらいついていけてる。高校のときも資格を取るために勉強したけど、そんなん比べものにならんくらい勉強してんで。俺、多分、一生分の勉強してるんちゃうか。覚えてもすぐ忘れるから、礼桜ちゃんみたいに〝あんちょこ〟を作って、その日メモったことを復習がてら小さなノートにまとめて持ち歩くようにしてん」
そういって、背負っているリュックから小さなルーズリーフバインダーを取り出して見せてくれた。
普通の大学ノートに比べ、ルーズリーフバインダーならルーズリーフを継ぎ足せるし、差し込むこともできる。またインデックスをつけると見やすく、まとめやすい。私も、テストで間違った問題のやり直しや自主学習をするときは、ノートではなくこのルーズリーフバインダーを使っている。
晴冬さんのあんちょこはすでに結構な分厚さになっていた。
「すごいですね!」
「何度も聞くわけにはいかへんから」
「確かに。でもすごいと思います! 意外にちゃんとしてるんですね~」
「なんやねん、それ。俺がいつもちゃんとしてへんみたいやんか」
「いや、別に、そういう意味では……」
横目でジトっと見てくる晴冬さんの視線に耐えきれず、しどろもどろになってしまった。
「もし礼桜ちゃんが弁護士を目指すんなら、俺の何百倍も勉強せなあかんから大変やな」
「そうですね……」
——まあ俺は、弁護士になった礼桜ちゃんを支えられるように今鍛えられてるんやけど……。
「すみません、晴冬さん、聞き取れなかったので、もう1回言ってもらってもいいですか?」
「ん~? 礼桜ちゃんよりも早く俺のほうが一人前の優秀なパラリーガルになってるやろうから、そのときは礼桜ちゃんを支えたるわ」
「……ありがとうございます?」
「なんで疑問形なん」
二人で笑い合った。
なぜか晴冬さんには、塩対応で答えたり毒を吐いたりしても大丈夫という安心感がある。
お互い恋愛感情なんか1ミクロンもないけど、奇妙な縁というか、何というか。言葉で説明するのは難しいが、これからも晴冬さんとは縁があり続けるんだろうなとなぜか感じる。
もし私が弁護士になれたら、そのときはきっと晴冬さんが助けてくれるのだろう。
さっき口には出さなかったが、何気に心強い。
正社員になっても、晴冬さんは土日祝日はいまだにBlueberryFlowersへ来ている。理人お兄ちゃんもそれを分かっているから、平日に休みを入れているようだ。晴冬さんは九条さんの相棒なので、結構自由に行き来ができると言っていた。
「でも、そんなに忙しいなら、彼女とかつくる暇ないんじゃないですか?」
「彼女か……」
あれ? 晴冬さんが急にシリアスモードになってしまった。もしかして踏み込んではいけない部分だったかな。
「俺ね、両親が死ぬまで付き合ってた人がいたの。彼女は俺の幼馴染で、子どもの頃からずっと好きだった。高校生のときに付き合い始めて、このまま結婚するんやろうなって思ってた。それくらい好きだった。でも、両親が死んで、借金があると分かったとき、俺から別れてん。未来もない借金まみれの俺なんか、不幸にするだけやろ。でも、向こうは別れたくないって、私もバイトするから一緒に返していこうって言うてくれて……。めちゃくちゃ嬉しかった。でも、俺と一緒にいることで、もし彼女が危険な目に遭ったらと思うと、俺は彼女の気持ちを受け取ることができなかった……」
そんなことが……。
晴冬さんは、辛く苦しそうな表情で、うつむき加減で話している。
私は、ご両親を亡くした晴冬さんがどんなに辛い思いをしてきたか知っている。
やばい! 泣きそうだ。
私は泣かないように目に力を入れて耐えた。
「毎日借金を返すために朝も夜も働いて、生きることに必死だったけど、フッと気が緩むと思い出すのは彼女のことばかりだった。両親が殺されたって分かって、借金も偽装されたものだって分かって、事件が解決して、全てお金が返ってきたとき、初めて前を向けるようになった。心に余裕ができたとき一番初めに思ったのは彼女のことだった。無性に彼女に会いたかった。そして、俺はまだ彼女が好きだと気付いた……」
そう言うと、晴冬さんは私を見た。
「礼桜ちゃん、俺ね、もう一度だけ彼女に会いに行こうと思う。別れて9か月くらい経つから向こうは彼氏がおるかもしれへんけど、でも何も言わずに諦めたくない。っていうか、諦められへん」
「晴冬さん、頑張ってください! 応援してます」
「ありがと。振られるかもしれへんけど、近いうちに連絡しようと思ってる」
晴冬さんは爽やかに笑っている。
そんな晴冬さんを見て、応援する気持ちの一方で少しの懸念が湧いたので、一応伝えることにした。
「……晴冬さん、もし彼女に振られても、ストーカーになったらダメですよ。諦められへん!って言って追いかけたら、そのときは速攻で
にこやかにサムズアップしてやったら、なぜかこめかみをグリグリされた。
「ちょっ、ちょっ、痛い! 痛いんですけど!!」
「アホか! そんなんするわけないやろ!」
「分かった! 分かりましたから、やめてぇぇぇぇぇ」
往来でギャーギャー騒いでいる私たちは、通りすがりの人たちの冷ややかな視線を浴びた。
こめかみをさすりながら、
「晴冬さんのせいで周りの人たちから変な目で見られたじゃないですか」
と文句を言ったら、
「アホなことばっかり言うからやろ」
と一蹴された。
なんか解せぬ。
面と向かっては言わないけど、晴冬さんの恋が成就するといいなと心からそう思った。
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