第19話 ロア・フォルトン4
【レオ視点】
俺はすぐさま女の子の膝下に手を入れて、逆の腕を首裏に回し、首を腕で支えて女の子の体を持ち上げ、後方へ即座に走り出した。思い切り魔力を解放して身体能力を最大まで上げて一気に最高速度になった。はっきり言って大猿の群れと一戦を構えようなんて一切思わないことだ。確実に殺される。
「舌噛むぞ!喋るなよ!おぉぉぉぉおおお!!!」
とにかく全力疾走で戦線離脱。
こんな奴らと正面から打倒するなんてあり得ない。
逃げるしかない。
猿達は一体一体は俺でも殺せるが、この何十体となれば勝ち目はない。しかも、その後ろには、あの体長5メートル程の巨大なランクCの大猿がニヤニヤしながら追いかけてきている。子猿達に獲物が嬲り殺しにあうのを楽しんでいるのだ。余暇として楽しむ為と訓練の為だ。
俺が魔力を全解放したのが合図となり、猿の群れの側面部から、土の津波や巨大な水球、猛烈な勢いで進む竜巻、そして紅蓮の火球が猿達を襲った。
猿達は驚きふためき、群れの動きが混乱した。明後日の方向からの、突然の攻撃に驚いたのと、どちらを狙うかに逡巡しているのだ。
目の前の小さな子供2人を嬲り殺すか、攻撃してきた集団に報復するか。群れの動きが止まったが、すぐさま後方に控えている大猿が大きく奇声をあげて、指示を飛ばしているようだった。大多数の猿達を攻撃が来た方向に向かわしているようだ。大半の猿達が群れから離れて、明後日の方向へ移動していった。大猿は十数匹ほどの猿だけを伴い、俺たちを追いかけてきた。
非常に合理的な判断だな、と冷静に心の隅で思った。
目の前の小さな子供2人なんて、赤子の手を捻るようなものだ。大猿としては確実に楽しみたいのだろう。
魔法を撃ってきた未確認の集団は、もしかしたら何名いるかもわからないから、9割ほどの猿達を向かわして、確実な勝利を目指したいのだろう。
みんな、逃げ切れよ・・・。
少しずつ猿達の群れから遠ざかっているように思ったが、大猿のスピードが上がってきた。200メートルほど距離が開いていたが、後少しもすれば追い付かれるだろう。
「おい」
「は、はい」
「おそらくもう少ししたら大猿に追い付かれる。できる限り守るが、おそらく強烈な衝撃が来る。備えてくれ」
「そ、備える、って。ど・・・、どうやって??」
「とにかく喋らず、衝撃に備えろ」
少女は顔面蒼白になりながらコクコクと頭を小刻みに頷いた。
俺は先ほどまで下半身に魔力を集中させ走力を大幅に上げていたが、魔力を上半身に集中させ、回復力と防御力を最大限に引き上げた。子猿からの攻撃よりも、大猿からの超絶的な攻撃に備えた。冷や汗が体全身から吹き出る。この少女ぐらいの体重で俺の速力は変わらないが、段々と大猿が接近してきているのは分かる。
「きゃーーーーー!!!」
左右にフェイントも交えながら大猿を振り切ろうとするが、全く功を奏しない。正直、遮蔽物の無い、こんな広大な草原のど真ん中で、大猿に追いかけられているんだ。単純に逃げ切れるものでもない。もう真後ろには大猿がいる。既に大猿の攻撃の間合いに入った。こんなか弱い女の子だ、この大猿が背後にいることの恐怖感は、あまりに激しいはずだ。
ふと右目の端に巨大な物体の残像が映った。
(来る!!!!)
ドーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!
一瞬右に背中を向け衝撃を自分だけに集中するようにした。
「ぎゃが!!!」
「ぐぎゃ!!!!」
衝撃は貫通し少女の体にも大きな打撃を与えた。
一瞬少女の様子が見た。
彼女の腕と脚は曲がってはならない方向に曲がっている。
胴体や頭蓋骨などの生命維持に必要な部位は原形を留めているようだが、眼や鼻、耳などから出血が噴き出している。このままでいれば、出血多量で瀕死状態になるだろう。
次の瞬間、自分の体の損傷状態を感じた。
大猿の攻撃を直撃した俺の方はもっと悲惨だった。
明確に背骨は折れ、肋骨は粉砕され、肺にありとあらゆる方向からの骨が突き刺さり、肺の中は血の海化しているようだ。頭蓋骨全体も破壊された。内臓は破裂。普通なら即死だ。
しかし、その即死級の衝撃が体を貫く中で俺は辛うじて意識を繋ぎ止め、攻撃される前より魔力の発動を最大限に上げていた俺の体の破壊された骨や内臓器官は、崩壊しながらも即座に再生しだした。
空中を飛ばされている間に、肺に溜まった大量の血を吐き出した。
俺の魔回復が間に合い、あの死に体の俺は辛うじてまだ生きていた。腕の中にいた女の子は激痛を通り越した、壮絶な痛みと恐怖で既に意識を失っていた。おそらくこの女の子は死んでしまったと思ったのだろう。
その認識はそれほど間違ってはいないが・・・。
俺は彼女を抱きしめ、これから来るであろう地面との接触から来る衝撃に備えた。
ガン!!ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!!!!
俺たちは途方もない距離を転がり続けた。
地面の小石や草で体中を切られながら、大きな岩に叩きつけられて、永遠とも思える回転はやっと止まった。
はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・
回転し体表に無数の数を増やしながらも、重要な体内の臓器への回復を続け、何とか瀕死の状態から脱した。まだ魔力量は十分にある。気力体力もまだまだ十分だ。
何とか地面を這いつくばりながら、飛ばされた方向へと目をやった。すでに見える範疇には大猿や猿の群れはいなかった。
(一体どこまで飛ばされたことやら・・・)
危険が近くにないことを確認して、腕の中にいる女の子を見た。辛うじて息をしているが、腕や脚の感触から、骨が粉砕しボロボロになっているのが分かった。体全身が青白くなっていた。
(早く治療をしないと・・・)
彼女の体に触れ体全身に魔力を行き渡らせた。全身の全ての細胞が活性化するために、魔力を注ぎ続けていった。体全身の血色が良くなり出し、体表の大小の傷も塞がっていった。全ての骨も修復されていき、彼女の呼吸も安定してきた。まだ予断を許さない状況ではあったが。
(何とか瀕死状態からは脱したみたいだな・・・ん?)
彼女の体の中に魔核がある。これは普通の事で10代までは魔核があるが、ほぼ使い物にならない容積、強度だったりするので、特段不思議には思わない。この魔核は使わなければ自然に消滅していく器官であることは、広く一般的に知れ渡っている。
魔物と同様に、体内の最も重要な部位の近くに発生する。魔力を使い続け、魔力量を増やすごとに、その硬度、透明度、光度などが増していくのだ。一番純粋で高度に発達した魔核は、ほぼ透明だ。
そして、もちろんその魔核が彼女の体内にあるわけで、今の世の中の貴族たちは、既得権益と優位性の保持の為、一般庶民達には魔石を発達させる方法である『魔力解放』を決して伝えることは無い。なので、一般庶民の魔石は小さく触れば壊れるような強度であったりする。
しかし・・・
彼女の魔核は非常に高度に発達している。これほどの魔力の内容量があれば、彼女自身も魔力を解放し、自分だけでも独力で逃げ切れたはずだ。なぜ使わなかったのか・・・?
しかし、実はその答えは単純であった。
彼女の魔核の周りにはどす黒い気配が纏わりついており、それがこの魔核の解放を妨げているのだ。じいから一度教えてもらった現象だ。これは・・・
(呪い)
『呪い』とは魔法の一種である。
魔法は自分の体内にある魔核を原動力とし、そこに内包される魔力を体外に具現化して、世界に影響を及ぼす行為だ。魔法の起点はどこまでも、自分の魔核なのだ。
しかし、『呪い』は特殊で、体外の部分に魔法の効果を半永久的に留めておくことができる魔法なのだ。魔法の起点を自分の魔核ではない所に置く為、使用は非常に難しい。
それを得意とする呪術使いと言われている人々が存在し、この力を使える魔導師は非常に稀少である、とじいは言っていた。何故なら、この呪術の使用の難易度の高さと相まって、基本人体にしか使えないので戦闘には『無駄』だからだ。
『お前たちも将来、呪術使いに会うかもしれんが、まぁ、碌な奴らでない。この世界では、魔物との戦闘の成否が人間の生死を分かつ。人間が生き残るためには城壁外での戦闘を何とかしなければならない。ほぼ90%以上は魔物対策の魔法を使えることが最重要案件じゃ。対人戦闘はもちろんあるが、人々は基本城壁外からの攻撃に怯えながらも城壁内で平穏な生活を営むことを目指しておる。外の脅威に対抗するのに、全ての物的、人的資源を費やしているのにも関わらず、その人的資源を破壊することに特化した魔法なぞ、無用の長物と言っていいじゃろう。もしそんな奴がいたら、ワシは即殺すな。人類の敵じゃ』
その呪術を使われた、この女の子の境遇を思うとかなり悲惨な状況が窺い知れる。稀少な呪術使いを囲う貴族。それを使われた子供。
本当に腐った世の中だ・・・。
詰まる所、呪術も魔法の一種であるから破壊は可能だ。しかし、魔核にべっとりと付着しているこの呪術を壊すのは普通、容易な事じゃない。呪術使いがいれば、解呪術使いもいるだろうが、そんな人間は更に稀少だ。
そうなのだが、俺には稀少な魔回復使いだ。魔回復は体の中に自分の魔力を入れることで治癒することも破壊することもできる、超強力な魔力使用だ。俺ならこの呪いを破壊することが可能なのだ。彼女の魔力を使った方が治療も格段にうまく行くので、とにかくこの呪いの除去を始めていこうと思う。
俺は魔力を彼女の魔核辺りに伸ばした。かなり強い呪いの魔法が彼女の魔核にヘドロのようにへばりついている。このような粘着性は、魔導師の性格を表しているのだろう。
呪いを俺の魔力で掴み、呪いの中に俺の魔力を浸透させていく。活性化させるのも、沈静化させるのも、俺の魔力の指向性次第だ。俺は一気に呪いを沈静化させた。そして、俺は無効化させた呪いを粉々に粉砕した。
これで彼女は自分の魔核からこぼれ出る魔力を使い、彼女の体の修復を進めることができるだろう。俺もまだまだ魔力はあるが、これからまだ大猿からの逃走を考えれば全ての魔力を使い切るわけにはいかない。幸い彼女の魔力はかなり大きい。俺も彼女の魔力を使えば、すぐに彼女を回復することができる。
「もう一息だ!いけぇぇぇぇぇ!!!!」
俺は彼女の魔力を引き出し、俺の魔力と融合させて、一気に彼女の体内の全ての損傷を回復させていった。
数分後、彼女の怪我の状態もほとんど元の状態に戻った。
彼女をうつ伏せにして、彼女の背中を強く叩き、肺に溜まった血を吐き出させて、体を楽にしてやった。嘔吐を繰り返しながら、ボロボロの内臓や骨、筋組織が新しく再生している為に、まるで違う体のように感じているんじゃないだろうか。
「ゲホ!!ゲホ!!ゲホ!!ゲホ!!ゲホ!!」
俺は彼女の背中を優しく擦りながら落ち着くように介抱した。俺も疲れのピークに達しており、自分の怪我の状況もあったので、彼女の介抱をしながらも、自分の傷の回復にも意識を向けながら、少しずつ治癒を進めていった。
「ゲホ!!ゲホ!!!くっ・・・」
四つん這いになり、涙目になりながら彼女は意識を取り戻して、俺の方を見た。
「さ・・・、さっきは・・・ど・・・、どうなったの?こ、こは・・・?」
「さっきはおそらく大猿の平手打ちを喰らって、俺たち二人ははるか遠くの場所へと吹き飛ばされたと思う。目視では猿の群れを認識することはできないが、確実にこちらに向かってきているだろうな」
「ど・・・、どうして・・・分かるの???」
俺は一瞬どう答えたものかと逡巡したが、いつも通りの既定の話をすることにした。
「俺が持っている魔道具で、魔力を察知することができるのさ。俺の十八番だな。この感覚だと、おそらく3キロ先辺りにいる。奴らは俺たちを探している」
「そんな魔道具が・・・。あなたは一体?」
「俺か?俺は、商人の弟子だ。ここら辺りで活動をしている商人サリカじいに付き従って商売を学んでいるんだ。街から街へと移動して、旅をしている一団さ」
「そ・・・、そうなのね。けども、3キロも・・・吹き飛ばされて、生きている・・・どうやったの?」
「城壁外を移動する時に、自分のダメージを身代わりにしてくれる魔道具を持っているのさ。かなり貴重なんだが、サリカじいからもらった命綱なんだ。だから、あの猿の群れに襲われたとしても、まだ俺たちは生きている」
「そ・・・そうなのね・・・ちょっとよくわからないんだけど・・・」
「分からない事を理解しようとするよりも、今起こっている事を理解して生き延びる方が大切だと思うぜ。とにかくここから脱出する方が最優先じゃないか、貴族様」
「き、貴族様・・・?どうしてそれを?」
「そりゃ、あなたの魔力と服装を見ていたら分かるよ。俺もここから逃げることはできるが、あなたの魔力で護ってもらった方が生存率は上がるからな。とにかく協力してここから生き延びよう」
「え??何を言っているの???私が魔力???」
(魔力を感じないか。まぁ、しょうがないよな。今まで呪いで消されていたものが突然出現したようなものだからな。そのうち慣れると思うが)
「ん??何を言っているんだ?俺の魔力感知の魔道具が、あんたの魔力を感知しているよ。かなり大きな魔力量を保有しているな」
「え!?え!?ええぇぇぇぇぇえ!!!!!!!????」
「どうした?何を驚いている?」
「こ、これが魔力・・・。感じるわ!感じるわ!!!魔力を感じれるわ!!感じれるのよ!!どうして!!??どうして!!??」
「以前は使えなかったのか?」
「そうよ!本当に・・・、魔力が・・・使えないから・・・、私と・・私の家族は・・・不遇な目に遭ったの・・・。ど、どうして・・・今・・・できるの?何が・・・変わったの・・・?一体・・・何・・・?」
女の子は落涙しながらその場に倒れ伏した。
呪いを俺が破壊した為、彼女の魔核からは溢れんばかりの魔力が出現していた。しかも、彼女の魔核は元からかなり強力な部類に属しており、解放を学ばない状態からでも、ランクHからGほど、魔力の無い一般男性ぐらいなら5人程を相手にしてもいいぐらいの力がある。彼女の落胆具合を見ていると、本当に不憫でならない。
「何があったか知らないが、ここにいては死んでしまう。俺は仲間と一緒にタタン街に行く道中で、あんたと出会ったんだ。ここからタタン街に行こうと思うが、あんたも一緒に行くか?」
「わたしは・・・わたしは・・・」
あまりにショックが大き過ぎたのだろう。無理もない。呪いをかけられた人間たちというのは往々にして私怨だったり権力闘争の結果だったり虐待行為だったりする。本当に可哀想だが、今はそれに構っている暇はない。
「あんたはさっき生きたいと言った。何を迷っているか知らないが、今ここで何もしないのは、自分の幸運を見逃すようなものだ。お前のように生き延びる幸運を得る者は、この世の中にはそうはいない。どうする?掴むのか?それともここで悲嘆にくれて死に絶えるか!?どうする!?」
「わ・・・わたしは・・・い・・・生きる・・・。どうか・・・、私を助けて・・・」
「まぁ、助けるも何も、あんたの方がこの草原では強いんだから、あんた頼りだよ、ここからは」
「わ、わかったわ・・・、けども私には魔力の使い方が・・・分からないの・・・。あなたに頼られたとしても・・・あなたを守れる自信はないわ」
「俺も良く知らないが、旅をしている中で魔力を使える人たちと交流することがあるが、どうやら魔力を体内の全身に行き渡らせ留めるイメージをするらしい。それをすることで魔力が体の筋肉を強化することができるだとか・・・。俺には分からない感覚だがな。それは道すがらするとして、移動しよう。ここに留まるのは危険すぎる。あの猿達が追い付いてしまう。」
「わ・・・分かったわ。い、急ぎましょう」
俺たちは一路、タタン街に向けて走り始めた。俺があまりに自然な振る舞いで方向を示すので、この女の子には全く違和感がないのだろうが、こんなデスゾーンにおいて、『商人の弟子』と称する非戦闘員が堂々と行く道を指し示すなど異常にもほどがあるのだが、その時、彼女はそんなことに気付く余裕すらなかったろうし、そもそもそれほど世の中の常識に通じていたわけではないのだろう。彼女は、『そんなものなのだろう』とぼんやりと思っていたに過ぎなかったと思う。
俺たちは草原を走り続けた。大地は焼けつくような熱さで、草原は風に乱れ、俺と女の子は息を切らせながら走り続けた。俺たちの背後には何かが迫っている気配があり、それは恐ろしい絶対死の兆候だった。大猿たちは、おそらく少女の魔力を辿ってこちらに向かっている。
(まずいな・・・彼女が魔力を使うことで猿達がこちらに向かってくる。しかも、彼女は自分の魔力を効率的に使えていない。身体能力も向上は少しはできているが、ほとんどはただ垂れ流しているに過ぎない。このままじゃすぐに追いつかれる)
俺は草を蹴散らし、速度がどんどん落ちていく少女の手を引いて全速力で走った。俺たちの心臓は激しく高鳴り、背後から迫る脅威に対する恐怖が俺たちの背筋を凍らせた。草原の隅々にある陰影は、俺たちが身を隠せる場所ではない。この状況下は、ただ進み続ける以外の選択肢しかない。
俺たちの周りでは、草の中から何かが音を立てて追いつこうとしているような気配があった。他の魔物だ。草原には何も猿だけがいるだけじゃない。俺は一瞬振り返り、目を見開いて女の子の手を更に強く引っ張りながら「急ごう!」と叫んだ。
俺たちの足音が草原に響き、前方に見える唯一の道を追い求めた。太陽は俺たちの頭上で燦々と輝き、汗が顔を伝い、全身が濡らしていった。疲労と重圧と激痛が全身を貫き、鬼気迫る状況を更に加速させた。
少女は息を切らしながら、全身を覆う疲労と痛みで息も絶え絶えだった。もう既に魔力は尽きていたがそれでも走り続けていた。彼女は自分の命を燃やして原動力としていた。彼女はただ目の前に広がる、草原の果てを目指して走り続けた。危険が迫るなか、ただ強く俺の手を握り、黙々と走り続けていた。
しかし、やがて炎天下の草原で少女の足取りは急速に遅くなり、最終的には地面に四つん這いで倒れ込んだ。彼女の呼吸は荒く、滝のような汗が彼女の顔に流れ落ちた。彼女は力が尽き気絶をした。
おそらく彼女は慣れない魔力を最後の最後まで使い切り、更に生命力も使って身体強化をしてしまった。魔力枯渇と生命力枯渇により意識が途切れた。
(良かった。生命力を最後まで使い切ったら死んでしまっていたところだ。彼女の執念だったのだろうな。初めての魔力使用だっただろうから、使い切る前に魔力解放を止められないしな。けどもこれで猿共も俺たちを追いかける目印が無くなった)
俺は彼女の体を持ち上げ、両肩の上に担いだ。ここまで来たら、後は決意と気力で走り切るしかない。後は自分の力の限り全力を尽くしかない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
草原の風が俺の背中を押してくれた。太陽が背中に灼熱の光を浴びせる中、俺は肩で女の子を抱えて前進し続けた。俺の心臓は激しく鼓動し、筋肉は限界まで緊張していった。
「やばいな」
俺の体も疲労と魔力の減少により、重く感じるようになってきた。痛みや疲労などは無視して前進し続けたが、もう限界だ・・・。
俺は倒れ込む前に女の子を優しく地面に置き、息を整えながら周囲の魔物の存在を再び探索し出した。俺の身体は疲労で震えていたが、生き延びるとの決意と彼女を守り抜く思いはまだ燃えていた。
大猿のグループは俺たちのところまで500メートルほどにまで近づいてきている。
彼女の魔力の残滓を感知して追ってきているんだろう。俺もそれには懸念をしていたのだが、この草原には何も大猿の一群だけが脅威なのではない。他の魔物が蠢くこの草原だ。早く街へ到着することに優先して移動してきたリスクが顕在化してきたようだ。
「今、戦闘に入れば俺もこの女の子ともども殺される・・・」
俺は、自分たちの体臭で気付かれないように、また身に着けている服の色で周囲から目立たないように周囲の土を自分と彼女の体に塗りたくり体臭を消し、地面に穴を掘り、呼吸ができる箇所のみ残し大地と一体化した。
そして、俺は自分の魔力隠蔽を行い、俺から発せられる魔力を全て消し去った。周囲から見れば俺たちは既にただの草原の一部としか見えないだろう。彼女の魔力も使い尽しているので、どんな精密な魔力探査にも引っかからないと思う。大猿の感知能力に引っ掛からなければやり過ごせる。
ズゥン・・ズゥン・・ズゥン・・ズゥン・・
遠くから大猿の群れが近付くる。
タッタッタッタッタッタッ
大猿に供だっている子猿たちの足音も聞こえてきた。
あと100メートル
あと80メートル
あと60メートル
あと40メートル
あと20メートル
あと5メートル
「・・・・・・・」
俺は息を殺して待った。汗が全身から吹き出ていく。ドクン、ドクンと心臓の音が激しく鼓膜を打ち続けていく。
(気付かずに行ってくれ・・・・・・。頼む・・・・)
俺は目を瞑り、接触の瞬間を待った。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
路傍の石のように思ったのだろうか、俺たちの上を飛び越えて、進んでいった。
俺たちをただの石ころと思ったのか。
俺たちをただの草原の一部と思ったのか。
俺たちを無視して過ぎていった。
「う・・・う・・・ん」
そんな時に、女の子が起きそうになっていた。
一瞬、大猿をこちらを睨んだ。
(くそっ!!万事休すか!!??最悪、俺の残っている魔力を全て解放して逃げ切るのみだ!!!!)
その時、遠くの方で一角ウサギが走り去っていったのが見えた。
大猿はその様子を見て、進行方向へ向き直り歩き続けていった。
(た・・・、助かったのか・・・?)
女の子はその後も気を失ったままだった。
俺は死んだようにピクリとも動かなかった。いや、動けなかった。
ふと、草原の中で自分がいることを強烈に意識した。こんなデスゾーンの草原でゆったりと横たわり、空を見上げることは今までなかった。
風がそよそよと草を撫でる中、広大な草原に俺は身を横たえていた。柔らかな草の上で、その広がる空が目に入ってきた。青空が果てしなく広がり、雲がのんびりと流れていく。
眼を閉じれば、太陽の温かな光が顔に触れ、その温もりが全身を包む。風が頬を撫で、微かに草の匂いが鼻をくすぐった。草原の静寂が身を包み込む中、鳥のさえずりや虫のささやきが自然のメロディを奏でているようだ。
眼を再び開けると、空は深い青色に澄み渡り、雲がゆっくりと移ろっていた。まるでこの世の中に悲哀も殺戮も憎悪も何もないかのように、無関心でいて、雄大にちっぽけな人間の営みを見下ろしているように感じる。群青色の帯が大地と空を分けるように見え、遠くに連なる丘や木々がそのラインを縁取っている。自然の美しさが眼前に広がり、その壮大な景色が心を豊かに満たしていく。
伸ばした手が土を跳ね除け、草地に触れその触感を感じた。風に揺れる草の柔らかな感触が指先に触れ、自然のリズムに身を委ねた。風が草の穂を揺らし、太陽の光が踊る。この広大な草原の中で、自由に息づいている感覚が心地よく、心が穏やかな静寂に包まれた。
空には鳥たちが羽ばたき、楽しそうに求愛の鳴き声を空中に響かしていた。そんな草原でのひと時を俺は静かに楽しんだ。自然と共に生きる喜びを感じながら、広大な大地との繋がりを深めていくのだった。
半刻ほど、俺たちは草原の一部と化していた。この期間、他の魔物に突発的に攻撃されれば、かなり危機的状況であるのだろうが、大猿でさえ俺たちを見つけえないのだ。そのリスクはほぼないと思っていいだろう。
(さて、もう大丈夫か・・・)
大猿の一群もどこかへ遠くへ去っていった。
絶体絶命の危機は去った。
タタン街へはあともう少しだ。まさか、大猿の一群はタタン街の方へ行っていないよな?心配もあるが、とにかく今は動くしかない。
やっと首をゆっくりと動かして、横で気を失っている貴族様の様子を見た。
一人の少女が地面の中で安らかに眠っている。彼女の眠る姿は、あまりに優雅でこの草原の中では異彩を放っていた。陽の光がそっと彼女の肌を撫でる。長い髪が風に揺れ、そのまばゆい静寂の中で彼女は穏やかな表情であった。
今までは逃げるのに必死だったので、よく相手の顔などを見る機会はなかったのだが、よく見ると少女の可憐な顔つきと華奢な体を見ると、おとぎ話から出てきた姫様の様な出で立ちだった。よくヘレーネが語る『お姫様』のような存在が、まさに目の前の少女を指すのだろうと、ぼんやりと思った。
そんな感想を考えている場合でもなければ、ここでゆっくりしている場合でもない。少女を地面から掘り返し、持ち上げ彼女のお腹を首元に乗せて、体全体を両肩で支え、俺はのっそりのっそりとタタン街に向けて歩みを進めていった。
魔力を一切使わず、自分の持つ体力と筋力のみで、少女を担ぎ進んだ。周囲を探索しても、特に脅威となるような魔物は近くには存在しない。あの大猿たちの魔力を探っても、既にどこにも奴らを示す魔力を感じない。俺を探して、草原のどこかを彷徨い歩いているのだろう。ご苦労なこった。
後1キロも歩けばタタン街へと到着する。街の周囲には以前に来たのと同様、数人の人々が列をなしていた。街へと入る順番を待っているのだろう。門番からのチェックを受けて入っている。
「やっとここまで来たか・・・」
今回も大猿の一群からの襲撃を何とか切り抜けた。本当に毎回毎回、あいつらと遭遇すると命懸けだ。
ふっとそんな愚痴が口をついてでてきた。両肩に乗る少女は全く事情を知らない状態で、今もスヤスヤと寝ている。どんな夢を見ている事やら。
後600メートルも進めばタタン街の入り口に到着するだろうと思ったその時、ある人影が俺の前に立ちはだかった。
その男性は兵士の装いを身にまとっていた。彼の服装は厳粛さと品位を兼ね備え、軽武装した服装の整ったラインが彼の身体を包んでいた。服装の隅々には細やかな縫製が施され、装飾的な細部にも気を配られていた。しかし、その堅苦しい衣装の中にも、男性の内に少し暗い影が見え隠れしていた。彼の顔には深いしわが刻まれ、たたずまいには戦場での経験や重みを感じさせる何かが漂っていた。
年としては、30代ぐらいか・・・
表情は厳粛でありながら、微かな憂いを帯びているかのようにも見える。彼の目は遠くを見つめ、時折、影を映し出すような深い沈思にふけっているようであった。
既にここに達する前から、何者かがここにいることは察知していたが、衛兵か冒険者の類かな、と勝手に想像していたが違うようだ。
「これは驚いた。こんなところでロア様にお会いできるとは・・・。君が担いでいるお方ですが、君が保護していただいたんですかね?」
「・・・」
俺は立ちすくみながら、何と答えたものかと思案した。
「なんという幸運でしょうか。大変感謝いたします。君が保護していただいた方をこちらに渡してもらいましょうか。ここからは私がその任を継がせていただきます。ご苦労様です」
「あんた誰?」
「私はあなたが保護してもらっている少女の護衛兵です。本当に感謝の思いでいっぱいです。報酬が必要であればお渡しいたしましょう。金貨1枚でいかがでしょうか?これだけあれば君も2、3年は暮らしていける金額じゃないですか?」
そう言って、ポケットから1枚の金貨を俺に見せてきた。
「あんたは、この子に呪いをかけた奴か?」
「!!!!????」
その護衛兵と名乗る者の顔が歪んだ。
「なるほどその表情だと、事情を知っている人だね」
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