嘘の蒐集家

天野創夜


 ――その夜はまるで空気を読んだかの様な土砂降りだった。


 新宿のとある路地裏、壁に沿って歩きながら僕ははあと息を吐いた。

 今日は最悪だ――そんな、まるで映画の主人公みたいな台詞を何度も言いながら、僕は夜の街を練り歩く。傘など持っていない。濡れた体に、冬の凍てつくような風が襲い掛かる。


「寒い……」


 薄茶色のコートをぎゅっと握りしめ、歩き続ける。

 どこからかパトカーのサイレンが聞こえた。この街はいつも騒がしい、何か事件でもあったのだろうか。


 そんな事を思いながら、やがて僕はとある店の前に立った。

 その店は寂れた場所にあって、ここだけ赤レンガの壁で作られていた。

 しかし僕が目を引かれたのは、店前にあった看板に書かれた文字だった。


『あなたの嘘、買い取り〼』


「……?」


 何度読んでも意味が分からなかった。

 嘘、嘘、嘘――口の中で何度も呟いて、悔しさと寂しさのあまり顔を歪ませた。

 なんと偶然なことか。丁度――その嘘によって僕は苦しめられたのだ。

 決して気になるという訳ではないが、暖も取りたい所だ。僕はその重い木製の扉を押した。


 店内は温かく、そしてどこか甘い匂いが漂う。

 優しい感じ、この都会では珍しいレトロなバーだ。

 客は……どうやら僕だけのようだ。


「こんにちは」


 止まり木の裏側、バーテンダーだろうか長身な女性が一人立っていた。

 胸元にあるネームプレートを見る。――香口虚楽こうぐちきょらと書かれてあった。


「すみません……何か、温かいものを頼めますか? 何でもいいです」


 バーテンダーに貰ったおしぼりとタオルで体を拭きながら、僕はそう注文する。

 そのバーテンダーは少し考え込んだあと、赤ワインを取り出した。

 果物を切ったり、赤ワインを煮たり……と十数分後、生乾きの服の気持ち悪さを味わっていた僕に差し出されたのは、カップに入った温かいワインだった。


「これは……?」


「マルドワインと言います。クリスマスの時なんかに良く飲まれているものです」


 説明を聞きながら、口を付ける。

 渋い味わいと、後から来る甘い味に舌なめずりをしながら、僕は続けて注文した。


「バーテンダーさん。何でもいいので、取り分け強いもの下さい」


「分かりました」


 面倒くさい注文でも、彼女は平然とそう答えて、直ぐに支度を始めた。

 日付を見る――時刻は既に日を跨いでおり、十二月の二十五日となっていた。


「そう言えば、店の前に置いてあった看板に書いてあったのですが……」


 ずっと気になっていた、バーテンダーの後ろにある酒棚。

 そこには酒だけではなく、小さな小瓶が幾つもあった。

 その小瓶の中には、小さな丸い光を帯びている玉がふわふわと浮いていた。

 流石に……酔ってはいないよな。そもそもアレはお酒を吞む前から見えていた。


「嘘を買い取るとかなんとか……」


「えぇ……私は嘘の蒐集家なので。バーはそのついでです。ほら、お酒の力を使わないと吐露こぼせないはなしもあるでしょう?」


 嘘の蒐集家――そう言った彼女の瞳は怖くて蠱惑的だった。

 あまりに大胆な嘘、身近な人まで騙しきる完璧な嘘、珍しい嘘。

 そんな嘘を彼女は蒐集しているのだと。

 ガラス瓶の中の玉は、その嘘を吐いた人の思念が入っていると。


 集めて何をするでもなく、展示して眺めるのが好きらしい。

 彼女はその滑らかな手で酒棚の中から三つの小瓶を取り出すと、僕に見せてくれた。


「ほら、これなんてすごいですよ」


 例えば。


 8人の愛人と付き合いながら、良い夫として妻に振る舞っていた男の嘘。

 3億円を強奪した上に、全くの別人に罪をなすりつけた男の嘘。

 片思いしていた男の子供を誘拐し、自分が母親だと言い聞かせて育てていた女の嘘。


 嘘――その言葉とは裏腹に、浮かぶ玉の色はどれも鮮やかであり、綺麗だった。

 僕はそれらを眺めながら、彼女に訊いた。


「嘘を蒐集すると、その嘘はどうなるんですか?」


「全てこの小瓶の中に納まって、嘘は消えてしまいます。結果だけが残されるという事です」


 故に、8人の愛人が居た男は妻に愛想を尽かされ、3億円強盗は逮捕され、子供は本来の両親の元に返された。彼らが吐いた嘘は消え、只々現実だけが残ったという事だ。


「なら――彼女の嘘を、買ってくれませんか?」


 彼女の嘘が無くなるのなら、僕は新しく前に進めるかもしれない。

 良いですよ――と、彼女は恭しくそう言った。

 僕は彼女に語った。積年の想いを吐露するように、積もり積もった泥を吐き出すかのように。


「僕は……将来を誓い合っていた想い人がいました。彼女とは大学生の頃に出会って、今年でもう六年目です」


「はい」


「けど……彼女は僕を裏切りました。彼女は僕なんかより、お金持ちの人を選んだんです」


 話していて、とてもつらくなった。だけど彼女は黙って聞いてくれた。

 いい人だな。彼女が本当に僕の恋人になってくれたらな……なんて。

 だけど話を聞き終えた彼女の口から聞こえたのは、衝撃の一言だった。


「おかしいですね。その彼女さんの嘘が蒐集出来ません」


「そんなバカな。本当のことなんです」


 それはおかしい。だけど虚楽さんはおかしいですねとつり上がった笑いを浮かべながら、そっと僕の方に器を渡す。赤色のワインだ。


「カーディナルと言います。今の貴方にふさわしい一杯かと」


 礼を言いながら少し口に含む。甘い味付け、ちびちび飲みながら、僕は想い返すように、気づけば吐露はなしていた。


「酷いんですよ。彼女、僕に一言も連絡しないで結婚しようとしたんです。ひどいでしょう? 普通言うじゃないですか。家に行ったらもぬけの殻で――」


 今まで好きだったのに。愛していたのに。

 それなのに、彼女はどうして僕に何も告げずに――。


「それにしても暑いですね、少し暖房を下げましょうか」


 すると虚楽さんは突然そう言って、上着のボタンを少し外した。その外すだけで震える胸の大きさに、ごくりと、喉を鳴らす。


「た、確かに少し暑いですね……」


「はい。そうですね……ではお客様」




「――どうしてコートを脱がないのですか?」




「……え?」


 その、あまりの言葉に僕は一瞬あっけにとられた。


「いえ、ずっと不思議だったんですよ。もう上着は乾いているはずなのに、こんなにも汗が掻かれていらっしゃるのに、一向に脱がなくて、しかもボタンまで占めて」


「いや……これは……」


 コートのボタン付近をぎゅっと握りしめる。

 なんで、いまそれが重要なのか。

 僕が何か言う前に、虚楽さんは話を切り替えた。


「それに話を聞きましたが――その女性は本当に、お客様を愛されていたでしょうか?」


「……は?」


「いえ、少し気になってしまって。私は嘘の蒐集家です。人の嘘を見抜くのは得意なんですよ」


 虚楽さんは淡々と僕に言い続ける。

 なにを……なにを言っているんだ?


「ですがその女性の嘘は蒐集できません――その嘘は、彼女のものではないからです」


 意味が分からない。意味が分からない。彼女の言っている事が、何一つ分からない。

 だって――。


「だって、おかしいじゃないか。僕は彼女のことが好きなんだ。彼女の笑顔が、その仕草がたまらなく愛おしくて、向こうだって僕のことが好きに決まってるはずさ。だって僕が話しかけるといつも返して貰えるし、僕と一緒の講義を受けているし、そんなの僕が好きってことで良いじゃないか。だから僕は彼女のことを知らなきゃなって思った。相互理解は大切だと思って。住所に家族関係も今では覚えている。それに彼女の友達だって把握している。いつも彼女の隣にいる幸子ちゃんは可愛くて月島さんは綺麗だ。だけどそれにも負けないくらい彼女は美しくて聡明で、そうそれはまるで桜のような人で。愛しているよって何度も聞いたんだ。嘘じゃない。だけど不安だったんだ。僕という存在がいるのに他の男に現を抜かして――そうか、その男が、彼だったんだ」


 怒りが沸々と湧き上がる。僕の、僕だけの彼女を奪い取りやがって――。


「どこに行くおつもりですか?」


「今から彼と会ってくる。そうだ、もしかしたら彼女は騙されているかもしれない。いや、そうに違いない。どうせ買い取るなら彼の嘘にしよう。そうすれば、きっと彼女は――」


「いえ、その必要はありません」


 虚楽さんはそう言うと、小瓶の封を開けて、僕の前に差し出す。



「私が蒐集するのは、貴方の嘘ですから」



 その小瓶の口から、何か黒いものが溢れて行って――まるで吸い込まれるかの様に僕はその口の中に入り込んだしまった。


 ==


「……っ!?」


 気づけば僕は、あの路地裏にいた。雨は土砂降りだが、何故か花柄の傘を手に持っていた。頭が痛い……僕は……何をしていたんだっけ……?

 その時、僕は上着を閉められていないことに気づいた。自分の胸元を見る。

 その白い服には――赤い血が、べっとりとついていた。


「あ、あ、あ……っ!!」


 ――本当は、分かっていた。


 彼女が本当は僕のことを愛するわけじゃ無くて。僕はただ付きまとわっていたことを。逆上して彼女を刺してしまったことを。

 さっきからうるさいパトカーは、僕のことを探していたということを。


「ははは、ははは……はははははははははははははは!!」


 ==


 どこからか狂った笑い声が聞こえて、虚楽は薄く笑みを浮かべる。

 それは先ほど出て行った彼ではなく――手にある一つの小瓶に向けられていた。


「とても良い嘘を頂きました」


 その小瓶の中にある玉の色は――何度も色を変えていた。

 怒りなのか、悲しみなのか、それとも喜びなのか、はたまた後悔なのか。


「自分自身さえ騙してしまうほどの完璧な嘘。殺人という大罪さえも隠してしまう大胆さ。これは非常に珍しい。一番いい場所に飾らなくては」


 愛おしそうに撫でながら、棚の目立つ箇所に置く。

 その時、カランコロンとドアベルが鳴り響いた。


「あ、あの……嘘を買い取ってくれると聞いたのですが……」


 目の前にいる人物の顔を、瞳を覗いて――虚楽は薄っすらと笑みを浮かべた。

 恭しく頭を下げながら、虚楽は今日も嘘を蒐集する。




「ようこそ、お客様——貴方の嘘、買い取り〼」













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