第54話
「すみません。ドア開けてもらってもいいですか?」
「おっけー。はいよ」
「ありがとうございます」
私は両手に持った二つのマグカップを机の上に置き、開けてもらったドアを閉める。
今いれたばかりのお茶からはこれでもかと湯気が立ちのぼっており、少し冷まさないと舌を火傷してしまいそうだ。
「お茶ありがと」
「いえいえ」
私はエアコンの暖房をつけ、机を挟んで、世莉さんの正面に座る。
「お母さんさあ、なんか嫌なことあったのか知らないけど、昨日ずっとイライラしててさあ」
「…………はあ」
「私が服を脱ぎ散らかしてただけで怒鳴ってきたんだよ? ありえなくない?」
「はあ……」
服を脱ぎ散らかしてただけ…… だけ……
「それで私も頭にきちゃって、お母さんへの愚痴をいろいろ言っちゃったわけ。そしたらお母さんも言い返してきてさあ」
最初は急に何を言ってるのかよくわからなったが、途中で世莉さんと世莉さんのお母さんの喧嘩の話をしているのだと気がついた。
現に世莉さんがかなり不満気な顔をしている。
「お母さんには私の家に泊まるってちゃんと連絡しました?」
「したよ。したけど見てこれ! 既読スルー!」
そう言って、世莉さんはスマホの画面を私に見せてくれた。『今日は友達の家に泊まるから。あと昨日はごめん』という文章が数十分前に送られている。
「喧嘩してるとはいえ、せめてスタンプの一個でも送れないのって話じゃない!? せっかくこっちが歩み寄ってるのにさあ!」
世莉さんは口を大きく膨らませ、眉間に皺を寄せている。
世莉さんの話だけではどちらが悪いとか決められることではないので、私はただ、うんうんと頷いておく。
「というか、私、友達なんですね」
私は先程の『今日は友達の家に泊まる』という文章を思い出して言った。
友達になった覚えはないんだけど。
「え、特別な人とかの方が良かった? それとも世界で一番大事な──」
「友達で結構です」
世莉さんのこの流れを放置しておくと長くなりそうなので、私は強制的に話を打ち切る。そして話を本題に進めることにする。
「それで相談のことなんですけど」
「ああ、うん」
「私、本当に日和に告白するべきか迷ってて。その、結局は自分で決めなきゃいけないことだっていうのはわかってるんですけど、それでも世莉さんの意見を聞きたくて」
私はとりあえず出てきた言葉をそのまま口にした。でも、これで言いたいことはおおよそ伝わっているはず。
日和と今のままの関係を維持する方を選ぶのか、破綻する可能性がある方を選ぶのか。
最終的な判断を下すのは私だ。だけど、どうしたらいいのか、自分だけでは本当によくわからなくなっている。
世莉さんにこんな相談なんて絶対にしたくないけど、その絶対さえ覆されてしまうくらいに私の頭はいっぱいいっぱいなのだ。
「……私の意見でいいんだよね?」
「はい」
「そう。私にはさ、椿ちゃんが苦しんでるようにしか見えないんだよ」
「え?」
「泣いたり傷ついたり。それってずっと抱えてないといけないものなの? そうまでしてずっと日和に囚われてないといけないの?」
「囚われ……」
なるべく考えないようにしていたことを突然指摘されて、心が締め付けられる。
私は日和に囚われている。私もそう思う。
日和に恋をして、楽しいこと苦しいこと。数え切れないほどのたくさんの想いが私の心の引き出しには詰められている。
楽しいこと、嬉しいこと、ドキドキすること、たくさんあった。だけど、ツラい、悲しい、苦しい。そんなマイナスな感情は引き出しに入り切らず、溢れ出して、私の頭を悩ませている。
こんなふうに感情の釣り合いがとれなくなったのは、日和に彼氏ができてからだ。
「だから私はちゃんと告白するべきだと思ってる。そうしないと椿ちゃんは前に進めないよ」
「……前に、進む」
前に進む。それは私がずっと考えていた言葉だった。
「日和との関係がどう変わるかとか、日和がどう思うかとか、そんなの知らない。私は椿ちゃんの幸せのために言ってるんだよ。椿ちゃんが幸せだと思ってくれたら私はそれでいいの」
「私の、幸せ……? しあわ……せ……」
私の幸せってなんだろう。
日和と付き合えないなら、それはもう不幸せということではないんだろうか。日和と友達でさえいられなくなるかもしれない未来の先に幸せなんて待っているのだろうか。
それに、なんでこの人は私の幸せのことなんか考えているのだろうか。そんなこと世莉さんにとってはどうでもいいことなのに。
わからない。わからないけど……
「……世莉さんって本当に謎」
「え?」
「だって私を脅して交換条件なんか突きつけた上に、私のことを振り回して遊ぶくせに、優しいときは優しいし、私の幸せとか言い出しちゃうし、なんなんですか、ほんと……」
「そ、それは……」
「なんで…… どうして……」
優しくしないで。
「え!? ちょっ、椿ちゃん!? なんで!? 泣かないで!?」
「え……」
気がつけば私の頬には涙が伝っていた。しかもかなり大量の。鼻水まで顔を出している。
なんで私は泣いているのだろうか。私にもよくわからない涙だった。
「てぃ、ティッシュ…… ティッシュどこ!?」
そう言って、世莉さんはあたふた慌てている。
「なんで。なんでそんなに私に優しくするんですか!? なんで世莉さんのことを最低な人だって思わせてくれないんですか!?」
世莉さんの優しさを嬉しいと思ってしまう。世莉さんに話を聞いてもらえて良かったと思ってしまう。今、世莉さんが隣にいてくれて安心してしまっている。
喜怒哀楽の楽以外の感情がごっちゃになって、私は今、私の感情がよくわからない。
「……その」
私が一通り言いたいことを言ったあと、世莉さんが口を開いた。
「交換条件のこととかはごめん。本当に遊び半分だったっていうか。最低だけど。で、でも、椿ちゃんが苦しそうだったから。私が助けてあげなきゃって思ったのは本当で。それだけは本当に本当で……」
その後も世莉さんは同じような内容をぶつぶつと繰り返していた。自分で自分の気持ちを探すみたいに。
その様子を見て、私はティッシュで涙を拭い、鼻で息を大きく吸って、鼻水を引っ込めた。
私にもこの人の全てはわからない。
だから無視してきた。どうせわからないのに考えても、疲れるだけだから。そして、起こった事実も無視してきた。私の良くないところだと思う。
今まで起こったことをちゃんと無視せずに繋ぎ合わせるとすると──
「じゃあ。世莉さんは最低だけど、最高な面もある人ってことですね」
「…………え」
この人を何か一つの性格だけで決めつけようとする私が間違っていたのかもしれない。
「……世莉さん。私、日和に告白します」
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