相楽世莉

第19話

 水嶋椿という人間をしっかりと認識したのは私が交換条件を持ち掛けるよりも少し前。


 どしゃぶりの雨が降っている日のことだった。


「……ちょっとお姉ちゃん」

「んー?」

「人の顔をジロジロ見ないでよ」

「別にいいじゃん」

「勉強に集中できないからやめてよねー、もう」


 目の前では私の妹である相楽日和がもくもくと宿題をこなしている。


 自分の部屋だとサボってしまうからという理由で、いつもリビングで勉強をすることにしているらしい。真面目なヤツ。


「最近さ、椿とお姉ちゃんって仲良いよね」

「んー、まあそうだね」


 日和は私と椿ちゃんが一日一回はキスをしているなんてことは知らない。仲が良いのではなく、私と椿ちゃんが交換条件という不安定なもので繋がれていることも。


 私はあの日、たまたま椿ちゃんを見かけた日のことを思い出す。


 生徒会の仕事のせいで遅くなってしまい、大雨の中帰らなくてはならなくなった私は眉間に皺を寄せているのが自分でも分かるくらいにイライラしていた。


 なりたくもない生徒会長になってから、さらに性格が悪くなった気がする。


 ため息をつきながらも早足で歩いていると、私はまだ日和と仲の良い幼なじみという印象でしかなかった椿ちゃんらしき人を見かけた。


 らしき人……というのは、椿ちゃんが道の曲がり角近くでこんな大雨の中、傘をさして屈んでいて、本当に椿ちゃんかどうかを疑ったからだ。


 だた、椿ちゃんの目の前に湿りきった段ボール箱とその中に猫が一匹。私はすぐに理由を察した。


 気分が良くなかった私は「どうもおつかれさま~」なんて、椿ちゃんのことを心の中であざ笑いながら通り過ぎようとした。だけど、雨が少し小降りになっていたこともあってか、椿ちゃんの悲し気な声が聞こえてきたことで足を止めた。


『今日さ、日和がずっと楽しそうに好きな先輩の話しててね。私が日和のこと好きだなんて気持ち何にも知らないでさ。泣きそうだったけどちゃんと我慢したんだよ。偉いでしょ。頑張って、日和なら大丈夫だよって笑ってさ』


 正確には覚えていないけど、こんな感じの内容だったことは確かだ。


 私はさっきまで自分がイライラしていたことなんてどこかに忘れてしまっていた。


 この子は日和のことが好きなのか、という驚きが第一の感想。可哀想な人、という哀れみが第二の感想。


 椿ちゃんはそのまま私の存在に一切気づくことはなく、猫が濡れないように、傘をその場に残して、帰って行ってしまった。


 段ボール箱の中で、これまた椿ちゃんが残していったであろうタオルにうずくまった猫が、お礼を言うようにニャーと鳴いたことを椿ちゃんはきっと知らないだろう。


「お姉ちゃん? おーい、お姉ちゃーん」

「ん? 何?」

「なんかぼーっとしてるけど大丈夫?」

「あー、大丈夫大丈夫」


 私は改めて日和の顔を見つめる。


 椿ちゃんは日和のどこがそんなに好きなんだろうか。


 顔は私に似て可愛いけど、日和よりはメイクも髪の毛も服だってちゃんとしているし、流行は欠かさずにチェックしているつもりだ。勉強も運動だって私の方ができるし、日和よりはいろんなことを器用にこなせるはず。


 私が日和に劣っているところはほとんどないはずだ。


「…………日和ってさ、キスしたことある?」

「へ!? お、お姉ちゃん、急に何言ってるの!?」


 驚いた声と一緒に、日和の持っていたシャープペンシルの先で芯がポキッと音をたてた。


「したことあるの?」

「な、なんでそんなことお姉ちゃんに言わないといけないの!?」

「いいじゃん、教えてよ」

「なんでよお……」


 日和は思ったよりも動揺している。


 今まで日和とこんな話をしたことは一度もない上に、急にキスなんて話題を振られて困っているというところまで簡単に推測できる。


「で? したことあるの?」


 数秒の沈黙が続いた後、日和の口が小さく開いた。


「……そ、その、し、したこと、ある……けど……」


 日和は顔を赤らめながら、消えてしまいそうな声で呟いた。


「も、もうこの話おしまい! 私、もう部屋に戻るから!」

「あ、ちょ、日和! 筆箱忘れて…… って、はあ……」


 日和は私の声を聞かずに、ドタバタと音をたてながらリビングから出て行ってしまった。


 全く。日和は純粋すぎるんだよなあ。たかがキスくらいでさ。


「……日和、したことあるんだなあ」


 これを知ったら椿ちゃんは悲しむだろうな。いや、もしかしたら日和が普通に話していて、すでに知っているかもしれない。だとしたら、そんなに可哀想なことってあるだろうか。


「私の方がよっぽどいいと思うけど……」


 日和を見ていると余計に。


 焦った日和が置き忘れて行った筆箱を見つめながらそう呟いた。

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