第10話

『ねえ俺と付き合ってよ。水嶋さん、めっちゃタイプなんだよね』


 白い天井がぼんやりと目に映る。自分の体。すぐ傍にあった目覚まし時計。壁にかかっているカレンダー。順番にいろんなものの輪郭がはっきりとしてくる。


 私は見慣れているはずの自分の部屋を見回し、家に帰るなり、着替えることもせずに、すぐに眠ってしまったことをぼんやりとしている頭で思い出した。


 体は元気なのに、頭にはもやがかかったみたいで、すっきりしない。


 全部世莉さんのせいだ、と心の中で責めてみても、もやは晴れてくれない。 


 しかも追い打ちをかけてくるように、ものすごく嫌な夢を見てしまった。ご丁寧に夢にまで出てこなくてもいいのに。


 私は重い頭を起こして、部屋のドアノブに手をかける。


 佐伯慶。私の彼氏だった人。……という、この表現が正しいのかは分からない。


 彼氏という名称を使うには、足りていないものが多すぎるから。


 交際期間はたったの一週間。名前を呼んだこともないし、恋愛感情すら存在しない。


 これで私たちは付き合っていたと言えるんだろうか。主観で考えるとするならば、彼氏彼女の関係ではないことは一目瞭然。だけど、客観で考えると、二年前の私と佐伯慶の関係は彼氏彼女だったという事実を変えることはできない。


「はあ……」


 怖いほどにシーンとした真っ暗なリビングを通り過ぎて、洗面所に明かりをつける。


 最近はいつもよりもお母さんが家に帰ってくることが多い。そこまで忙しくない時期なんだろうか。今のところはまだ帰ってきていないみたいだけど。


 洗面台に置いてある私専用のコップを手に取って、水を入れる。なるべく音が立つようにガラガラとうがいをして、嫌な記憶を洗い流すかのように水を吐き出す。


「はあ……」


 ため息が止まらない。


 私は当時の記憶を遡って行く。


 数年前の私は今よりも気が弱かった。それはもう数百倍くらいは。


 コミュニケーション能力は全然ないし、人前に出るなんてもってのほか。相手の気持ちを勝手に予想して、被害妄想を繰り広げるようなオドオドした人間だった。それでも、最低限はへらへらと笑って周りに合わせることができたので、自分をクラスの中で分類するとすれば、中の下くらいの存在。


 そんな私が中学二年生だったある日、急に知らない先輩から告白された。


 あら、びっくり、どころの話ではない。カッコいいと中学の中では有名な先輩だったので、名前くらいは聞いたことはあったが、もちろん一度も話したことのない人だ。


 私は当然動揺する。ほとんどのクラスメイトが見ている教室のど真ん中で告白をされ、告白されたという事実よりも周りの視線の的になっていることに極度の緊張を覚えた。


 好奇の視線にさらされながら、みんなが私の発言を待っている状況。


 刻一刻と処刑時間が迫ってきている受刑者のような気分だった。


 ついに耐えられなくなった私は小さく頷いてしまい、佐伯慶と付き合うことが確定したあのときの感情は絶望。


 原因は佐伯慶の押しの強さ、私の気の弱さ、周りの囃し立てる声。今思うと、その全てに腹が立つ。


「ほんと疲れる……」


 暗いリビングの中で、テレビをつける。


 画面の奥では非日常そうなドラマが展開されていた。


 眺めているうちに、私もその中に飛び込みたくなる。現実逃避でもしたくなったのだろうか。


 頭が働いていないので、内容は全く入ってこない。時間の流れを感じるように、そのドラマを目だけで追っていく。


 なんでよりによって世莉さんの彼氏があの人なんだろう。


 私は当時、すでに日和のことが好きだったので、付き合うわけにはいかなかった。


 みんなに隠れてひっそりと焦りまくった私は、勇気を振り絞って、その日のうちに申し訳ないけど、付き合えないと告げることに成功した。


 だけど、よし、これで問題なく解決だ……とはならなかった。


 私はその場で無理やりキスをされたのだ。


 ええって疑っちゃうよね、分かる。そんなことするやつがいるのかと思うよね。でも、広い世の中には本当にいる。


 あのときの感覚を身の毛もよだつような、というふうに表現するんだろう。涙が出るくらいの気持ち悪さしか感じなかった。


 私は一週間別れたいと言い続け、相手もようやく折れてくれて、結局はなんとか無事に別れられた。いや、無事ではなかったかもしれないけど……


 これがトラウマだなんて、一丁前に言うつもりはないけど、あのときの出来事が私の今の性格に影響を及ぼしているのは間違いない。


「椿!?」


 驚きの声と同時に、リビングが柔らかい光に包まれる。


「あ、お母さん。ただいま。早かったね?」

「今日は仕事が早く終わってラッキー! ……ってそうじゃなくて! なんで電気もつけずにテレビ見てんのよ! びっくりしたじゃない!」

「驚かせようと思ったのー」


 私はソファから立ち上がって、お母さんが手に持っているビニール袋を受け取る。中にはスーパーで買ってきたであろう唐揚げと餃子が入っていた。


 変なことを思い出してしまったせいで、心が沈んでしまっている。


 いつも通りいつも通りっと。


「まあいいわ。お腹すいた! 早くご飯食べよ!」

「うん」


 わたしはお茶碗に炊飯器からお米をよそって、机の上に置く。


 帰ってからすぐに、ない気力を底から振り絞ってお米だけは炊いておいた私を褒めてあげたい。


「はい、できたよ」

「わーい! いただきまーす!」


 お母さんはまるで子供かのように、目の前のご飯にがっついている。


 お皿の上には茶色ばかりで緑が見えない。栄養バランスなんて言葉は我が家に存在しないのだ。


「ほんと子供みたいなんだから……」


 お母さんを見ていると、自然と顔が緩んで、心がだんだんと温かくなっていく。


 私はお母さんとの二人暮らし。何年も前に離婚していて、お父さんはいないし、兄弟姉妹もいない。だからといって、それを不満に思ったことはほとんどない。


「子供なのは椿の方よ。なんかつらいことあったでしょ?」

「っ……」


 進んでいた箸が止まる。


 私のお母さんがそうなのか、それとも世の母親が全てそうなのかは分からないが、子供のささいな変化に気が付くというのは厄介な能力だ。


 私は箸をぎゅっと強く握って、ゆっくりとご飯からお母さんに視線を移した。


「………え、お母さん」

「ん?」

「……ちょっ、あはははっ!」

「な、何よ! 人の顔を見て!」


 私はお母さんの顔を見て、思わず吹き出してしまった。


 リスみたいに食べ物で頬をぱんぱんに膨らませながら、私の心配をしているのだ。もきゅもきゅという可愛い擬音が聞こえてきそうなくらいだ。


「……ふふっ、心配してくれるなら箸くらい止めてよ」

「と、止めたくても止まらないのよ!」

「あははっ、なんかお母さん見てたら元気出てきた」

「そう? なら良かった良かった!」


 箸を強く握っていた力が自然と緩んでくる。


 やっぱり母というのは厄介で偉大だ。


 私は大きな唐揚げを一口で頬張る。いつもと同じ味の唐揚げなはずなのに、なぜかとても美味しく感じた。

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