第9話

 目が覚めて、時間を確認するとすでに放課後だった。


 このまま帰るか、それとも日和と一緒に帰るために部活が終わるまで時間を潰すか。そんなことに悩みながら私は閉められていたカーテンをゆっくりと開けた。


 目の前では物憂げに窓の傍で外の景色を眺めている雪ちゃんが映った。


「おや、ようやくお目覚めか? よく眠ったもんだ。ストレスでも溜まってるのか?」

「そうですね」


 私は保健室の椅子に腰を掛ける。


 誰かさんのせいでストレスは毎日とれず、溜まっていくばかり。


 その張本人である誰かさんはもう保健室からはいなくなっていた。


 まあ当たり前か。あの人も生徒会があるから、いろいろ大変なんだろうし。


「この漫画でも貸してやろうか? ストレス緩和になるぞ」


 雪ちゃんは机に置いてあった、漫画を持ち上げた。


 カバーからして、さっきも話題になっていた、自称自分の家から持参した漫画だった。


「何のジャンルですか?」

「ゴリゴリのBL」

「遠慮させて頂きます」


 誰が学校にゴリゴリのBL漫画持ってきてんだよ。疲れちゃうくらいツッコミどころしかないじゃん。


「じゃあそこのカーテンを開けて覗いてみろ。面白いものが見れるぞ」

「……?」


 私は首を傾げながらも、雪ちゃんが指を指した方向にあったカーテンから、外の景色を覗いた。


 あれは…… 世莉さん? と、もうひと……り……


「っ……」


 最悪なものを目にしてしまった。


 できることなら今すぐにでも記憶から消したい。だけど、悲しいことに私の脳はその光景を忘れさせてはくれない。


 草やコケが生い茂っていて、あまり綺麗とは言えない校舎裏に立っていたのは二人の男女。


 一人は世莉さん。もう一人は佐伯慶さえきけいという一学年上の先輩。この人が世莉さんの彼氏だ。


 二人が一緒にいること自体に問題があるのではない。問題なのは……


「ここはいつもカーテンを閉めてあるからな。こっち側から覗かれていることには気が付かないんだろう。ふっ、キスをしているのを見られてるとは知らずに。バカなやつらだ」


 雪ちゃんは得意げな様子で鼻をふふんと鳴らしている。


 校舎裏に来て、隠れているつもりなのかもしれないけど、保健室からは二人の様子が丸見えだ。唇を重ねている場面までがばっちりと窓の外に映っている。


 そう。問題は二人がキスをしていることにあるのだ。佐伯慶は世莉さんの彼氏。別にキスくらいするでしょ、と言われると、そうだよねとしか言えない。


 だけど……


 今まであまり考えないようにしていた。


 私が世莉さんとキスをしているということは、事実として、世莉さんの彼氏と間接キスをしているということになる。


 私は無意識に唇を手の甲で擦っていた。


「どうした、そんなに顔をしかめて?」

「……生徒にあんな生もののキスシーンなんか見ろって言わない方がいいですよ」

「水嶋、外画は見ないのか?」

「映画であってくれた方が何倍もマシだったんですけどね」


 相楽世莉は学校ピラミッドの頂点に位置している存在だ。顔良し、勉強良し、スポーツ良し。性格も良くて、誰にでも優しい。学校で一番のイケメンと付き合っていて、しかも全生徒を取りまとめる生徒会長。非の打ちどころが一切ないみんなの憧れ。


 そんな表面みたいな情報しか知らない。


 いくら世莉さんが日和のお姉ちゃんだとはいえ、結局はよく知らない有名な先輩なのだ。


 世莉さんの考えていることなんて理解できないし、私にとっては、もうそういう人なんだなと思って、受け入れるしかない存在。


 だけど。だけどさすがに、世莉さんの彼氏と私が間接キスをしているという事実だけは受け入れることができそうになかった。


 私の考えすぎなのかもしれない。間接キスなんて大袈裟だとも思う。


 だけど、心の中に浮かんでくる言葉は「気持ち悪い」でしかなかった。


 私はその言葉をなんとか口に出さないように、必死に口元を押さえることが精いっぱいになっていた。


 世莉さんに彼氏がいようが、いまいが、どうだっていい。


 その彼氏が佐伯慶でさえなければ、こんな思いしなくて良かったのに……


「どうした水嶋? 顔色悪いぞ?」

「っ……」


 雪ちゃんの声が私を現実に引き戻してくれる。


 手をだらんと、口元から離す。


「……大丈夫です。私、もう帰りますね」

「本当に大丈夫か? 無理はするな。家まで送って行ってやるぞ」

「いえ、本当に大丈夫なんで」


 私はなんとか口角を上げて、保健室から出て行った。


 佐伯慶。最近はあの人を見ても、大して何も思わなくなっていた。


 あっちも私のことなんて覚えてもいないだろうし、すれ違っても、私の知っている佐伯慶ではないと認識して過ごしていた。


 私と同じ中学出身で、一つ上の先輩で、サッカー部のエースで、世莉さんの彼氏で── 


 ──二年前、私の彼氏だった人。

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