第8話
「─い。おーい。おーいってば。聞こえてるかな？」
まどろみのような気持ちの良い世界から私を引き戻す声。
蛍光灯の光の下で、暗く影になっていてもよく分かる綺麗な顔が私を覗いていた。
「チャイム鳴ったぞ」
まだ少し重たい瞼を開くと、どこかに行っていたはずの保健室の主がそこに立っている。
私は上半身を起こして時計を確認した。
ちょうど四時間目の授業が終わったくらい……か。
「君はこの前も来た子だね。確か水嶋……だったかな？ なんだ？ 私のいない間に堂々とサボりか？」
「はい、サボりです！」
と、そう答えたのは私の口ではなく、隣のベッドでいたずらな笑顔を浮かべている世莉さんだった。
誰のせいでサボることになったんだという苛立ちはとりあえず押さえておいて、私は予め決めておいた言葉を口にする。
「いえ、少し熱っぽかったので」
「ほほう」
「というかサボりはそっちの生徒会長さんの方です」
「ふむ、そうなのかな、生徒会長さん？」
「うん。そうだけど？」
世莉さんの表情には一切の悪びれがない。「何が悪いの？」というオーラが隠す気もなく前面に押し出されている。
生徒の長でありながら、授業をサボることに対してここまで罪悪感を持たない人も珍しい。不思議だ。どうやったらこれほどまでに強い心臓の持ち主が生まれてくるのだろうか。
「ちょっとくらいサボってもいいじゃん。私、勉強できるし」
「そうか。それなら問題ないな」
いや問題大ありだろとツッコみたくなるが、この先生にそんなこと言っても通じない。
この先生、今の発言からも分かるとおり、かなりの変人である。
自分に都合が悪くなければ生徒が保健室にサボりに来ても帰れとは言わないし、保健室で遊んでいても、横で優雅にお茶を飲んでいるだけ。良く言えば先生という型にはまっていない、悪く言えば先生の役割を放棄しているといったところだろうか。
「ところで、雪ちゃんはどこ行ってたの？」
裏では私を含め、みんな先生のことを雪ちゃんと呼んでいる。だけど、こんなに堂々と本人を目の前にして雪ちゃんと言える人もそうそうはいない。
みんな雪ちゃんのことを｢先生｣という枠で捉えているからだろう。
「ん？ ああ、校長に呼び出されてお茶をしていた」
この人も呼び方なんかを気にする人ではないので、何の淀みもなく会話は成立していく。
「いやあ、困ったもんだ。どうにも校長という役職に就く人間は話が長い」
雪ちゃんはやれやれとため息を漏らした。
「校長と雪ちゃんって仲良いんだ？」
「たまたま知り合いだっただけだ。そんなに仲良くはない」
雪ちゃんは机の上に置いてあった漫画を手に取って、足を組む。
雪ちゃんはスタイルが良いので、足を組むと足の長さが余計に際立つ。
白衣の下には黒っぽくてスーツに似た服を着ており、本人の顔の綺麗さも相まって、見た目だけだと完全にカッコイイ大人の女性そのものだ。
「君たちもそろそろ帰りなさい。私はこれから一人で高級なサンドイッチをつまみながら漫画の時間を楽しむのだよ、ふふん」
そう言って、雪ちゃんは傍にあったメガネをスチャリと装着して鼻を鳴らした。
私には分かる。きっと雪ちゃんは高級なサンドイッチをつなみながら漫画の時間を楽しめないだろうと。
雪ちゃんのすぐ目の前では世莉さんが獲物を定めたトンビのように眺めているのだ。
「……雪ちゃん、その漫画どうしたの？」
「むっ、これは私が家から持参したものだ。決して生徒から取り上げたものではないぞ！」
保健室に少しだけ沈黙が流れる。
それはもう取り上げました、と言っているようなものだけど、雪ちゃんは至って真剣な顔をしていた。
やっぱり変な先生。
「へえ、取り上げたんだあ」
私は「可哀想な人……」と雪ちゃんに同情しながら、ベッドの上で二人の成り行きを傍観する。
「ち、違う！ 家から持参したと言ってるだろう！」
「そんな隠さなくても～。どうしようかなあ。
「なっ！？ それはやめてくれ！」
笠原先生とは生徒会の担当をしている先生で、面倒くさいと学校中の誰もが口を揃える生徒指導の先生である。
雪ちゃんの反応を見る限り、どうやらその評価は先生の中でも同じであるらしい。
「じゃあ代わりにそのサンドイッチ頂戴！」
悪魔が満面の笑みで手を差し出した。
人間と悪魔が契約をするシーンを見るのは人生で初めてだ。思ったよりも悪魔が邪悪すぎるな、これは。
口を出すと悪魔が私の方にまで悪影響を及ぼす可能性が高いので、ここは黙っておくのが正解。
「ぐぬぬぬぬ…… し、しかしこれは……」
「あー、今日笠原先生と生徒会で会う予定なんだよなあー。絶対伝えないとなー」
「あ、はいどうぞ」
「わー、雪ちゃん優しい！ ありがとう！」
苦虫でも噛み潰したかのような顔の雪ちゃんから、サンドイッチの入った箱が世莉さんの手へと渡された。
保健室の主でも保健室の悪魔には勝てないらしい。
「椿ちゃんも食べる？」
「……いらないです」
世莉さんがサンドイッチをむしゃむしゃと頬張る姿を見て雪ちゃんが顔をひくつかせているのに、食べますとは言い難い空気だ。
「私のサンドイッチ……」
勝者と敗者がくっきりと可視化されている。可哀想だけど、あんな悪魔相手に私ができることはない。
「ああ、そうだ。昨日相楽の彼氏がここに来て愚痴を漏らしていたぞ」
「愚痴？ あいつが？」
世莉さんは二個目のサンドイッチに手を伸ばしながら、問いかけた。
「素っ気ないだとかなんだとか言っていたな。もうちょっと彼氏に構ってやったらどうだ？ そして私にも優しくしてくれ」
「ふーん、あいつがねえ……」
雪ちゃんについては完全な無視を決め、世莉さんは考え込んだように何も話さなくなった。
急に沈黙が流れ、退屈になった私は小さく欠伸をする。そして、ふと今日の五時間目は体育だったことを思い出す。
最近の体育はずっとバレー、バレー、バレーで、試合をさせられてばかり。
柔らかいボールを使うソフトバレーだったらまだいいものの、あの骨折でもしそうなくらいの硬いボールを使うバレーは嫌いだ。手首辺りのダメージが毎回酷く、あざはできるし、内出血はするし。しかもそれなのにバレー部はムキムキなサーブを打ってきたりするし。
ああ、今日はもう全部サボってしまおうかな。そういう考えが一瞬でも生まれてしまえば、決断するのにそうそう時間はかからなかった。
「世莉さん、やっぱりサンドイッチ一つください」
「おっ、どうぞー」
百八十度意見を変えた私を雪ちゃんがものすごい顔で見ているような気がするが、気のせいということにしておこう。世の中、気のせいで済ました方がいいこともあるのだ。
私は貰ったサンドイッチを頬張って、胃が満足したあと、もう一度ベッドに横になった。
サンドイッチは確かに高級な味がした。
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