保健室と彼氏

第7話

 頭痛、腹痛、気分が悪い。どれが一番現実的だろうか。どれにしても私の下手な演技力が多少は試される。


 そんなことを誰もいない奇妙な廊下を歩きながら考えていた。


 少し開いた窓から吹き抜ける風と、ぼんやり聞こえる数学教師の声が、私の耳に許可なく侵入してくる。


 普通の学校生活でこんな時間に誰もいない廊下を歩くなんて、誰もがそんなに経験することではない。


 私は右手に持っていたスマホをタップした。


 午前十一時五十五分。四時間目も始まって二十分ほど経過した。……はずなのに、なんで私は机の上で勉強をしていないのだろうか。


 本来なら今頃、「あー、まだ二十分しか経ってないのかあ」とため息でもつきながら、シャーペンを回している頃のはず。そんな妄想の私とは違って、実際の私は教室から少し離れた保健室に向かって、静かに歩いているところだった。


 このまま教室に戻ることもできないし、それならいっそ誰にも気づかれず家に帰ってしまいたい。そうすれば保健室なんかに行かなくてもいい。


「はあ……」


 思わずため息が漏れた。


 現実逃避というものは、すればするほど現実が迫ってくるらしい。


 別に保健室という空間が嫌いなわけではない。保健室の先生が嫌いなわけでもない。なんなら保健室が学校の中で一番落ち着く場所だと思ってるし、先生も好きだ。


 だけど今だけ、あの人がいるときだけは、きっとどの部屋よりも邪悪なオーラを放っていることだろう。


 私はついに到着してしまった保健室のドアに手をかけた。


「失礼しまーす。ちょっと体調が悪いんで休ませて──」


 私は保健室の全体を見回して口を閉じた。


 「休ませてください」と言い終わる前に、保健室に先生がいないことに気が付いたのだ。


 代わりにスマホを見ながらベッドの上に座っている人物が一人。


「お、やっときた。遅くない? もう呼んでから十二分経ってるよ?」

「世莉さん…… 前も言いましたけど、さすがに授業中はやめてくださいよ……」


 授業中、世莉さんに呼び出されるのはこれで二度目。保健室に呼び出されるのもこれで二度目。その度に体調不良と偽る私の身にもなって欲しい。まだ二回目だからなんとかなっているものの、こんなことが続くようでは、体調を崩しまくらなければならない。


 世莉さんのせいで先生にサボりの疑いがかけられる日もそう遠くはない。そして、クラスメイトからはサボり魔だと囁かれるのだ。学校生活はまだあと二年あるのに、今の時点でそんな十字架を背負うくらいなら、面倒な授業を受けて、教室でシャーペンを回している方がよほど良い。


「先生は?」

「さあ。さっきまではいたんだけど、どっか行っちゃった」


 わざわざなんて嘘をつこうかと考えていたのに、無駄になってしまった。まあラッキーと言えばラッキーなのかもしれない。そう思うことにしておこう。


 私は世莉さんの座っている隣のベッドに腰を掛ける。


 固くて沈まないベッド、保健室の柔らかい匂い、世莉さんに呼び出されたことに対しての不満。その全てが重なって、私はベッドに沈んでいく。絶妙に薄い掛け布団が気持ちいい。


「ちょっと寝ないでよ」

「私、体調悪いんで。頭痛いし、お腹も痛いし、あと気分も悪いんで」

「そんなわけないでしょ」


 まだ温もりのない掛け布団が剥がされた。


 何するんだ、コノヤロウ。


「なんで呼んだか分かってるんでしょ?」


 私が横になっているベッドに世莉さんの右ひざを乗っけられた。右ひざ、右腕、左ひざ、左腕。徐々にベッドが世莉さんで侵食されていく。


 シャアッと甲高い音をたてて、そばのカーテンが閉められた。強制的に二人だけの空間みたいになる。


 私は表情を変えないようにしたまま、「はあ」とため息をついた。


「さっさとしてください」


 唇の力を抜いて、目を閉じる。


 キスにはもう慣れた、とまではさすがに言わないけど、二週間も経てばそういう雰囲気は察知できるものである。そもそも世莉さんが私を呼び出す理由はそれしかないんだけどね。


 世莉さんの湿った唇が私の唇に触れた。


「んっ……」


 すぐに世莉さんの舌が私の口の中で暴れ出して、息苦しくなる。


 くちゅくちゅという気持ちの悪い音が聞こえるのはどうも苦手だ。だから、別のことに考えを巡らせる。


「はあ、んんっ……」


 なんだか口の中がちょっとだけ甘い。


 そろそろ乾燥してくる時期だし、リップクリームでも塗っているのだろうか。ああ、だからいつもよりも世莉さんの唇が湿っていたのか、なんて、普通なら絶対に今考えるべきではないことを考えている。


 だけど、私と世莉さんの関係は普通ではないので、こんなことを考えることができるのである。


 世莉さんの唇が私から離れていく。


「ふう、気持ち良かった」


 世莉さんは満足そうに、笑顔を浮かべている。保健室に住み着く悪魔みたいだ。


「良かったですね……」


 別のことを考えているからといって、余裕をかませるわけではない。


 キスをされて、我慢をしても結局のところ体は熱くなるし、顔も赤くなるし。私がもうちょっと、無反応になることができれば世莉さんも飽きてくれるだろうか。


「じゃ、私は寝るので出て行ってください」


 私は世莉さんによって閉められたカーテンを勢いよく開く。


「はいはーい」


 体調不良の原因は熱っぽいでいこう。現に今、絶対体温高いし。これで嘘じゃない。


 私はもう一度、気持ちの良い布団に包まれがら、目を閉じた。

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